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2007.12.17 Monday
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2007.06.30 Saturday
東京IT新聞が無料購読


毎週、連載記事を執筆しているIT企業向け新聞です。
日経新聞やアエラのインターネット・IT版といったテイストです。グッド
個人でも会社でも無料購読OKです。無料
下記サイトで執筆記事読めます。(植田鉄也名義)



ITに特化したオフィス配送スタイルのタブロイド紙「東京IT新聞」。フリーペーパーは数多くありますが、独自のスタイルと他にはないパッケージが話題の新聞メディアです。昨年8月8日に創刊し、現在4000社/65000部以上の読者を獲得し、購読社数は日々増え続けています。当サイトにて、無料購読の申し込みを受け付けており、サイトからお申し込みいただくだけで、毎号お届け致します。購読料・配送料は無料ですので、ぜひご購読ください。



媒体名 東京IT新聞

欧文 THE TOKYO IT NEWSPAPER

版型 タブロイド版(490×297ミリ)
12頁 モノクロ/カラー (カラー1、6、7、12面)

発行日 毎週 火曜日

配布形態 コントロールド・サーキュレーション (申し込み制)

配布地域 日本全国

定価 無料 (購読料・配送料とも)

購読部数 65,000部

創刊日 2006年8月8日

発行 株式会社トレンドアクセス / 東京IT新聞

http://itnp.net
| テリー植田 | フリーペーパー | 11:37 | comments(0) | - |
2007.06.23 Saturday
逮捕直前!外山恒一インタビュー


熊本の破壊坊主か?!それとも、パンク革命家?!

獄中生活、乱立する高円寺のメディア&ストア「素人の乱」
との交友関係、都知事選挙出馬を経て、熊本⇔東京で煩悩を捨て妄想することとは?!
今最も注目されるアンタッチャブルな革命家・外山恒一氏が静かに吠える。
逮捕直前、インタビュー!
(聞き手:テリー植田 場所:ZATTS CAFE)


外山恒一さんをご存じない方は、まずこちらを!
http://jp.youtube.com/watch?v=l2C9lv5t0yQ&mode=related&search=

テリー:今は、熊本在住ですか?

外山:そうですね。熊本出身ではないんですけれども。

テリー:鹿児島ですよね?

外山:実質的には福岡なんですよ。鹿児島は生まれたところです。

福岡には4歳からいるから、20年以上は福岡ですね。

テリー:熊本に本拠地を置いたのは何か理由があったんですか?

外山:獄中に2年いまして、出た時に行き場がなくて、それまでは福岡で一人暮

らしをしていたんです。行き場がなくて困っていた時に、実家が鹿児島に移って

いたので、鹿児島の実家に行くか、友達のところに転がり込むか迷って。そしたら

熊本の友人が「うちに居候しないか」と持ちかけてくれてそれ以来熊本で生活

しています。最初は友人の熊本の家に居候していたんだけど、現在はもう部屋を

自分で借りて。東京に来る時は高円寺に滞在していますね。

テリー:都知事選の反響とかあったと思います。同志を探されてるということをよく言われていますが、都知事選以降何か変化がありましたか?

外山:今後仲間を集めるのに必要な知名度を上げるというのが都知事

選の目的ですから、それをまんまと達成しましたね。まだ具体的な形にはなってい

ないんだけども、例えば東京でのちょっとした交流会や飲み会であれば20〜30人はバッと流れてくる感じですね。

テリー:集まる人たちというのはどういう人たちですか?

外山:ほとんどは都知事選をきっかけに興味を持ってくれた人ですね。

テリー:東京の人たちってことですか?

外山:そうですね。世代も出身もバラバラ。20歳前後の人もいるし、僕36歳ですけど、僕よりちょっと年上の40歳前後までいます。

テリー:僕も36歳です。僕は奈良県出身で東京に出てきて11年ですが、いずれ故郷に戻って何か起こすのか、それとも東京で何かやっていくのかということをずーっと考えていて。僕の田舎自体は奈良県の材木の町とか万葉の町なんですよ。近辺に卑弥呼の墓があっ

たり、そういう場所で育ってきて。

外山:卑弥呼は九州ですけどね。(テリー&外山:一同に爆笑)

テリー:僕らは九州と畿内ですね。邪馬台国論話すと長くなりそうですね。(笑)

奈良の桜井は、産業が死んでいて、大阪のベットタウンでしかなくて。

将来、そこに自分が戻った時に何ができるのかと考えた場合に、非常に難しいなと。

外山:例えば、奈良県に戻って文化的なことを始めようとしても、それを受け入

れる層がないでしょ。僕が九州で塾をやるというのも、ここ20年近く九州で活動

を続けて、それまでは「面白いヤツを探す!」という感じだったんだけれども

、「いない!」というふうに断念したんです。面白いヤツは育てるしかないと。

最低限、多少センスがあれば面白がれるようなことって世の中いっぱいある訳

じゃないですか。でも地方だとなかなかそういう情報が入ってこない。そう

いうのを全部、僕が20年近くかけて溜め込んできた知識などの基礎的な部分だ

け半年間で詰め込み教育を行って、世の中にどういう音楽やどういう映画やどう

いう本があるのかっていう基本を押さえれば、あとはそれぞれの力量でいけるわ

けで。そうすると九州にも文化的なレベルの高い若者が育つだろうし、育った人

を隔離して九州各地でその人がさらに人を集めて広げていけばと。何かのシーンに介

入するんじゃなくて、シーンそのものを作っていかないといけないという状況だか

ら、地方は。

テリー:逆にすごいやりがいがある仕事だとも言えますね。僕が外山さんに共

感するのは、東京で何か起こそうというより、自分の街で何かを育てようという発想を

持たれている部分です。それが新しいと言うよりは、本質的な部分というか。

外山:成り行き、といえば成り行きなんですよね。別にそんなに九州が好きな訳じゃないし、どちらかというと九州嫌いだし。ただ、僕が18歳くらいの時に、政治運動の世界ですけど、反原発とか反管理教育とか、そのへんの運動をやっている同世代の17〜8の連中っていうのは全国で散らばっていて、そういう同士がダーッと繋がった時期があるんですね。で、「これは面白い」と。全国各地にいろんな奴がそれぞれに独自に活動していて、それが横に繋がってお互い影響を与え合うっていう関係は非常に面白いなと思って。だからそういう方向を目指してはいるんだけれども、そうやって繋がっちゃうと結局みんな東京に出て行っちゃうんですよね。繋がりがなければそれぞれ地域で頑張っていたかもしれないん

だけど、繋がりができたことがかえって東京誘致を促しちゃう。そういうのが嫌で、九州が好きなわけじゃないんだけども、これで僕も東京行っちゃったら何のために全国ネットワークを作ったのか、っていう話になるんで、そういうこだわりでずっといるだけなんです。

テリー:その発想は面白いですね。九州は東京志向ありますよね。

外山:九州もそうだし、まぁ全国大体そうでしょう。関西圏以外は。

だいたい九州だと、九州から大阪や東京に出るか、九州各地から福岡に出

るか、ですね。

テリー:以前から外山さんに聞きたいと思ってたことなんですけど、僕は奈良県の山や

川の中で育ってきて、飛鳥(石舞台や猿石などが点在する歴史的地域)に自転車で行けるくらいの距離でした。僕は無宗教ですが、信仰のようなものが、例えば大和三山だったり三輪山だったり川であったりします。外山さんにとっての信仰に変わるものって何かありますか?

外山:僕は宗派には属してないんだけど、個人的に仏教徒なんですよ。親鸞と道

元の2人がお気に入りですね。宗派的には禅宗と浄土宗ってことで違うんだけど

、やっぱり一番しっくりくる、あんまり非科学的なところがないのが好きですね

、道元・親鸞は。

テリー:具体的にどういうところですか?

外山:もともと仏教って非科学的な宗教じゃないと思うし、そもそも宗教なのか

というのもあるし。仏教で唯一宗教的・非科学的なことがあるとしたら「生まれ

変わり」ですよね。すべての生命は輪廻転生していると。そんなものは説得のた

めの仮説であって、問題は何かというと『この世は生きづらい・苦しい』という

ことでしょう?仏教をよく分かってない人は、仏教ってのは輪廻転生を信じている

みたいに言うけれども、そうじゃなくて仏教っていうのは輪廻転生をしてまたこ

んな酷い世の中に生まれてくるのは嫌だということなんですよね。で、仏陀なん

かを修行をして、もう二度とこの世に生まれてこないような解脱をしたっていう

話なんですよ。どうすればこの酷い世の中に二度と生まれてこないで済むかというと、過

激にも走らず、日々の事に溺れたりもせず、ほどほどに生きろってことじゃない

ですか。結局、「ほどほどに生きろ」「中庸に生きろ」ということを言っている

だけの宗教で。仏陀自身は厳しい修業をした挙句に「こんな修行なんて意味がな

い」と言ってやめちゃう訳ですよね。仏教ってもともとそういう宗教だと思うんだけど、

親鸞・浄土宗の場合は、その結論だけ教えるんですよ。「ほどほどに生きろ」と。禅宗の場合は、結論はそうなんだけれども、結論だけ教えてもしょうがないだろ、仏陀と同じように厳しい修業をした結果それに至るという話で。だから修行の方法というか、まぁインテリ向けと大衆向けの違いなんですよね。親鸞は大衆向けに語ってるし、道元はインテリ向けに語ってるし。でも結論は同じ。で、元の仏教に近い結論ですよね。もともと日本の仏教なんか、中国に入った時点でかなり歪曲されてますから、それが朝鮮・日本に伝わってきてもっと歪曲されてますから。その歪曲されたところからスタートして結局もとの仏陀の言ってることとほとんど同じ立場に至っているんで。仏教好きだし、あと儒教も結構好きですよ。神道的なものというのは、何となく感覚ですよね。儒教・仏教・神道というと、神道が一番宗教なんだけど、日本語でものを考えている以上日本語の中に神道的な感性っていうのは入ってるんで、感覚的には神道に近いものになるんでしょうね。それこそ僕も古代史の舞台みたいなところで育ちましたから。

テリー:今伺った仏教的なもの・中庸的なものっていうのは、外山さんの過激なパブリック・イメージとある意味正反対ですね。演説とかパフォーマンスは、意図的にフェイクなんですかね?

外山:あんまり意図的ではないんだけど、僕の根っこは仏教的な認識があるんだけ

れども、まぁつまんないよね、中庸に生きてたって。(笑)それこそ別に過激に生きた

ってそれは悪いことではないっていうことでもあるんで、「中庸」っていうのは

。破壊坊主なのかもしれないですけどね。一休さんも過激ですからねー。(笑)

テリー:一休さんは、坊主界のパンクですからね。故郷のアイデンティティは心

の中にありますか?

外山:僕はないですね。むしろ故郷喪失がインテリの基本だと思ってるんで。ど

こにも故郷なんてないというか、故郷から受け入れられない。宗教者はだいた

いそうですけどね、イエスもそうでしょう、故郷では受け入れられない。デカル

トにしてもマルクスにしてもみんな亡命先でものを考えてたりしてるし。僕は故

郷という感覚は全く無いですよね。あるいは、あるとしても否定的な、自分を追

放した場所っていうんですかね。だから九州にこだわってるといっても九州にア

イデンティティを持っている訳ではないんですよ、方言も喋れないですし。九

州で36年、基本的には九州に住んでいたはずなんだけれども、頭の中は完全に標

準語になってるんで。

外山:政見放送で言っていた「少数派」ということとも絡んでるんですけど

、結局自分は「多数派」にはなれないと思っているんですね。でもやっぱり「少

数派」の勢力を築いていかなければいけない。「少数派」が孤立しているとどん

どんやられっぱなしですから。いくら団結したって「少数派」に留まるわけです

よ。「少数派」を九州に全員移動させれば、生態的には「少数派」から脱するこ

とができるんですよ。そういう戦略なんですよね。九州じゃなくてもいいんです

よ、四国とか北海道とかでもいいんだけど、どこかエリアを選んで、そこに「少

数派」を全員移住させる。そうすれば「少数派」といえども影響力がはっきり出

るので



テリー:ブログでも塾の設立について書かれてますよね。

外山:今、開設を目指しているっていう段階で。著作が出れば実現するんじゃないかなと思ってるんですけど。意外と都知事選で知名度が上がったとはいえ、特に大手のメディアはまだ外山をどう扱っていいものかどうかという感じがあって。編集者個人が判断するポジションの人もいるから誰かそういう人を見つけて、なんとか新書で、仮に「僕はこんなこと考えてるんだ」っていう著作を出せれば、塾生も集まってくるだろうし、塾の運営もできるだろうとは思うんですけど。

テリー:塾生とは寝食を共にするんですか?

外山:そうですね。半年間だけですけど。半年ごとに塾生を全員入れ変える。そ

の代り、その塾に入る条件としては、九州からしばらくは出ちゃいけない。

テリー:その間はずっと滞在すると。

外山:半年間は軟禁状態だから当然ですけど、塾を出たあとは、沖縄か九州に行

ってくださいと。塾で身につけた成果を、九州でいろいろ活動することで活か

しなさいと。その条件さえ守れば半年間も食事は保障して、勉強に専念してもら

います。

テリー:志ある人には最高の環境ですね。で、それを街で実践していくと。

高円寺で居酒屋をされる計画があるようですね。

外山:そうなんですよね、どうなるかわかんないですけどね。一旦決定したんですがちょっと問題発生して。

テリー:高円寺ですか?

外山:今のところ中野。僕は高円寺でやりたいんだけども。せっかく都知事選で

僕に興味を持ってくれてるんだけれども、そういう人たちが交流するスペース

が無いんで。それは居酒屋とかがいいんじゃないかなぁと。僕は普段九州にいる

からそこにはいないんだけど、外山に興味を持っている人がお客さんの大半

を占めるという。僕が目指したのはそっちですから、僕の元に人が集まるって

いう訳じゃなくて、僕のこともきっかけにして「少数派」が横に繋がって、何

かいろいろヤバイ企みをしていってくのが僕が望んでいることですから。

テリー:10年20年先のイメージってありますか?

外山:早ければ10年後には九州は独立してるんじゃないかと。もっと先になると、日本が九州とそれ以外に分かれていて、九州をメインにした再統合で。妄想を繰り広げてます。(笑)

テリー:そりゃもう、革命ですね。(笑)

外山:。とりあえず党みたいなものは作ります。外山の運動に参加したいっていう人を九州にきてもらうしかない。例えば、影響を受けた運動は別に全国にあっても、それは僕は責任取れないし、まぁ自由にやってくださいと。僕がどういう運動をやりたいと思ってるかどういうことやるかというのは九州に来ないと分かりません。

テリー:外山さんにとって東京ってどんな街ですか?

外山:あんまり住みたくはないんです。終電を気にしないといけない場所ってい

うのはあんまりいやですね。九州とかだと、それこそ福岡とかでもまぁ無理すり

ゃ自転車で行けないこともない距離に大体みんな集中して住んでますから。で、

福岡以外の九州の土地はもっと狭いですからね。

テリー:人の繋がりはどうですか?

外山:東京だとちょっと変なことやってても人を集めやすいんですよね。福岡ですらまぁ微妙な。僕みたいなのが福岡で人集めようとしても無理なんですけど、あまりに外れすぎてて。東京だとそんなこともないんですよね。そのへんが九州いやになることが多かったんですけど、発想を変えて、全国から興味を持った人を集めりゃいいんだと。九州でいくらそんな人探したって、限界があるし、全国から孤立している個人を集めて、九州で勢力を拡大していけばいいじゃないか。東京は時々来なきゃいけないとは僕自身思っ

てて、これまでも年に1〜2回は来ていたんでけど。

テリー:それはメディア対策に?

外山:いや、東京に面白い試みっていうのはあるので。僕はそれは東

京でやることに意味があるとは思えないんですよね、ただ面白い運動や試みはあると。それをこっちにきて、「これは面白い」と僕が思えるようなところと東京で交流して、いろんなアイディアを九州に持ち帰る。輸入業者みたいな。なかなか九州で新しい面白い動きというのは出てこないので、そういうのは東京なんですよね。

テリー:思想の輸入業者ですね。高円寺の街はどうですか?

外山:前から高円寺は縁が。だいたい僕が注目している歴代のアイテムは高円寺

界隈ですね。

テリー:同じくらいの30歳台の男のだと仕事・プライベート・家族なんかのことを考

える時期じゃないですか、世間で言うと。ある意味外山さんの活動って芯が通っ

ていて一般人からすると実はうらやましく思えるんじゃないかと。

外山:今は全く迷いがない状態なんですけど、それは獄中で人生の指針みたいの

を見つかったからであって、20代の10年間はめちゃめちゃきつかったですね。人か

ら胡散臭がられようが嫌われようが、守ってることを徹底的にやる、それでひど

い目にあってもいいんだっていう覚悟のもとに10数年はやるってことの上に今の

「迷いがない状態」があるわけだから。それは、憧れてる暇があったら「あなた

もやりなさい!」ということですよね。


http://www.warewaredan.com/
| テリー植田 | フリーペーパー | 14:19 | comments(0) | trackbacks(87) |
2007.06.23 Saturday
寺田恵子 船長(漁港) 対談

実は、千葉県出身同士だった二人。

寺田姐さんに訊け 寺田式 
特別対談篇 「美味しいマグロの見分け方講座」
お客様:「森田釣竿(フィッシュロックバンド漁港・船長)」
(企画・司会・構成:テリー植田)



テリー植田(以下テ):今回対談は初めてですが、船長に魚の素晴らしさを寺田さんに教授して頂きたいと思います!!

船長(以下船):自分、サカナくんみたいにそこまで魚のこと分かんないんですよ。

寺田恵子(以下寺):はははっ(笑)

テ:サカナくんは魚屋さんじゃなくて魚マニアですもんね。

寺:どうやって魚を料理するのが一番美味しいかを聞きたいよね。そういうのは専門でしょう!?

船:マグロ料理だっ鱈、任せてください!

寺:マグロは体にいいからさ、酒飲みにとっては体にいいんだよ。

船:新鮮なうちは生で食って、飽きてき鱈、ヤングだとフライにして食っちゃうとかね。

寺:ヤングだとフライって。(笑)

船:姐さんは一人でも飲まれるんですか?

寺:一人で飲む方が圧倒的に多い。外に出ると喉潰しちゃうから。もう、飲んだら暴れるというか、じっとしてないのよ私。それでいろんな人とクワーッと喋って。なんか歌に合わせて踊り始めたりとか、簡単なの書いて曲作り始めたりとか。カウンターに入ってお店の人でもないのにお客さんにオーダー頼まれて「アイヨー」って言って作ったりとか。

船:自分もそうかも。居酒屋に行って盛り上がって、「俺が魚切ってあげるよ!」みたいな(笑)。盛り上がっちゃって。他のお客さんの相手もしたりして。

テ:コミュニケーションが本業みたいなものだからね、船長は。

船:市場は対面商売がメインですからね。姐さん、やっぱり千葉だったから祭りとかありましたか?

寺:親父が職人で、大工なのね、建築やってたから。お祭りというよりは、職人の兄ちゃん達がいて、いつもみんなでどんちゃん騒ぎして。そうすると夜中お家に電話があって、「××警察ですけど、お宅の人たちが暴れてます」って。

テ:船長のうちと姐さん宅の血筋は似ているなぁ。

船:自分が小さい頃、大工さんが家を建てた時に、親父が鯛の姿作りを持って行ったりしてましたよ。そういう大人たちのコミュニケーションを常に見てきましたからね。そりゃ、酒も飲まされたし(笑)。魚食文化とか上下関係とか上手い飲み方とか下手な飲み方とか。かなり小さい頃から日本の文化には触れていた方じゃないですかね。

寺:お家の上下関係もはっきりしてるでしょ?

船:はっきりして鱒よ〜(笑)。でも友達み鯛な感覚。

テ:寺田さんは家でも料理しますか?

寺:毎日作ってるよ。朝も作ってるし、昼も。お家にいるときはよっぽど疲れてない限りはお家で作ってますよ。

テ:おすすめマグロメニューってありますか?

船:イベントの予算があれば一匹解体するんですけど、普段はマグロの頭部だけ解体しているんですね。「魚は捨てるところが無い」っていうメッセージを投げかける為に始めたことなのですが、やはり知らない人が多いですよね。頭部で食べられる部分、ホホ肉とか頭肉とか目玉がオススメかなぁ。“さえずり”っていう喉の部分は一匹で一つしか取れないすごく貴重な部分で、煮て食べたら最高ですよ!

寺:その貴重な部位っていうのは世の中に出回んないの?

船:あまり出回んないかなぁ。でも食べてもらい鯛。

寺:食べさせていただきます!(笑)。

船:参ったなぁ(笑)。じゃ浦安魚市場に来てください!

テ:船長、毎日市場にいるの?

船:ほぼい鱒。

寺:何時ごろ行けばいいの?行くとしたら。

船:土曜日曜が面白いですよ。毎週恒例の大売り出しで、色んな魚が入荷し鱒から。マグロの皮とか、あんまり普通の市場に置いてないものもたくさんあり鱒。

寺:おいしい魚の見分け方ってあるの?

船:簡単に言ってしまうと、目玉の白目部分が綺麗に澄んでいて、エラが赤いのが良いですね。魚体によって形がいろいろなので見分け方が違ってくるんですけど、基本的にその二点でOKです。

寺:エラの色ってくすんでくるんでしょ?

船:茶色くなっちゃうんですよ。ヤンキーの脱色みたいな。(笑)

寺:でも切り身になっちゃうともう分かんないですよね。

船:いや、切り身でも血合い…赤い部分があるので、鮭でもカジキでも。やっぱりヤンキーの茶髪は駄目(笑)。鮮度の良い魚はホント真っ赤なんですよ。よく見ると結構やばい魚もあり鱒から気をつけないと。最近、プロの魚屋さんがいなくなってきてるから、そこらへんはよく見極めてもらい鯛。

寺:安く売ってるのは絶対生はやめておこうかなとか思うんだけど、そういうのは関係ないの?

船:まぁ、新鮮なものだけが必ず良いってことじゃないから難しいですよね。熟成マグロって知って鱒か。マグロも黒いほうが美味いっていう事なんですけどね。黒いとマズイなんて見た目で判断しちゃうじゃないですか。

寺:するする!古いって。

船:でも、新鮮なものより少し時間を置いたほうが美味い場合もあるんですよ。一概には言えないのが魚なんです。まぁ難しいけど(笑)。やはり、魚屋さんとコミュニケーションをとって、口頭で教えてもらうのが一番早いかな。でも、時代がそんな時代じゃなくなってきて鱒よね、寂しいけど。コミュニケーションの不足が、日本人の味覚を落としたとも思って鱒ね。浦安が急激に発展していった時期に、自分も魚をあまり食べなくなった時期が実はありまして。

寺:それっていつくらいの時?

船:小学生くらいの時ですね。

寺:ディズニーランドが出来た時SHOW-YAのメンバーで遊びに行ったもん(笑)。

船:そうですか!(笑)ホント、街の発展とともに浦安も変わりましたよ。

寺:それはどうして?いろんな文化が入ってくるから?

船:そうですね。とくに食べ物が急に変わりました。知らない食べ物ばっかり出てくるから、当然興味がそっちに行きますよね?チキンナゲットとか。

テ:食べたことないフィッシュバーガーに心奪われたらもう帰って来れないよね。
船:そこらへんから、食に対する意識っていうのが急に変わっちゃったと。今、回転寿司とかでよく使われている蓄養とか養殖のマグロ、ああいうのも質は良くなっているけど、やっぱり天然マグロにこだわり鯛じゃないですか。でも、その資源にも限りがある。

寺:いま大変だよね。

船:大変です。外国の取材がよく聞かれるんですけど、ほぼマグロに絡めた政治的な話し。音楽の話しなんて一切聞いてくれない!

寺:フィッシュロッカーなのにねぇ。(笑)

船:でもいいんです。人間を支えるのはやっぱり"食"だから。

寺:だからメッセージの一個の手段として音楽がある訳でしょ?ミュージシャンでそういう人もいる訳で。例えば私は音楽が好きで歌が好きで歌ってるけど、今は音楽をやり続ける目的が違うところにあって、それをやるためにプロでもプロじゃなくてもそれを続けていかなきゃなっていうのはあるの。だから音楽も「この曲はこうですよね」って聞かれるよりも、「何で続けてるんだってこと」を訊かれるのが嬉しかったりするかな。

船:日本の取材だと、「マグロが獲れなくなって高くなるから安くておいしいマグロの見分け方を教えてください」とかって感覚なんですよね。全く平和ボケ。外国の取材は、食に対する意識が高くてビックリしますよ。魚食大国なんだから、もう少し見習わないと恥ずかしいです。

寺:外国の飲み屋で話すと、必ず政治の話になったり、地球の話になったりとかね。今こういう問題があるけどお前はどう思う?とか必ず聞くよね、向こうの人って。だからそれまでは政治のこと意識してなかったんだけど、海外でお友達を作ろうと思ったら自分なりの意見も必要だし、世の中の動きは絶対知らなきゃいけないと思うんだよね。真面目になりすぎるのはロックじゃないからイヤなんだけど。(笑)

船:ウーマンズフォーラム魚という団体の白石さんという方が、浦安魚市場まで来てくださっていろいろ話してくれたんですけど、我々日本人の体っていうのは、魚と野菜と米、この三つで出来ているんだということを話してくれまして。自然と共存してる人って、農家の人だったり漁師の人じゃないですか。そういう人達がいるからこそ、我々一般人の食が満たされているって重要な部分が見えてこないシステム。例えば魚に全く興味のない兄ちゃんがバイトで魚を売ってるスーパーだとか(笑)。

寺:全然違うからね。魚屋さんで買うお魚と他で買うお魚と、圧倒的に違うじゃん、味が。

テ:下手したら晩御飯がコンビニ弁当っていう子供とかいたりする時代だから。

寺:いっぱいいるよー!

テ:危ないよね。

寺:この国一番危ないじゃない?他の国より。他の国は、悪いことしててもそれをつつく機関とか団体とかがあるやん!でもここはつつくと潰されちゃうからさ、みんな見て見ぬ振りするからさ。それが一番怖いよね。

船:食で嘘ついちゃ駄目ですよね。

寺:思うよ、ほんとに思うよ。家が無くてもご飯だけちゃんと食べたいって思うよ。

船;自分もそう思い鱒。心ある飯だけ食えれば、あとどうなっても構わない!(笑)

寺:私もそう思う。別に公園で暮らしてもいいや、ご飯が食べられればって思うもん(笑)。


音楽でのコラボレーションはあるか?!

(付録)
船:いや〜、絶対ありえないですね。

寺:何が?!

船:寺田姐さんと魚屋の対談!

テ:ま、高円寺とも全く関係ない対談っすね。(笑)




【SHOW-YAインフォメーション】
音楽バラエティー「SHOW-YA 夏は祭典!」が開催!
7月7日(日)CLUB CITTA’
出演:SHOW-YA、寺田恵子、中村美紀、角田美喜、仙波さとみ、五十嵐☆sun-go☆美貴
アマチュアバンドによる「SHOW-YAトリビュートバンド」
スペシャル・ゲストあり
3980円(税込/ドリンク代別)
http://www.show-ya.jp/

【漁港インフォメーション】
東京中央卸売市場、東京都築地魚市場大物業会、東京築地市場鮮魚業会推薦!
ファーストアルバム「漁港」発売中!
2,800円(税抜価格2,667円)XQCT-1001 
http://www.gyoko.com/


7月1日(日)
『ゲビル 10執念祭』新木場Studio Coast
出演:ゲビル
友情出演:漁港/鳥肌実/綾小路翔(氣志團)/研ナオコ他
開港17:00/開演18:00
前売4000円/当日4500円
| テリー植田 | フリーペーパー | 14:02 | comments(0) | trackbacks(69) |
2007.06.23 Saturday
曽我部恵一さんインタビュー

SHOW-OFF27号 表紙インタビュー 曽我部恵一さん

『自分たちの生活を支えていく音楽を自分たちで作っているっていうのは、すごい充実していますよ。』


曽我部恵一(元サニーデイ・サービス)さんが2人のお子さんを連れて下北沢から高円寺へ。学生時代、サニーデイ時代、ソロ活動、家族のこと、音楽のこと。ありのまま、あるがまま今の曽我部恵一さんの東京ラブ&ピース生活を聞きました。
(企画、インタビュー、構成:テリー植田)



高円寺ZATTS CAFEにて
(佐世保バーガー美味しいよ。)

テリー植田:曽我部さんの上京の物語から聞きたいなぁと思いまして。

曽我部恵一:東京に来てもう15〜6年ですね。

テ:上京されたのは90年くらいですかね?

曽:そう、90年ですね。大学で出てきたんですけど。

テ:立教に入学されて、その頃サニーデイ始められたんですか?

曽:すぐ始めましたね。僕はバンドは高校時代とか田舎ではやってなくて、大学入ったら音楽詳しい奴とか趣味の合う奴がいると思って入って、大学のサークルも覗いてみたんですけどあんまりいなくて、そういう人は。ボン・ジョビのコピーとかやってたりして。

テ:違いますね、明らかに。(笑)

曽:「あれぇ、これちょっと田舎と一緒だな」(笑)と思って。結局田舎から出てきた友達3人くらいでやり始めたんですよ。

テ:3人一緒に上京してきたんですか?

曽:ばらばらだったんですけど、地元でも知ってて、音楽の趣味も共通で。田舎でもそんなにマニアックな人間っていないし、趣味も分かってるってことで「じゃあ一緒にやろうか」みたいな。(笑)あんまり上京してきた意味なかったですけどね。

テ:バンド組んで最初はどうでしたか?

曽:やり方も分からないし、それまでライブをやったこともなかったから、どうやってやっていこうかっていうのは悩みましたね。ほんと模索しながら。ライブを一本やろうということになっても、モニタースピーカーとかの使い方も分からないような素人で、リハスタ(リハーサルスタジオ)に入ってもどうやって練習
していいのか、マイクをミキサーに繋げて音が出るまで一時間くらいかかったりとか、そういう感じでしたね。

テ:最初のアルバム『若者たち』までは数年かかるんですよね?

曽:4〜5年あるんじゃないですか。

テ:95年くらいのリリースですね。

曽:紆余曲折して、『若者たち』以降はわりかし順風満帆というと変なんですけれど、でも実はファーストアルバムが出ても給料とか事務所から出ないし、食えはしなかったんですよ。

テ:以前、ゲストで出演されてたマキタスポーツさんのイベントでその話を聞いて僕はショックを受けましたよ。『東京』(サニーデイ・サービスの名を知らしめた不朽の名作)とかめちゃくちゃ聴いていたので。(笑)

曽:『東京』の時はまだ給料0円時代というか、『東京』というアルバムが出てチャートにうまく入って、それで月給9万円もらい始めて。でも9万だとまだ食えないですよね。

テ:派遣社員以下ですよね。その『東京』が96年ですね。

曽:『東京』から「バンド活動」っていう日々だったんですけど、それまでは結構大変でしたね。

テ:取材に行くときの交通費がなかったことがあったんでしょう?(笑)

曽:そう、渋谷までの電車賃がなくて。近所の駅の近くに中古CD屋があって、そこで結構CDを売ってましたね。売って電車賃作って行って、レコード会社の人にお金を借りて帰ってくるっていう
。ダイナソーjrとか好きだったCDを売ってたから、切迫してたんだと思いますね。

テ:ギリギリだった?

曽:『若者たち』を出すまでは大変でしたね。今やれと言われても出来ない。貧困と、誰も自分の音楽を認めてくれないという状況で、その時期は山崎パンでバイトもやったし。

テ:鳥肌実といっしょじゃないですか!ファンは誰もそんなこと思ってもいないですよ。でもそれがツラくなかった?

曽:その時は「どうしようかな」と何となく悶々としてたんですけど、田舎から出てくる時には「自分はすごい!」、「俺は成功してやる!」、「みんな、俺の曲を聴くに違いない」って思ってましたね。子供の妄想とか自信ってあるじゃないですか。いろんな人にいろんなこと聞いたり相談したりしてましたけど、「ど
うしたらプロのミュージシャンになれるか」とか分かんなかったですね。だからいまだにプロのミュージシャン目指してる人に対して、「こういう風にしたらプロになって食えるよ」ってことは言えないんですよ。僕はすごいラッキーなことにインディーでCDを出してくれるところがあって、ほんとに自主制作で作ったやつを、た
またまレコード会社のディレクターの人が気に入って「ウチで出そうよ」って言ってくれたからそこから始まったんですけど。

テ:『東京』が出てから大分変わって行きましたか、生活は?

曽:そうですね。メジャーはMIDIっていうレコード会社なんですけど、MIDIで契約して、最初に2枚マキシシングルを出したんですけどそれは音楽性も全然違くて、当時は渋谷系が全盛の頃で、もっと渋谷系的なサウンドだったんですよ。何の注目も得ずに終わって、その頃は悩みましたね。メジャーから出て宣伝もしてもらったにもかかわらず誰も認めてくれないみたいなところに、「これじゃ駄目なんだ」っていき
なり壁に当たりましたね。

テ:リリースしたのに、リアクションが薄いと。

曽:うん。だから「ライブ出来ない」とか「どうしてデビューできるんだろう」とかの次の一番デカイ壁がそこだったかなぁ。デビューして自分が作った曲を出してることを誰も認知してくれないという事実。「これをどうしていったらいいんだろう」ということは考えましたね。それで、『若者たち』みたいな世界観に
なんとかたどり着いたんです。でもま、楽しかったですけどね、今思うと。

テ:最初からずっと住まいは下北ですか?

曽:最初は僕、練馬区に住んでて、次に明大前に越して、ずっと明大前にいましたね。解散するまでは明大前。デビューから解散ギリギリまでは明大前のアパートですね。2DKの古いアパート。

テ:それからどうして下北を選んだんですか?

曽:やっぱ下北はQue(ライブハウス)もあったし、レコード屋さんもいろいろあったから、下北は好きな街だったんですよ。

テ:今は下北でお店もされているんですよね?

曽:そうなんです。

テ:どういうお店ですか?

曽:基本はレコード屋さんで、夜はバーになるレコード屋さんをやろうというのが最初で。今のレコード屋さんって中古のアナログ盤とかってそんなに売れたりしないから、下北でレコード屋さんやるのは大変だろうというのがあって。レコード屋やりたい友達がいたんですけど「いや、大変だろうね」という話をしてい
て、そしたら「夜はバーにして、バーの売上も含めて営業したら可能性はあるんじゃない?」という話をし始めて。それで「じゃやってみる?」って話になって何となく始めたんですよ。昼間も、うちのギターのやつが昔コックさんをやってて、「ライブとかレコーディングないときは作って」って。パスタがうまくって、そいつさ


テ:『東京』以降、ファンからすると順風満帆な時期に思えますが 、実際はどうだったんですか?

曽:実際は、音楽的にはいろいろとトライしてたり、すごい充実してたんです。毎日音楽を作るっていうことに費やされていたから、僕は夢のような生活だったけど、一個作ったら次のものをまた作らなきゃいけないし、一つ評価を受けるものを作ったら次はそれ以上の評価を得なきゃいけないんじゃないだろうかとか、
そういうプレッシャーはもちろんありますよ。今もあるのかもしれないけど。

テ:「新しいものを作らなくてはいけない」というプレッシャーは、今自分でレーベルされて環境も変わったと思うんですけど、違いますか?

曽:変わらないですよ、結局。やっぱプレッシャーあるし。でも今は音楽を作るっていうことが生活の一部にほんとになってきて、例えばアルバムが出てそのアルバムの売上なりツアーの収益が、「これが誰かの給料でこれが誰かの生活費」というのが分かってきてるし、そうやって生活して生きていくことと音楽を作っ
てプレイしていくことと繋がってきてて、それはすごい楽しいですよ。昔はそこじゃなく、もっとアーティスティックだったかもしれない。音楽を作って単にそれが楽しい、みたいな。じゃなくて、今は音楽を作ることももちろん楽しいけど、それと一緒に自分たちが生きていく生活を支えていく音楽を自分たちで手作りで作ってい
るっていうのは、すごい充実していますよ。

テ:サニーデイが解散してレコード会社と契約が終わって、自分でレーベルやろうと決断した時はどんな心境でしたか?

曽:なんとなくなんですけど、「よし、じゃあもう自分でやろう」というよりも、自分で自分のメディアを持ちたいというのはあって。それはモノを作ったりする人はそうなのかもしれないけど。サニーデイが終わってソロをユニバーサルで出したんですけど、ユニバーサルとの契約が切れて「じゃあ次どのレーベルにい
きましょうか」という時に、ここだと契約金が云々とか、ここだとこういう条件でとか、いろいろあったんですけど、レーベルを渡り歩いても面白くないなと思って。自分でやったほうがいいかなと。

テ:30代の世代からすると、曽我部さんにすごい共感のするのは、大きな資本に振り回されずに自分がメディアになろうと思ったところですね。

曽:それ凄いいいことだなって思って。大きい資本の中でやる必要はないんですよね、モノ作ることって。個人でやる仕事で、大きい資本でやってることと同じクオリティのものが出来ていたらそれでOKだと思うんですよ。聴いてくれる人っていうのは結局そこしか求めてないし、こっちの方が宣伝力が優れてるからこ
っちの音楽を聴こうという訳ではないんですよね。僕が気をつけたいなと思っているのは、個人レベルで自主制作で音楽作ってる時にクオリティが下がらないようにしたいなというのはあります。お金がかかってるかかってないに関わらず、精神的なクオリティというか。

テ:ソロになった時点で"曽我部恵一ブランド"っていうのが頑としてもうあって、ファンはそれを求めていたと思うんです。僕はいいスライドの仕方をされたな、とファンとして思っていたんですけど。レーベルされて何年ですか?

曽:4年ぐらいですね。やっとお金のことをそんなに心配せずにスタジオに入れるのは、ほんとに最近ですね。最初は安いところ選んで。もし大きいレコード会社で作ってたらもうちょっと粘っていろんなとこにお金かけていくだろうなというところをあえてお金使わずに切り上げたりしてましたけど。今はちょっと安定してきた
から、そういうところを気にせず動けるようになりました。
テ:でも協力してくれるスタッフはいたんですよね?デザイナーさんとか。

曽:いや、でも友達ですよ。全部。まずは二人でやってたから。一人はイラストレーターで、若い奴で、「電話番手伝って」みたいな。どこが幾らでプレスしてくれるとかデザインの入稿の
仕方とか、何にも分かってなかったですね。そのうちもう一人サニーデイの時にプロモーターやってた人が加わって三人になってや
り始めた。

テ:家と別に事務所を借りたんですよね?

曽:そうですね。下北に。でも本当に大変でした。ネットで通販やらなきゃってなった時に、じゃあどうやってやるのってなって、カートのレンタルとかやったりしてるんだけどちょっと負荷がかかるとダウンしたりとか、もう大変でしたね。

テ:そういうことに気をとられたくないんじゃないですか?

曽:何年かはそればっかりでしたね。今もその延長線上ですけど。環境整えるのはすっごい大変でした。

テ:でもその頃お子さんが生まれてすごい大変な時期だったんでしょう?

曽:そうですね。やろうとしてることは大きいレコード会社がやろうとしてることと一緒のことだから、それがすっごい難しいなと思って。慣れちゃえば一個一個クリアしていくんですけど。大きな資本からやり方をレクチャーしてもらうんじゃなくて、自分たちでやり方を一から作っていった感じなんですよ。それが良
かった。

テ:ブログでファンはその様子を見ていて、ファンとアーティストの風通しが良い関係があるというか。より強い支持になってるんじゃないかなと。

曽:うーん、どうでしょうね。今そうやって環境とかから足場から作っていくというスタイルを含めて音楽を作ってるから、自分的には面白いですね。

テ:結婚されたのはいつぐらいなんですか?

曽:30ぐらいだから解散する年とか。子どもが出来た時くらい。

テ:そういう人生のタイミングだったんですね。

曽:そうですね。いろいろ人生が大きく変わる瞬間でしたね。

テ:30代、40代の目標とか見通しってあります?

曽:ないですね。3年後こうしていたいとかいうのも全然ないですよ、俺。今のペースでずっと続けたいっていうのも特にないですよ。もっといろんなことが起きてほしいんですけど。とにかく今日明日明後日のことをやるのが一生懸命で、いっつもそうやって動いてるのかなぁ。バンドやってた頃も大ヒットしたりとか超メジャーになった
りしなかったのはそういう理由もあるかなと思うんですけど、みんな周りは年間スケジュール組んで、3年後はとか自分たちで成功へのシナリオというか、ある程度計算してやっていたと思うんですよね。そういうとこあんまり僕は興味なくて、「じゃあ2年後のこのくらいには曽我部恵一プレゼンツでフェスでもやりましょうよ」とか言われても全く何の興味もなくて、2年後のことなんて分かんねーよっていう。「今日これしなきゃいけないから、今日これ一生懸命やっていい?」みたいなのがメインなんですよ。特にミュージシャンとしてはそうで、あとは経営者という側面もあって、経営者としては全体を見なきゃいけないから、今期とか来期とか前年とか考えてるけど。来年はこうい
うふうに会社を成長させたいなというのはないですね。

テ:それは、曽我部さんらしいなぁ。(笑)

曽:でもほんとに想像つかないですね。50代になったときに、今と同じいろんな心配事をかかえながら、必死でどろどろになりながら音楽やってるのは想像したくないですね。そのころは井上陽水さんみたいに悠々自適なことになっていたいんですけど、でもそんなのないんだろうなとも思うんですよね。たまにアルバム作ったりとか、たまにライブしたりだ
とか。

テ:ファンからすると、30年くらい経っても"曽我部恵一"っていうブランドはきっとあると思ってますよ。

曽:音楽やってるのかどうかもわかんないですけど。飽きちゃったらやれないし。

テ:意外に飽き性ですか?

曽:音楽は飽きないですね。

テ:音楽以外の話なんですけど、家族が出来て、食べるものだったりコミュニケーションの仕方とか、変わってきたりしました?

曽:うーん、家族ねぇ…。食事とか変わりますね、家で作ったりするから。で、食事みんなで食べるとか大事だな、とか思ったりしますけどね。子どもが出来て何が変わったかというと、やはり性格が変わりましたね。あきらめがついたというか。いろんなことをあきらめましたよ。(笑)

テ:え?何を?

曽:ミュージシャンをやりながら世界中を旅したりとか、いろんなところでプレイしたりとか、いろんな女性と付き合ったりとか、いろんな夢がありましたけど、そういうの全部

あきらめました。なんかあきらめが良くなりますね。夢がすぐに捨てれるっていう。それはいいことだなって。

テ:それは家族のためにってことですよね?

曽:子どもがいてそれは無理だろってことはいっぱいあるから。結婚したり子どもができたりするのってオススメですよ。そういう夢見がちな男子。

テ:これからのリリースの情報は?

曽:DVDと本が出ました。夏にライブがあって、8月くらいにアルバムが出ます。

テ:忙しくなりそうですね。レコーディングはいつされるんですか?

曽:レコーディングは終わっていて。

テ:テーマはありますか?

曽:テーマは「夏」ですね。夏の幻のような。山本直樹さんの漫画が好きでああいう世界観とか、よしもとよしともさんの「青い車」とか、ああいう夏のひんやりして暑くて過去とか未来とかから切り離された夏の一日というか、永遠性というか。そんなことを考えながら作りました。

テ:では最後に、音楽を目指している若者たちにメッセージを!!

曽:僕は音楽を目指してて今は音楽を作って生活してて、それはすごい楽しいですよってことを言いたい。最高にいい。でも100%それを生業にしなくてもいいんだと思う。昔はどうしても音楽でメシを食いたいというのがあったんだけど、それは考え方を変えた方が今はいいのかもしれない。生活をするためにこの仕事を持ってこれはこれで大事で、音楽は音楽でこっちなんだと、使い分けられる人の方が、今の時代は楽しいと思う。頑張
ってください。夢を見続けてもらって、妥協しつつ(笑)。夢を見続けてる奴が素敵だなと思うし、それが世界を動かしていくと思う。



小生と曽我部さんは1971年生まれの同い年


【曽我部恵一・最新情報】
8月2日曽我部恵一ニューアルバム「blue」リリース決定!!

【ライブ情報寡】
7/22(日) 曽我部恵一BAND @下北沢CLUB Que

曽我部恵一BAND SUMMER TOUR 2007「センチメンタルな夏」
チケット 6/30(土)発売
前売り¥2,500(1ドリンク付)/当日¥2,800(1ドリンク付)

8/6(月) 渋谷CLUB QUATTRO
18:00open / 19:00start
info CLUB QUATTRO 03-3477-8750

8/8(水)
名古屋CLUB QUATTRO
18:00open / 19:00start
info Jail HOUSE 052-936-6041

8/9(木)
心斎橋CLUB QUATTRO
18:00open / 19:00start
info CLUB QUATTRO 06-6281-8181

8/12(日)
福岡DRUM LOGOS
17:00open / 18:00start
info BEA 092-712-4221
TOTAL INFO: www.sokabekeiichi.com
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2007.03.27 Tuesday
「ごめん、コベイン」第1回 (ロッキンオン・山崎洋一郎)
高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載して頂いていたコラムを掲載します。
高円寺在住20年以上のロッキンオンジャパンの山崎洋一郎さんの爆笑コラムです。びっくり今は連載ストップしてますが、またいつか再開したいと思ってます。

音楽雑誌は買わなくなったが、本屋でロッキンオン・ジャパンを立ち読みした。洋楽の本誌からジャパンに戻った山崎洋一郎さんの原稿がよみたくなったから。ロッキンオンはデュランデュランが表紙の頃の中学から毎月買っていた雑誌だったけど、90年代のいつからか買わなくなった。雑誌のレビューを参考にしてCDを買わなくなったのがその理由。

山崎さんのコラム「激刊山崎」というコーナーがまだ継続されていた。
下北の再開発など街の再開発に反対する人の気がしれない。興味ない。マンションに住んでるやつが反対すんなよ、っていうはじまりから、ロックは奴隷。アフリカから奴隷としてやってきた黒人が悲哀を歌ったブルースがロックになって、今の日本でもロックが歌われている。みんな奴隷だと。人間は、生きる限り奴隷であるから、悲哀やノイズがあるんでしょうか。街のことから音楽や生きることにリンクさせて書く山崎さんの原稿が80年代から好きで、今でもこういうアンテナは健在なようで嬉しくなった。

そんな山崎洋一郎さんにぼくが編集している高円寺のSHOW-OFFで少し前に連載コラムで書いていただいた珠玉のコラムがあるので紹介します。フリーペーパーは、当時部数も少なかったので読んでいない方が多いのでここに掲載します。ロッキンオンで書くより面白い原稿になっていると思う。


「ごめん、コベイン」 第1回 山崎洋一郎(ロッキン・オンジャパン)


 いちおう僕の19年間の高円寺生活の中からおもしろエピソードと裏高円寺ヒストリーを紹介するコラムなんですけど、19年といえばハンパじゃないですよ。年とったなー、俺も。で、なんで「ごめん、コベイン」というタイトルなのかという説明から始めようかなぁと思っていたんですが、それどころじゃない大事件が起きてしまったのでその話に急遽変更!でもやっぱりこのコラムのタイトルとも関係あるのでやっぱりその話から。(前置き長すぎるっちゅうの)。あれは7年前の、高円寺の南側にあったとある古着屋でのこと。ほんとに、ほんとうにいけない事なんですけど、どうしても欲しいコーデュロイのズボンを見つけたのに一銭もお金が無くて万引きしてしまいました。本当に反省してます、ごめんなさい。で、ちょうど棚にあるズボンを手を伸ばしたまさにその瞬間、店内に流れていたFENラジオが英語で「昨日、ニルバーナのカート・コベインがライフルで自殺しました。」というニュースを告げていたのです。ズボンを手に持ったまま「ええっ!!」と叫んだ僕は、店内の視線を浴びて立ち尽くしてしまいました。どうやら店にいた他の人は英語がわからなかったらしく、僕を「様子のおかしい人」と思ったようでした。とりあえず家に帰って部屋の中をうろうろしたり友達に電話をかけたりして落ち着こうとしたのですが、その時、ふと自分の左手がコーデュロイのズボンをつかんだままなのに気付いたのでした。ごめん、コベイン。というわけでその後もhide、どんと、佐藤伸治、最近だとジョーイ・ラモーンと、何人ものミュージシャンの死に出会いましたが、やっぱりどうしても「ロック雑誌の編集者として」という関わり方をせざるを得なくて(原稿を書かなくちゃいけないんだよ、どんな状況でも。その状況自体を書かなくちゃならない)、今考えるとカート・コベインの死はなんかすごく僕にとって静かでシンプルでストレートな(不謹慎な言い方なのかな)衝撃でした。自分がショットガンで打ち抜かれたみたいだった。

そんで、事件というのはつい一週間前の日曜日、編集部に「コートニー・ラブのマネージャーだけど、今からそっちに行っていいかな?相談したいことがあるんだ」と電話がかかってきて、お休みだったけどちょうど僕一人出ていたので「いいよ〜!」って感じで待ってたらなんと「ハロ〜!!」ってニコニコしながらコートニー姉さん本人が!!ウワーと思いながらもいちおう編集長として落ち着いた振りをして「ナイストゥーミーチュー」。バイトの娘もいないので、麦茶を出したりしながら色んなことを話しました。姉さんはラフでフェミニンなワンピースで、髪はレインボーにカラーリングしてたけどノーメイクでかわいかった。最近のニューメタル、ラップロックの隆盛に御不満らしく、「ちゃんと曲を書けるロックアーティストがいない!だれか日本人の女性でそういうアーティストはいない?」ときかれ、いろいろとCDを聴かせてあげました。椎名林檎とシーガルにピンときたみたいで、女性じゃないけどミッシェルには「グレイト!」を連発していました。音楽業界のこととか、アット・ザ・ドライヴーインのこと、むかし日本で働いていた時のこと―――2時間以上二人ともすごい早口でしゃべりまくりました。俺、こんなに英語しゃべれたっけ?ってぐらい話して、「じゃあ、これからタワレコ行って、教えてくれたバンドのCD買って、それからアメリカに帰るわ」と言って帰って行きました。かなりパンツは丸見えでしたけど、すっごいいい人で好きになりました。
| テリー植田 | フリーペーパー | 13:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006.03.31 Friday
杉作J太郎、吠える。
高円寺フリーペーパーSHOW-OFFでのインタビュー完全収録版です。

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杉作J太郎、映画業界に殴り込み!!
「男の墓場プロって言って、映画は死んだつもりでやっている。何の可能性もないですよ、未来の。」


満員御礼につき追加上映が決まった初監督映画作品と大爆笑の上京物語をうかがいました!!(インタビュー&テキスト:テリー植田
tape rewright:marrow


テ:Jさんの上京物語から聞いていいですか?
J:いいですよ。
テ:そもそも、愛媛ですよね。松山ですよね?
J:そうです。
テ:そこから大学を出られて・・
J:大学に入る時に出てきたんです。高校卒業して、それで出てきた。
テ:最初住んだ所はどちらですか?
J:最初住んだ所は桜新町。世田谷の。田園都市線ですよ。
テ:駒大ですよね。
J:そうです。あのー、学校に歩いて帰れるとこがいいかなと思ってね。表参道のシナリオセンターにも通ってたんですよ。だから、その両方考えて学校が近いとこと表参道まで一本で行けるとこ。それで桜新町にした。
テ:漫画描かれてたじゃないですか。それはどこから始まるんですか?
J:学生の時だけど、最初から漫画やってたわけじゃなくて。まぁ最初の頃はねずっと8ミリ映画やってたんですよ。
テ:映画が先なんですね。
J:そう、そんでキャスティング最初友達だったんですけど、ゴージャスにする為には自分も芸能界とか入った方がいいのかなと思いまして。その当時お笑いブームが始まった年だったんで、アルバイト。まぁ当時ね今と違ってバイト料安かったんで。今アルバイトで食える時代でしょう?昔はアルバイトだけで食おうと思ったら、アルバイト年がら年中やってないとたぶん食えない。だって俺がそのバイトしてた頃時給280円でしたからね。
テ:マジっすか(笑)それ何のバイトだったんですか。
J:トラックの横乗りが時給280円でしたから。やっぱりね率悪いわけですよ。何か職業始めた方がいいなと思って、ちょうどお笑いブームでしたから、よし漫才師になろうと。それで友達とコンビ組んで『笑ってる場合ですよ』という番組に出たんですよ。
テ:『笑っていいとも!』の前身番組ですよね。
J:そしたらね、横澤さん(当時フジテレビのプロデューサーで現東京吉本興業社長)がね。受けに来た人がね冗談抜きで2、300人いたのかな。その中でバンバン次から次にやってくんですけど、やって終わった後にね横澤さんが僕らのとこに来ましてね。「君たち名前何ていうの?」「これこれこうです」「なかなか君たちおもしろいよ、期待してるから」これはすごい事だぞおいって。本腰入れてやるかって。まず合格はしましたんで、本選が2日後くらいだったかな。それで一生懸命練習して、放送の前の晩はほとんど深夜まで。全国に10人審査員がいて、電話がかかってくる。10人のうち7人かかってきたら合格。1日目があまりうまくいかなくて、コントだったんですけど、7点だったんですよ。ギリギリで合格。何とか合格できて良かった、2日目頑張ろうと。2日目もそのまま新宿残って終電まで練習して。次の日が司会がツービート(ビートたけしの漫才コンビ)だったです。そしたら本番前に、もういよいよ始まるぞっていう直前くらいに、アルタの出番待つ奥の裏の部屋があったんですよ。そこにいたらいきなりその部屋にたけしさんが入ってきたんですよ。
テ:すごいですねぇ〜。
J:俺もたけしさん大好きでしたけど、俺の相方もたけしさん大好きで。うわ〜たけしさんだと思って。たけしさんが座ってきて、窓の外を見ながら一人でぶつぶつ喋ってんですよ。うわ〜ここで何て言えばいいんだろうと思いますよね、狭い部屋でしたから。そしたらたけしさんが、しばらく1分も経たないくらいかなぁ、部屋から出て行ったんですけど、出ていく前に『がんばれよ。』って言ってくれたんですよ。それでもうね、俺も嬉しかったけど俺の相方が嬉しすぎて、変な話ですけど俺の相方にしてみたら目的が終わっちゃったんですよ。
テ:横澤さんの次がたけしさんですもんね。(笑)
J:それで本番始まったらね、コントだったんですけど、僕が親父の役で相方が息子の役で。俺の言葉から始まるんですけど、生放送が始まったら相方がセリフ全部忘れたんですよ。
テ:やっちゃいましたね(笑)
J:コントでおまけに素人だしね。これからって感じだからまだノウハウもないじゃないですか。相方がセリフ忘れた時にどうしていいかがこっちも分からないわけですよ。それを誘うようなセリフを思いつけばいいんだけど、こっちも思いつかないわけですよ。もう完全に止まっちゃったんですよ。番組始まって最初のコーナーだったのかな、ちょっと覚えてないんですけどフロアディレクターがね、テレビで見たことある有名な人でしたよ。その人がすっごい怖い顔して。客席も静まり返ってるんですよ。俺が相方に『何か言う事あるだろ』って言うんですよ。そしたら一番最後のひとこと言っちゃったんですよ。コント全部すっ飛ばした一番最後のひとこと。俺、これはヤバイと思って。まだコント始めて何十秒か一分くらいしか経ってないのにケツの言葉言っちゃって。違うだろ、ってお前が言いたいことはこういう事じゃないのか、ってようやく相手のセリフを誘導する事ができて。でも時すでに遅しですよ。もう最後までやらせてもらえたのかやらせてもらえなかったのか覚えてないです。場内静まり返ってますからねぇ。



テ:怖いですねぇ。
J:そしたら、たけしさんが「やったー!」って出てきて、「ビリ決定!」って言って。ようやくそれで会場の空気戻ったんでしょうね。ビートきよしさんが「やめなさい」って。「何言ってんっだ、ビリまったよー、めでたいんだから。」って言ったらきよしさんが「やめなさい、かわいそうなんだから。」って。電話もやっぱり一本もかかって来なかった。裏に帰って「うわー、これはヤバイ事になった。。。」ってもうドヘコミでね。怒られるし何もかも終わったと思って裏に帰ったら、出演するタレントさん達が待ってるんですけど、高田純二さんが涙流して笑ってました。テ:最高ですね、高田純二さん!(笑)
J:高田純二さんが涙流して笑ってたのは覚えてる。その後ろで他の東京乾電池のみなさんは普通にしてたんですけど、まぁ今思えばその後にね、つい数年前まで東京乾電池にお世話になってましたんで、奇遇な感じでしたけど。20年位後に蛭子(能収)さんの紹介で東京乾電池に入るとは思わなかったけど。それが終わった後ね、もうこれはダメだと思って。お笑いは向いてないと思って。これ以上無残なね、生放送で人が見てるわけですから、そんな素人いないわけですよ。出てってセリフが一言も出てこないような。見たことないでしょ、そんな新人。
テ:いないっすね(笑)
J:それで僕はちょうどね、半年位前から漫画をね、もともとガロだったんですけど、つげ(義春)さんの影響で漫画をスケッチブックに描いたのがあって。それはどこに見せる訳でもなくてスケッチブックに描いてただけだったんですよ、暇で暇で。10ページくらいあったんで、まぁやけくそだと思って出版社に持ってった。そしたらそれが採用されて、もちろん下手だから使えないんですけど、じゃあ漫画描いてみるかって。「2,3ヵ月後に締め切り設けるから、それまでに一本描いてきなさい。増刊号で使ってあげよう。」ってい
うのがね……なんの話だっけ?これ?
テ:(笑)
J:すいません、寝起きでね…
テ:全然大丈夫ですよ(笑)
J:失礼しました。
テ:映画に行くまでのストーリーです(笑)
J:今朝ね、10時くらいまで編集やってて、さっき起きたからちょっとボーっとしてるんだよね…。すいませんでした。
テ:でも当時ガロでお呼びがかかったんですよね?
J:いやいや、ガロではお呼びはかかってないですよ。最初持って言ったのがタツミ出版で、なんでタツミ出版に持ってったかっていったら、ガロでは無理だって俺もわかってたんですよ。じゃあガロでは無理で、なんでタツミ出版だったら大丈夫かって言うとこれ問題発言かもしれないけど、そういうことじゃなくて。
テ:はい(笑)
J:やっぱりあれですよ。タツミ出版は山ほど本があるし。あとはまぁ持っていきやすかったんだね。当時会社が靖国神社のところにありましたから。採用してもらえると思って持っていってないんだから。花園神社の隣にあって、それが行きやすいのと、ちょうど「笑ってる場合ですよ」の練習を花園神社でやってたんで、それの隣にあるのがその時わかったんですよ。それをタツミ出版に持ってったら採用されたから、「あれ?ひょっとしたらいけるのかな?」と思って。それで次の日かその次の日に、今度はナガイさんにボロクソ言われてもう。「君は絵がなってない。」って。もちろんそれはタツミ出版でも言われたんだけど、ナガイさんにボロクソ言われたショックでヘコんで、原付で行ったんですけども、ヘコんで帰ってるもんだから帰りにキップは切られるし、もう踏んだり蹴ったりでね。もうやってられないと。その時にタツミ出版の人に「君だったら、うちよりもそっちがいいと思うよ。」って編集プロダクションを紹介された。それ思い出して、スケッチブック持って帰るの気分悪くて、ダメだ俺はと思って、そこに置いて帰ろうと思った。それが四谷三
丁目…いや違う、新宿の辺りだ。ちょうど帰り道だから、そこに預けて帰ろうと。で、電話したら、今誰もいないけどって言ってて、アルバイトの人がいたから「置いて帰っていいですか?」って聞いたら「別に構いませんけど。」って言って。ピンポーンってやったら女の人が出てくるから、「すいません、これ預けていきます。」って。それで帰ってきたんですよ。それで、ダメだなぁってヘコんでね、それが最初ですよ。そっからがなしのつぶてなんです。しばらくの間見たくもないって放っておいたんだけど。まぁナガイさんって人は厳しいですからね。それぐらい酷評されたんですけど、時が経ったらやっぱり、せっかく自分が最初から採用されると思って描いてた訳じゃなくて、ほんとに趣味で描いてたやつだったから、返してもらおうと思って。やっぱりあれは返してもらわないと困るなと。
テ:それでまた行った訳ですね。
J:取りに行ったんですよ。今と違って携帯電話もないしね、固定電話しかない時代だし。電話してから行けばよかったんだけどいきなり取りに行ったんですよ。だって電話するほど親しい訳でもないですから、アルバイトの人しか知らないんだから。回収しようと思って。ピンポーンって押してね、「すみません。何ヶ月か前に漫画預けたものなんですけど、返してもらえますか?」って言ったらそしたらね、「あぁ、本になってるよ。」って言ったのがね(笑)去年かおととしに出た本の版元のマガジンファイブのカンノさんって人ですよ。そのカンノさんって人が出てきて、あぁ、本になってるよって言うから、えーちょっと待ってと思って。なんの断りもなくですよ(笑)なんで教えてくれないんだ!って思って(笑)
テ:そうですよね(笑)
J:「本になってるよ。持って帰る、本?」って。
テ:スケッチブックが本になってるんですもんね。
J:自販機本になってた。「ギャラも出てるけどいる?」って言われて(笑)それでお金もらって帰ったんです。
テ:あ、ちゃんともらえたんですね。
J:何ページだったか覚えてないですけど、12000円もらってね。当時のアルバイトの感覚で言うとね、ありえないぐらいの高金額なんですよ。だって時給280円の時代ですから。一日10時間労働で2800円ですよ。それの12000円だから。一日10時間労働ってことはないと思うし。だから結構な金額ですよ。これはね素敵な商売じゃないかと思って。その自販機本っていうのも、最初自販機本にのるためにやった訳じゃないですけど…また当時、自販機本っていうのも流行ってましてね。僕が書いてた…そこは自販機本が出してた。そこに書いてたのは蛭子さんとかね、渡辺和博さんとか。あと僕とデビューがほぼ同期になるんですけど、僕が自販機本で仕事しだした頃には桜沢エリカとかね、岡崎京子とか描いてましたから。
テ:あぁすごいですね〜。そうそうたる面子ですね。
J:今自販機本といっても、今のエロ本とかの感覚とは若干違うよね。だからエロ本という感覚が今の人とは若干違うと思う。今適当に喋ってましたけどね、僕の友達なんかもエロ本、エロ本って言うけどね…。今のエロ本でヌけないエロ以外の記事が半分以上あるっていうのは信じられないだろうしね。
テ:あぁ…ないですよね。
J:昔はカラーページと一部の記事を除いたら、後は全部編集者の趣味で作ったような、編集者一人に本一冊っていう時代でね。だから編集者のやりたいように、編集長の好きな漫画を集めてこられる訳ですよ。だから今思うとエロ本のバブルとかいうのじゃなくて、本を出せば売れてっていう時代だったんでしょうね。女の裸さえ巻頭に載せとけば、中は何が載ってても誰も文句言わない。あと…あれもあったんだ。名盤解放同盟もありましたから。根本さん、湯浅さん、船橋さん…湯浅さんや船橋さんと知り合ったのも自販機本ですよ。
テ:なるほどね。
J:その自販機本が昔、池袋にあったアリス出版から出したんですけど。アリス出版で自販機本のそこから紹介されて今度、アリスの仕事をやった時に、湯浅さんや船橋さんに初めてあったのは多分アリスですよ。そのころは名盤解放同盟といっても今と違いますからね。発足したての頃ですから、名盤解放同盟を聴きにセレクションの会とかに湯浅さんの家によく行きました、当時ね。今からもう…大昔ですよ。前世紀の話ですよ(笑)前世紀っていうか、俺の代じゃないぐらい過去の話ですよね。自分のことだと思って話せないんだけど。事実として覚えてるだけで。
テ:そっか、そういう繋がりがすごいですね。自販機本で始まった…
J:その頃の知り合いがその辺の人たちですよ。桜沢エリカとかね、蛭子さんとか、根本さん。
テ:お付き合いが長いんですね。
J:蛭子さんや根本さんは長いね。ほんとに長いですよね。あと長いっていったら、石川次郎さんも長いね。
テ:あ、本当ですか?
J:石川さんはね、雑誌とか漫画とかが大好きなんですよね。出版されてるものには全部目を通さなきゃいやだっていうちょっと変わった人ですから。ある日ね、お呼びがかかったんですよ。アシスタントのハダミチトシって人がいて。ハダくんがね、僕が一番最初に置いて帰って本になったところで彼も漫画描いてた。当時は今と違ってファックスとかバイク便とかないから、必ず本人がいて渡さなきゃならない。編集者一人しかいないから、編集者がみんなの家に回って集めるってことはできないから。結局いつも僕らが持っていくシステムなんですよね。だから今の時代と圧倒的に違うのは、作家とかカメラマンとかが全部編集部に集まるから、すぐ顔なじみになる訳ですよ。おんなじところに描いてるもの同志が。そしたら石川さんが俺の漫画を見てね、「こんな下手な漫画を描く奴はいない。」って思ったらしいんですよ。とにかくどんな奴が描いてるんだ?と。石川さんはびっくりしたはずですよ。絵心がない人間が描いてんだから。漫画家になるつもりもなかった人間が、「笑ってる場合ですよ」で0点になったヤケクソで、持ってったらそのまま使われて描いてるだけなんですよ(笑)
テ:(笑)
J:それで石川さんが「会いたい。」って言ってるって。ハダくんに「来てくれん?」って言われて。だから石川さんに会ったのもほんとに大昔だよね。デビューして直後ですよ。デビューして一、二ヶ月後には石川さんのところに呼ばれてね。
テ:石川さんのことはご存知だったんですか?
J:石川さんのことは知ってましたよ。だって当時少年誌とかでね、漫画描いてましたから。本人に会ってびっくりしたのは、少年誌に出てくる自分のキャラクターはね、三頭身だけど、本人に会ってみたら180ぐらいあるから、漫画っていうのはなんてウソツキなんだと思ってね(笑)それも漫画と全然顔が違うんだから(笑)当時まだ石川さんは40歳ぐらいだったから…まだそんなにはいってないか…今より全然若いですから。イケメンみたいな人ですから、あー卑怯な人だなと思ってね。…それから石川さんにもずいぶんお世話になったんだよなぁ。「下手だから話になんないけど、これは売り出さないと君はどうにもならないよ。」っていうんでね、ずいぶん売り出しの作戦を考えてくれたんだよなぁ。
テ:へぇ〜。すごいですよね。
J:当時石川さんが宝島で連載やってて、その中で宣伝したほうがいいっていうんでね。毎月ね俺にね、三分の一ページくらいくれるんですよ。そこで勝手に宣伝描いてましたね。「原稿料をやるわけにはいかないけど、その代わり自分の宣伝スペースだと思って使っていいから。」っいうんでね。これは…何描いてたのかあんまり覚えてもないんですけどね。それしばらくやりましたね。その当時は吉祥寺まで…であの…なんの話だっけ?これ?
テ:(笑)
J:失礼しました。
テ:全然大丈夫ですよ(笑)そのあと平凡パンチとかもされるんでしょう?編集やったりとか…
J:すいませんね、一個一個の話が長くなってない?
テ:いえいえ全然大丈夫です。



J:だから…バイトの話して、それで漫画家になったっていう話したんですよね。
テ:そうですね。
J:それで漫画家でね今度は食えなくなってくるんですよ。一時期は50枚くらい描いてたんですけど、やっぱり下手ですから、気がついたら仕事がどんどんなくなってるんですよ。その頃にはね、ガロでもう漫画描いてたんですよ。若干上手になりましたから。ほんとね…毎日毎日描いてましたから若干、画力は上達して。あとやっぱりナガイさんに言われたアドバイスというのが…僕はほんとね、言われたら絶対それを直すクセはついてますんで。ナガイさんに言われたのは、線と線がくっついてないって言われたんですよ全部。だから
これは守らなきゃいけないと思ってね、線と線が閉じるようにしたんです。当時、それを一番ナガイさんに厳しく言われたんですけど、他にも言われたことがいくつかあったんでそれは守って。そしたらそれをナガイさんにもう一回持ってったら、「前に注意してきたことは直ってる。じゃあ預かっておきましょう。」と。それでガロでも当時載ってたんだけど、今度は逆に仕事がなくなってきちゃたんですよね。まぁエロ漫画の仕事がほとんどでしたからね。もちろん尺の短い3ページぐらいのものも描いてたんですけど、エロが出てくる漫画も描いてたんです。ところがこれが絵が下手だからね、女なんて描ける訳がない。無謀にも描いてたのと、おまけにその時は童貞でしたから。童貞でエロ漫画描くって自体がありえない話だったんですよ。バレたらおしまいだと思ってるから、バレたら絶対採用してくれないし、使ってもらえないのはわかってるから、もう一生懸命ごまかしごまかしね、やったことないけどそれを想像して描いてた。
テ:過酷な状況ですねぇ。
J:おまけに今と違ってAVもないわけだから、本番ったって見たことないわけですよ。人がやってるとこなんか。ピンク映画は死ぬほど見てましたけど。ピンク、ポルノは死ぬほど見てたけど、肝心なとこは全部ぼかしてるし、おまけに本当にやってるわけじゃないし。向こうも雰囲気でやってる訳でしょう?向こうも童貞や処女がやってるかもしれないんだから。それを見てまたこっちは…。それで食えなくなったときに文章を書きだしたんですよ。雑誌やエロ本の人とね、カンノさんがね、「もう君は漫画はダメかもしれない」なんて。でも「文章書いてみたら?」っていうんで。文章なんか書いてなんとかなるもんかなぁと思ったんだけど。なんとかなるっていうのは自分が使い物になるか?ってことですよ。考えたことなかったですから、そっちは。…でもまぁ何事も経験だからやってみようと思って。エロ本でコラム書いてたら、平凡パンチの編集者の人が、「面白いから使いたい。」って電話がかかってきて。それで最初は普通の活版記事みたいなのを2,3本やったんですかねぇ。それやったことない仕事ですから、原稿書くって仕事がね。活版で3ページ4ページの特集をやれっていってもね、やったことないからこれはわからないんだよ。…それを何回かやって、おまけに漫画描いたりとか、イラストの仕事もたまーにあったりしてっていうのを半年もない…何ヶ月か続けてたら。。。いや、違うなぁ…。これ昔すぎるから順番が入れ違ってますけど、最初ね…そうだそうだ。最初は連載しませんか?ってきたんだ。エロ本でやってたような1ページのコラムを連載しませんかって話が来て、連載を始めたんだ。それで連載を始めてる間に、4ページくらいの特集記事も書いてみないか、こっちのほうが率がいいからって。それでそっちもやってたのね。当時はファックスがまだない
ですから、さっき言ったようなシステムで、原稿用紙書いたら、その原稿を持っていかなきゃいけないんですよ。東銀座まで。それで週に一回それを持って行く、あと活版記事があったら持って行く、打ち合わせがあったら銀座まで行く、イラストが上がったら行く。もう週に何回も何回も。だから当時は変わった時代ですよ。どこの出版社の仕事だろうが、俺みたいな売れてない作家は取りに来てくれるわけじゃないから。とにかくね、そこで仕事が始まるとね、しょっちゅうそこに行かなきゃいけなくなるんですよ。週刊誌だったから。週刊誌何回か行ってたわけでしょう。行っては預けて、行っては預けて。そうこうしてる間に編集長が「そんなだったら、毎日来て座ってろ。デスクがあるから。」って。
テ:おぉ、すごいですね。
J:デスクでガロの漫画描いてていいっていうんで。それでも金やるよって言うから、あぁじゃあ来ようかなって思って。まぁそれがパンチの仕事の始まり。だからパンチは仕事っていうよりもね、変わった編集長でしたから。…デスクをもらって、飯代も経費で食えるし、いいことずくめだぜって編集長に言われて。それでパンチの編集部の中に仕事場もらったって感じでした。
テ:VIPじゃないですか?(笑)
J:まぁそういう時代だったんだよねぇ。別に向こうは俺が欲しくてたまらない訳じゃないんだけど。時代ですよ。変わった編集長だったんですよ。武智鉄二の甥っこさんでね。他に描いてた漫画家も、蛭子さん、根本さん、シモダさん…。当時まだ、週間プレイボーイVS平凡パンチみたいな図式が明確な時代だったんですけど、全く変わった目線でしたよね。カメラマンなんかもね、ヌードグラビアなんかは週間プレイボーイは綺麗なグラビアが載るんだけど、パンチのグラビアは荒木さんにナガハマさんっていう、男の世界!みた
いなね。ちょっと変わった男らしさ炸裂のエロ本はエロ本でも女性に媚びない、ド硬派な雑誌だったですよね。
テ:そうですよねぇ。
J:ナガハマさんがヌード撮るったってそれ、結局真っ暗で何が映ってるかわからなかったりするんだから(笑)
テ:(笑)パンチの時代は長かったんですか?籍を置いてる時代は…
J:パンチは3年半くらいだったんじゃないですかねぇ。
テ:長いですよね。



J:時間的に言うと、平凡パンチやるまでは…エロ本やり始めたころは他のバイトよりも率がよくてね、就職するよりもお金が良くて、景気のよかった時代ですよ。それで後期は仕事が全くなくなって、ガロしかなくなっちゃって、どうやって生きていけばいいだろうっていう時代ですよ。その後は平凡パンチが始まってからは忙しすぎてね、なんていうんだろう…プライベートのなくなった3年半。プライベート=仕事現場でしたから。
テ:じゃあ、ずっとそこに寝泊りしてるみたいな状態ですか?
J:もうまさにそれですよ。自由な時間なんか本当になかった。友達と遊びに行こうにも友達がいなくなっちゃった。友達と会う時間がないんだもん。仲のいい友達がいたんですよ。仲のいい友達でもね、編集部で会わなきゃいけないんだよ。
テ:呼んで?(笑)
J:だから友達をモデルにしちゃってね。友達に仕事を発注してましたよ。会社員の友達に。そいつは最後の頃、編集部に普通に出入りしてました。モデルとして(笑)
テ:すごいですね(笑)
J:だって時間がないんだもん。最終的には廃刊になる訳ですけど、あれ廃刊になってなかったら人生どうなってたんだろうと思うんですよね。
テ:へぇ。その3年半は何歳から何歳ぐらいですか?
J:25,6から28,9ぐらいまで。それで最終的に雑誌が廃刊になって半年休みがあって、パンチザウルスっていう漫画雑誌になって復活して、それがすぐ廃刊になってそれで完全に廃刊ですから。やっぱり3,4年あったんじゃないですかね。さっき言った、なんでデスクもらっていいなって思ったかというとね、週刊誌だからいろんな人が出る雑誌じゃないですか。それで取材とかで会いたい人に会っていいって言うんですよ、編集長が。俺、多分映画の話をしてたと思うんだよなぁ。そうそう、映画の話をね当時よくしてましたから、出演してもらう時に知り合いになって、もう今から出演者を当たっとこうと思って。それで当時知り合いになったのが、飯島洋一さんですよ。今回の主演のね。
テ:へぇ〜。そっから会ってるんですね。
J:そうそう。その時にね、当時飯島さんが「戦争の犬たち」っていう超大作戦争映画作ったその後で、ちょっとどこにいるのかわからなくなってる状態だったので、一生懸命飯島さんの消息捜してようやく見つかって、銀座で会って、「いま僕、平凡パンチの編集部にいるんです。」って言ったら「パンチにいるのかぁ。」って話になって。「ちょっとパンチに行ってもいいか!?」って言うから「いやいいですけど…」って言って「知り合いいるんだよ。」って。えぇ〜!?一生懸命捜したのに知り合いいるんだーと思って。それで編集部に行ったら、ほとんどの人が知り合いでした。「よぉ飯島!お前なにやってんだ?」って言ってて、「いやいやこの人が会いたいっていうからさぁ」って言うから「え?飯島さんと知り合いなんですか?」「おう。毎週ラグビーやってるんだよ。」って言うから、おいおい、編集部の人に聞けばよかったと思って(笑)編集部の人と同じラグビーチームの選手だったんですよ、飯島さん(笑)
テ:すごい(笑)じゃあその時から飯島さんでいつかは、って思ってた訳ですか?
J:もちろんそれはありましたよね。ただ、いつの話になるかはわかんないけど。当時はまだそんな大それたねぇ、飯島さんでいつか自分が撮るとかいうよりも、まぁ準備ではないけど…。当時飯島さんとかね、そう思っていろんな人に会ってましたよ、捜し出して。仕事で会うときでも出てもらいたい人に率先して頼むわけですよ。例えばあとね、この人には出てもらわなきゃと思って、一生懸命取材とかある度に行ってたのは、吉田照美さんですよ。あの顔と雰囲気は面白いだろうと思ってね。あとストロング金剛さんとかね。ストロング小林さんも当時よく会いに行ったなぁ。あとは…宇宙刑事ギャバンやってた大葉
健二さんとかね。
テ:おぉ〜。ギャバン見てましたねぇ。
J:なんとか大場さんに出てもらうことはないかって思ったけど、なかなかない訳ですよ平凡パンチで。最初はサバイバル特集ってのがあって、デスクがサバイバル対談やりたいっていうんですよ。誰かサバイバルに詳しい人いねぇかな?って言うから、普通に考えたら柘植久慶さんみたいな人がいいんだけど、それはどこでも一緒だから。平凡パンチは当時の編集長が、よそと違う変わったことをやらないと意味ないっていう人だったから、誰かよそで使ってない人いないか?って言うから、「大場健二さんなんかどうですかね!?」って言ったら「大葉健二さんってなんの人?」って言うから「ジャパンアクションクラブの人で、多分サバイバルとか経験してると思うんですよね。」なんて言って。対談だから「もう一人の相手は?」って言うから「筋肉漫談のぶるうたすさんなんかどうですかね?」「その人はサバイバルできるの?」ってうから「あれだけ身体に筋肉がついてるってことは、サバイバルの特訓してるんじゃないですかね!?」って言ったら
テ:両方ともおそらくですね(笑)
杉:デスクが「いいじゃなぁ〜〜〜〜〜〜い!!」って言ったんですよ(笑)
テ:(笑)
J:そういう優しい現場でしたから。その次に大場さんに頼んだのは、女子大生が作る平凡パンチっていうのがあったんですよ。実際は女子大生が作ってるわけじゃないんだけど、女子大生達が編集部をジャックしたっていう触れ込みでね。女子大生が全部、企画立案して進めた号です、僕達がそのお手伝いをします、と。その号があった時に、女子大生が今一番興味ある人は?っていうんで。その人たちに女子大生たちが会いに行くっていう。これは大葉健二だろうと思って(笑)
テ:すごいな、それ(笑)
J:そんでキャップに聞いたら「いいじゃなぁ〜〜〜〜〜い!!」って言うから(笑)それ
で女の子達はしらなーいって言うんだけど、「いや絶対会っといたほうがいいから。」って言って。「真田広之さんもいますよ。」って言ったら「真田さんいるんだったら行きたい!」なんて言ってて。それで騙して連れて行ったのが大葉さんのとこですよ。
テ:ギャバン。見てましたよ〜
J:ちょうどね、渋谷の駅前にジャックピットっていうね、ジャパンアクションクラブの飲み屋がオープンしてね、そこに女子大生を連れて行ってね、女子大生3〜4人連れてったのかなぁ。そんで大葉健二さんを始め、真田広之さん、志穂美悦子さんね。みなさんがお店の店員をやってる店なんです。
テ:マジっすか!?いるんですか、みんな?
J:初日だったから特にみんないました。千葉ちゃんもいて。そしたらガイラー将軍っていうのがいたんですよね。ギャバンの時の。ガイラー将軍がいたんだよー、ロビーに。これが顔が怖いんだ!ガイラー将軍が。そしたらもう女子大生たちがみんなビビっちゃってるのガイラー将軍見て。もうね震えてんのガイラー将軍見て。ガイラーさんが女の子達に震えられて、意味わかんないから睨んだりしてるんだよね。もう取材がブチ壊しになったのを僕はよく覚えてますよ。ガイラー将軍が怖すぎて。別に怖い人じゃないんですけど、顔が怖いんだよね。
テ:すごいなぁ。でもいつか映画を撮りたいっていうのは東映映画みたいな、ああいうやつを撮りたいっていうのがすでにあったんですか?
J:思ってました思ってました。だからもう東映の人たちとも当時から仲良くしていましたしね。あとホソヤさんっていうね、プロデューサーがいるんですけど、その人ともその頃からですね。
テ:そうですか。東映の太秦で僕ずっとバイトしてたです。学生時代。
J:だからまだ東映の撮影所とかには行ってないけど、当時思ってたのはね、僕がシナリオ学校に行ってる頃は、映画界っていうのは超狭き門な訳ですよね。とてもじゃないけどね、コネのない人とかは入社できない会社ですよ。例えば、僕よりもだいぶ年が下の東映の人もいるけど、その人なんかに聞いたらやっぱり推薦状がいるんだよね。まぁみんながいるかどうかはわかりませんけど。「推薦人誰なの?」って聞いたら「深作欣二と鈴木清順だ。」って言うから。そういう人じゃないと取らないんだから!
テ:(笑)
J:それは入れないだろう〜普通の人は!
テ:それ普通じゃないですもんね。
J:結局はね、なんで飯島さんをそうやって捜し出したっていうと、飯島さんは自分がプロデューサーでお金集めて、自分で映画撮った人だから、戦争映画をね。何千万かけて。俺も自分で作るしかないって当時からわかってたんですよ。撮影所なんか入れるもんじゃないと思って。やっぱ飯島さんにあったのはそれが理由ですよ。それで色々話を聞こうと思って。もちろん飯島さんのことは大好きでしたしね。僕の芸名も全部飯島さんの演じてた役から来てますから。
テ:あっそうなんですか。
杉:そうそう、飯島さんがピンク映画でやってた役をもらって今の名前なんですよ。
テ:そのまんまなんですか?
J:最初は杉作獣太郎っていってたんですけど、それは飯島さんが主演のね、中村幻児さんのピンク映画の主人公の名前をね、そのままもらったんですよ。それぐらい飯島さんのこと僕ファンでしたからね。
テ:あーそういうことだったんですねぇ。
J:もちろんそのやり方にも感動してた訳ですよ。この映画界厳しい狭き門の中でね、例えば自主映画っていうのは当時からありましたけど、飯島さんのは違う。自主映画っていうには規模が大きすぎる。何千万かけてるし、ジャンルとしても戦争映画だし。…だからもう、やっぱりそれしか僕もないと思ってましたので。キャスティングも平凡パンチの取材の中で、とにかくああいう一対一と…女性とかには全く興味がなかったですね。男の映画しか考えてなかったですから。いろんな人に会いに行ったな〜。ミッキー・カーチスさんとかね。ミッキー・カーチスさんもまだ当時、役者やる前ですからね。バイク屋やってた頃でしたけど。当時ね何年間かやりましたけど、出てもらいたいって人には率先して会いに行きましたね。まぁいろいろ会いにいったなぁ…。
テ:もう幼いころから東映映画に憧れみたいなのはあったんですか?
J:そうですよ。やっぱりああいうなんていうんですか。世の中で絶対的に弱いものをいじめてるだとかね、とにかく正しいことをやってるのに酷い目にあってる人とかね、ほとんどの人が悪い人なのに、ちゃんとしたこと考えてる人は主人公だけだったりして、ところがその主人公が大組織とか何万人を相手に最後戦っていくっていう姿をね、毎週毎週描いていた映画会社ですから。こーれしかないだろうと思ってね。僕もそれのおかげで、それなかったらヘコんでとうの昔につぶれちゃってますから。中学を退学になったころに僕はハマリましたから。中学を退学なったときにヘコみますよ普通だったら。子どもだったらね。私立の中学でしたから、学業不振で学校を退学になる訳ですよ。ちなみにそこの11期下が、僕の後輩がロマン優光(ロマンポルシェ)なんですよ。だからロマン優光だけは、この世界で数少ないたった一人のこの同じ業界での後輩ですから、向こうにしても、ロマン優光に対してだけは厳しくビシビシ(笑)
テ:愛ですね(笑)
J:もうビシビシ(笑)
テ:あぁそういうつながりなんですねぇ。じゃあ20代後半ぐらいからは映画に向けて結構戦略的ですね。
J:壮大な準備期間ですよね。当時から脚本書いたり、電話してましたねぇ。あと企画考えて。あと変な話だけどね、当時何を映画化しようと思ったらね、ワイルド7しかないと思ってね。これやろうと思ってね。飯島さんは戦争映画だった。俺はワイルド7しかないなと。だから望月さんのところにはよく行った!望月さんのとこは本当よく行って描いてもらいましたよ。望月さんに漫画描いてくれーっていってね、イラストとかの仕事をね。
テ:すごいですね。
J:当時、望月さんともずいぶん親しくなったんですよ。その後、編集者の仕事を終えたからブランクができちゃいますよね。まぁ当時親しくっていったって何回かしか行ってないですけどね。でも行ったらもう、とにかく映画化して映画権もらいたいもんだから、こっちは素人で子どもだけど。ワイルド7がいかに自分にとって素敵な作品かみたいな話をして(笑)そしたらつい何年か前に望月さんに、ワイルド7の本が出た時に何冊かあとがきじゃないけど本の中で原稿書いた時に、久々に望月さんとかと何回か行ったんですけど、覚えてくれていましたね。あぁ覚えててくれてたと思ってね。でも、まだ映画化権のことは持ち出せませんでしたけど。当時からワイルド7で作ろうと思ってね。ワイルド7のメンバーを早いとこ会って集めなきゃと思ってね。
テ:なるほどねぇ。
J:やってました。ただ編集者が終わっちゃったから、おまけに…なんかちょっと寂しさもあったし。
テ:編集がおわったのは28,9でしょ?そのあとはそういうストーリーが始
まるんですか?
J:その後は…退職金みたいなものをもらいましたから。退職金みたいなものを何百万かもらったんですよ。ほんとねぇ相当もらいました。一年間南の島行って、暮らせるぐらいもらいましたから。これ元手にね、なんかね仕事するのが嫌になってたんですよ。なんで俺が仕事するのが嫌になってたかというとね、バブルの時代だったんですよ、ちょうど。だから退職金も出たんだと思うんだけど。ちょっとね、雑誌とか原稿の質が変わってきたんですよ。馬鹿記事だけ書いてりゃいい時代を過ごして来たんですけど、80年代の終わりぐらいからね、「役に立つ原稿」っていうのを求められ始める訳ですよ。実践、実際に役
に立つ原稿。日本だったら何かのデータが載っているような原稿をね。これはもう馬鹿馬鹿しくてやってられない。これは僕だけじゃなくてみんな当時言ってたことなんですよ。当時ね、僕は編集とか雑誌の記事書く仕事を成り行きで始めましたけど、当時本業でやっていた人たちで辞めた人、僕の知っている中でも何人かいますね。もうやっぱりやってられないって、面白くないっていうんで転職して普通のサラリーマンになった人いるんですけど。それでね、これを元手に…映画を撮るには足りない額ですよ。今と時代が違うから。当時映画を撮るっていったら35mmしかない訳ですから。全然何百万かなんかで取れる訳ない。これはどうにもなんねぇなと、なんとかして金を増やせないかなと思って。…そしたらね、ギャンブルだなと思ってね。
テ:(笑)
J:金を手っ取り早く増やすにはギャンブルしかないだろうと。ちょうどその頃、僕が仕事やってたハギワラっていう編集者がいて、サン出版の。そいつがね、親切ないい男でね。後に演劇やったりする人なんですよ。彼がね親切ないいやつだったんだよなぁ。僕が平凡パンチやってる間にね、もともと僕おニャン子クラブ全然知らなかったんですけど、ある時見たらおニャン子クラブがなくなるって。見たらみんなファンが泣いたりしてる。これは由々しき問題だと思って。テレビ局の番組編成のせいで、この若者たちがね、自分達の毎日毎日信じてた世界がなくなろうとしている。これは立ち上がらなきゃいけないじゃないかと思ってね。こーれは革命起こさなきゃいけないと思って。それでおニャン子に突入していく訳ですよ、俺は。
テ:きましたね。。。
J:突入していった時に最初はそういう気持ちで突入していった。そしたら突入してる間に好きになっちゃいましてね(笑)突入してる間に俺がね、ゆうゆのファンになっちゃった。
テ:ゆうゆでしたか(笑)
J:そしたらねぇ、ハギワラっていうサン出版の編集者が、さっき言った石川さんのとこにいたハダくんの友達だったんですよ。よくうちの近所来てラーメン食いに来たりしてた。彼が後々にサン出版の編集者になって、あいつの雑誌のシュガーの編集をやり始めた。そしたら「杉作、ゆうゆに会いたくない?」って言うから「会いたいよ!」っ言ったら連載仕事始めようよっていうんで
テ:来ましたね〜。
J;それでゆうゆと俺の連載始めてくれた(笑)
テ:すごいなぁ〜!
J:それでゆうゆと毎月ね、パチンコ行ったりね、競艇場行ったりね(笑)
テ:それいいんですか?(笑)
J:まぁゆうゆも大人でしたからねぇ。20歳なってましたから。夢のような仕事ですよ。毎月毎月ね、ゆうゆと一緒にパチンコ行って…何行ったんだろう?パチンコ行って競馬行って…マージャンはやってない…まぁなんせギャンブル巡りみたいな仕事。それでギャンブルやった後にはすき焼き食って帰るみたいな。寿司屋行って帰るみたいな。
テ:会社の金で。
J:「寿司屋行ったりすき焼き行ったり、これお前大丈夫なのか?」って言うから「大丈夫大丈夫!」って言ってたら案の定クビになりましたけどね(笑)
テ:(笑)
J:まぁでも彼にとってもそれはよくてクビになった後、役者になりましたから。ウエスギさんとこのね、はっけんのかい?かな。アキヤマミチオさんのとこですか。そこのウエスギさんの演劇に出てましたね。
テ:夢のような仕事ですねぇ。
J:ほんと。ゆうゆと毎月毎月。平凡パンチの時にも一回、グラビアの撮影で会ったんですよ。それでなおファンになっちゃったから。いい子だったんですよ、現場来たら。当時、アイドルとかモデルさんの撮影に立ち会うことも多かったんですけど、ゆうゆって子が画期的にいい子でね。なんて素敵な女性なんだろうと思ってね。おまけにね熱狂的なファンになっちゃってね。熱狂的なっていっても今みたいなことはないけど。
テ:(笑)
J:だからね加護ちゃんの時もそうでしたけど、俺がファンになるキッカケって相当いつも変わってますよ。おニャン子クラブの時もね、よく知らなかったんだから。番組がなくなるって聞いて、ファンのみんなが泣いたり盛り上がったりしてるのを見たときに、これは問題だろう!と思った、本当。番組編成だろ元は、と思ってね。番組編成が元でね、この…彼女たちは彼女たちで毎日毎日学校帰りに来てる。それで男の子たちは男の子たちで毎日毎日集まって応援してる。毎日毎日キチガイみたいなイベントですよ、あれ。命がけのイベントばっかりだから。それほど熱狂していたものがなくなってしまうってこれはね〜、そんなことでいいのかこの世の中と思ってね。それが元でしたから。これは革命起こさなきゃいけないと思って。女の子たちも番組編成が元でなくなっちゃうんだから仕事が。かわいい女の子たちが酷い目にあう。あとなにか男の子たちがこう集まって、これ全然悪
意のない人たちじゃないですか。女の子目当てにみんなで応援してるっていうのは。悪意のない人たちが酷い目にあうっていうのが、それがやっぱり許せなくなるんだよね。
テ:あぁー、わかります。なんかね僕、杉作さんのこの突き進んでいく源にあるのは何かを知りたかったんです(笑)今までずっといろいろされてて、辛い状況だと思うんですけど。そういうことなんですね。
J:そんな感じそんな感じ。
テ:なるほどね。。ゆうゆと夢の時間も終わって…
J:楽しかったねぇ〜。ゆうゆと…いやぁ今思うと昔すぎて実感として思い出せないんだけど、当時は楽しかったはずですよ、多分。
テ:(笑)
J:だってゆうゆと寿司食いに行くとか思わないもんなぁ。すき焼き食べに。そんで毎月毎月一緒にいるでしょう。向こうは当然仕事仲間ですから、相方ですからね。楽しい仕事だったなぁ。
テ:いいなぁ〜。
J:でもゆうゆも最初のグラビアの撮影の時から、いい子ってのはただかわいい大人だなと思ってましたけど。実際一緒に仕事してみて本当に大人でしたよ。ちゃんと大人の女性としてこの世界で仕事してるんだなっていうね。いろんな背景もあって頑張ってるんだなっていうね。ほんと不謹慎な気持ちは全くなかったんだよね。そしたらハギワラなんかもね、そういうところにグッときてね。例えば寿司屋とかで寿司食って、それだけでも本当は高い料金なんだけど、マネージャー、俺、ハギワラ、カメラマン、それで寿司食いたい放題
でしょう。食いたい放題食った後に、「ゆうゆ、お母さんやお姉さんにお土産持って帰らなくていい?」って言ったらゆうゆが、「えっ、いいんですか?」って言うから「いい、いい!おやじさん、特上包んであげて。」(笑)そりゃクビになるよ(笑)
テ:やりたい放題(笑)
J:この間、ハギワラの映画の上映の時に来てて、「この間、ゆうゆの時のマネージャーに会ったよ。」「えっ何言ってた?」「ハギワラさん、また飯食いに連れてってくださいよ」って(笑)
テ:じゃあそのあとはどういう風に仕事をやって…
J:あぁなんの話だったか忘れちゃった。ハギワラがパチンコやってたんですよ。で、当時ねパチンコの収支表つけてて、毎月10万くらい勝ってたんだよ。パチンコは勝ち組と負け組がはっきりと決まってるゲームだから、常に勝つほうに入ればこれは勝てると。他の勘でやる商売と違って、勘とかが頼りのあやふやなギャンブルではないと。盤面に全て出てると。盤面さえ読みきれば、絶対勝てると。まぁ言われてみたら確かにそうだと。釘っていうのが確かに存在してて、あれ今みたいに後ろに基盤があって、設定があってっていう時代じゃないですから。いわゆる全部、情報が盤面に具体的なものとして出てる訳じゃない。ちょうど田山さん、パチスロ必勝ガイドの田山さんとかがそういう原稿を書いてた時代です。盤面見て、これだ!と思ってね。もうほんと、これはお金が世の中に泳いでるわ!と思ってね。それで何百万か元手にあれば、これは会得できるはずだと、それでギャンブラーになる訳ですよ。仕事全部辞めてね。それが30歳の頃ですよ。
テ:遂に杉作30代に突入しました。
J:30に突入して、ギャンブラーに突入ですよ(笑)朝から晩までパチンコパチンコですよ。もう朝、夜が明けたらパチンコ。寝るまで閉店までパチンコ。これがもう…あんまり続かなかった。これが続かなかった。お金がなくなっちゃって。何百万かあったのにもうあっという間ですよ。もう負け負け負け負け。もう毎日毎日釘を見てね、店出たらすぐ釘買いに行ってってやるんだけど、わかりゃしないんだよ、これ。やっぱり素人なんかには。気が付いた時には、時すでに遅しですよ。まぁあの、自殺を決意した瞬間ですよ。自殺決意した頃ですよ。一度目の自殺、人生の中での一回目の自殺寸前の時。今でも覚えてます
よ。あの名盤解放同盟の当時メンバーだったピストン原田さんのね、アリスの編集者だった原田さんのお母さんだかが亡くなって、お葬式に行かなきゃ、お葬式に行こうって根本さんから夜電話がかかってきたんだけど、葬式に着ていく服もなければ、靴もないんだよ。靴もなくて、包んでいくお金もないっていう状態だったから、俺はもうおしまいだと思ってね。その時ですかね、これは死ぬしかないと思った頃ですよ。まぁ、ギャンブラー…結局ね、そんな状態だけど、お金がなくなった状態はわりと早かったけど、最終的にそんな生活が2年ぐらい続いたんですかね。2年くらいパチンコ漬けの日が。でも、そっから
また世の中に復帰していくわけですけど。よくあのギャンブラー生活から今みたいに戻れたなと。今ギャンブル全然やらないんですけど。
テ:でも32,3じゃないですか、その時点で。じゃあそこからどう回復していく訳ですか?
J:回復はね、これもう偶然なんですけども。ギャンブルやってたらね、白夜書房とはもうデビューしてすぐの頃から原稿書いてましたから。白夜のね…なんか別に自分の用事があった訳じゃないんですよ。…何かで白夜書房に行った…あぁ思い出した。その原田さん!お母さんが亡くなった、名盤解放同盟の原田さんが白夜の編集者だったんですよ。名盤解放同盟がらみとか原田さんの仕事で…そうだそうだ、原田さんに会いにたまに白夜に行ってたんですよ。
テ:なるほど。
J:そしたら白夜のヤマカドさんって人が、今偉くなってますけど、ヤマカドさんがね「杉作さん、パチンコやってるんだって?」って言って「パチンコやってるんですよ。」「パチンコ漫画の本を立ち上げるんだけど、原作書いてみないか?」って言うんですよ。それで久々にその手の出版のほうに復帰したのかな。原作者の仕事なんてやったことなかったですから、生まれて初めてやりましたけど、そしたら案の定あんまり面白くなくてね。すぐ終わっちゃうんですけど。
テ:(笑)漫画描く訳じゃないんですよね?
J:うん、原作。それで、漫画の原作やってそしたらちょうどその頃ね、プロレスファンで
知り合ってた東芝映像っていう会社があって、東芝映像のプロデューサーがいて、彼とはプロレスファン同志で知り合ったんだけど、プロレスの価値観が一緒だったのかな。全く一緒の価値観を持ってた。それでその人とプロレスの話をいっつもしてたんだけど、ある時にパチンコのビデオをね…その後だよなぁ…その原作始めた頃かもしれないけどちょうど同じ時期に、パチンコのビデオっていうのがよそで出始めて。ウチでも出そうと思うんだけど、杉作さんやろうよっていう話になって、パチンコって題材で、面白けりゃなんでもいいって人でしたから。パチンコっていうパッケージになってれば何やってもいいって
いう。俺が企画と構成を全部やった。表面だけパチンコで中は自由なやつ。でも予算があんまりないからドラマ仕立てにはできないけど、バラエティーものだったら何やってもいいって。いよいよ俺の好きな時代がやってきたなぁ!と思って。ところがいきなり演出は無理だから、それをまずやったのかなぁ。その時に、前から考えてた人たちをキャストする訳ですよ。1本目に出たのがストロング金剛さんとかね、蛭子さんとか…結局3本作ったんです。2本目に出てもらったのが…えー、1本目に出たのがあと石川さんとか。2本目に出たのがみうらさん…3本目が根本さんみたいな。今回の映画にすごくよく似たメン
バーなんです。
テ:なるほど、もうすでに!
J:今回のメンバーに出てる漫画家の人たちは、みんなパチンコの時に出てます(笑)
テ:原型が(笑)すごいほんと戦略的ですよね(笑)
J:戦略的っつーか、戦略的っていうよりやりたいことはいっこしかないんだよ、昔から。
テ:なるほどね。筋が通ってるんですね。
J:やりたいことは昔からもう一本だけですよ。出てもらいたい人たちもずっと一本ですよ。浮気性じゃないですからね、全然俺は。だから、当時それやってる間に、もちろんそれはそんなにバジェットのデカい仕事じゃないですから。面白いだけの仕事で、楽しいだけの仕事だったんですよ。当時のそのディレクターっていうのもパチンコキチガイなディレクターだったから、朝から晩までパチンコに入り浸ってるようなディレクターだったんですけど。そのディレクターがある時、深夜番組始めたんですよ。そしたら、「杉作さんも作家でやらないか?」って話になって。局が日テレだったんですけど、日テレは赤坂近いじゃないですか。「赤坂にいいパチンコ屋あるよー。」なんて言って、俺はパチンコ懲り懲りだったんですけど(笑)それで作家でいき始めて、作家でいってる間に出演もするようになって。それがテレビの始まりじゃないですかね。だから、パチンコからの流れです。ほんで、やってる間にタモリ倶楽部とかにも出たのかなぁ?その番組の作家がタモリ倶楽部もやってて
テ:繋がって…
J:一時間番組でしたから結構作家の人数も多くて、10人近くいたんじゃないですかね。作家の人たちだけで。それでその会にいつも行ってる間に、…どっちが先かわからないけど、タモリ倶楽部も同じ作家さんでしたから。それで再び、物書きから始めるというよりはそっちから復帰したんじゃないですかねぇ。そうこうしてる間に、これはいけないと思ってね、もう体制立て直さないと俺はおしまいだと思ってね。ちょうどその頃、パチンコキチガイのプロデューサー、プロデューサーもパチンコキチガイだった。その日テレの番組の。それが結核で入院したんですよ、パチンコのやりすぎで。貧乏こじらせて。局のプロデューサーなのに全部金をパチンコに使っててね、貧乏のどん底だったんです、その人は。これは俺も反省しなきゃいけないと思ってね。そこから仕事始めたんじゃないですかね。その結核で懲りたんですよ。それでいっつも狭い部屋で、丸一日中みんなで仕事してたから、結核が感染するっていうんでね、みんな結核疑惑が出てきてみんな検診受けに行って、これはいけないと思ってね。当の本人は療養所に入ってましたけど。俺はこれじゃいけない!と思ってね、それで再び仕事し始めたんですよね。パチンコは勝てないと。。。パチンコやって療養所にまで行かれちゃうと(笑)それも局のプロデューサーでですよ?相当もらってるはずの人が全部スって、おまけに結核になるぐらい貧乏のどん底にいるのに、俺なんかが使えばやれる訳ないと思ってね。…それで今に至る。。それで、この映画に関しては、そろそろもういい加減ね、ずーっとやろうやろうと思うことの連続だったんですけど、やっぱりやったら損する訳じゃない。どう考えたって。何もかも破壊される恐れがある訳ですよ。生活から何から。まぁ今、ほんと見事に全て破壊されてますけど。それが怖かったんですよね。ところが、怖いのもあるけど、企業に頼まれてやる訳じゃなくて、自分からやることはずっと考えてましたけど、自分から立ち上げてやるってことなんだから、年齢的にねもう40も回ったし、体力的に今やんないと無理だなと思ったから。それで今始めたんですよ。そしたら案の定、俺の中の生態圏が全て破壊されてしまいましたけど。まだ今ならなんとか頑張れるんだよね。まぁ良かったかなぁと思って。判断としてはギリギリ間に合ったと思って。
テ:杉作さん今、40ですか?
J:今、40…今年で5です。あ、4か。年もわからないぐらい今破壊されて、この2,3年はもう…何もわからないぐらい破壊されてる
テ:え、36年生まれですか?
J:36年。
テ:僕46年です。
J:46年?じゃあちょうど…40いくつ?
テ:いや(笑)僕34です。
J:今年は?
テ:今年で35です。
J:あぁ!じゃあ俺45なんだ、もう…
テ:そうです。
J:うわぁ!もう45だよ…。いやぁ、エライことになってきた…。
テ:でも僕あの、今年から10年間をゴールデンエイジにしようと目論んでるんで(笑)
J:(笑)
テ:その10年間でどんなに楽しいのかなっていう話を今日聞けるかなと思っ
て来たんですけど。35〜45で。
J:一番いい時期だよね。男性として。
テ:きっとそうかも。
J:いやわかんないですけど、そんな感じがしますよ。モテる気になりゃ一番モテる時期だよね。今時代的に。若い女の子達一番好きなんじゃない?その辺の年齢の人が。30代後半辺りはモテるでしょう!これはモテると思うよ。
テ:なんかいろいろあって、まぁ離婚したばっかりなんですよ。
J:(笑)あれ、結婚したばっかりだったんじゃないですか?結婚したんじゃなかったっけ?
テ:ううん、全然。もう12年一緒でした。
J:奥さん一回紹介してもらったじゃないですか。
テ:最初の時ですよね。
J:あの人と別れたの?
テ:そうですね。で、マンション売って、調停もして…
J:景気悪いなぁ(笑)でもよかったじゃないですか、自由になれて。
テ:すごいよかったです。お互いよかったです。ちょっとお金がかかりましたけど。で、やっと身軽になって…じゃあ10年頑張ろうと。
J:じゃあこれからはもう、どうやったって生きていけるよね。男一人ぐらいどうやったって生きていけますからね(笑)
テ:ありがとうございます(笑)
J:いやほんとほんと。あのね今ね、墓場プロで仕事してもらってる若い人たちを見てても思うんだけど、20代とかのほうが生きていけないね。お金ないと。やっぱり40くらいになると収入なくても生きていけるよ。誰かが食わしてくれるもん、飯とかは。友達とかがみんな経費で飯が食えるようになってるから。ほんで後輩もいっぱい出来てるでしょ、年下の。俺今ほんとね、10も20も下のヤツに伝票きってもらって飯食わしてもらって、生活してるんだもん。ほんとほんと。今週一週間のうち半分ぐらいは、仕事もしてないけど…こんなこと言うと怒られるけどそいつらが。全部よその会社の経費で飯食ってますよ。
テ:(笑)
J:なんとかなるんですよ。お金持ってる人たちも出てきはじめてるから、昔からの知り合いで。そういう人たちがなんとかしてくれるんです。いい時代になってきてますよ。だからね、20代の時に仲間集めて映画撮ろうったって無理だと思う。その頃こそほんとにみんなにギャラ払わないと、みんなも生きていけない。今は例えばの話だけど、みうらさんにギャラ渡さないとみうらさんが生活できないかっていったら…みうらさんもそりゃ楽じゃないかもしれないけど、それはない。それは気が楽ですよね。
テ:うーん、そうですよね。
J:蛭子さんにどうしてもギャラ渡さないと、蛭子さんが生活できないかっていったらそれはない。それに甘えてる訳じゃないですけど、なんとかやっていけないことはないっていう。ただ、生活はほんとやっぱりね…それがすっごい怖かったんですよ。なんで映画やらなかったっていうと怖いからですよ。とにかく恐怖心のみですよ。だって例えばの話で、パチスロをやるとかポーカーゲームをやるとか、金銭のかかるギャンブルをやる時ってちょっと怖いじゃないですか。最初始める時。それの最上級のものですよ。だから足がすくんでたんだけど、もう年齢的に今やんないと間に合わないと思ったから。もうこの映画製作っていう怖いギャンブル店に入ってった訳ですよね。今のとこずっと、現時点では…まだ大当たりの来ない、パチンコとか競艇で言うとまだ当たりが来ない…今どこまで持つかという時期でしょう?夕べもね、今言ったパチンコビデオ一緒にやってた東芝のプロデューサーに飯食わせてもらいましてね。その東芝のプロデューサーも、後々…最初プロレスのことで知り合ったんだけど、後々はその人と俺とアライ社長とフユキさんとで、FMWの運営する時期があるんですけどね。それ3年半ぐらいやりました。これもギャンブルの時期だったね!
テ:すごいですね(笑)
J:最終的に4人のうち2人死んじゃいましたからね。それで男の墓場プロっていってるんですよ。
テ:なるほどそうでしたか!
J:4人でWWFみたいな大映像会社にしようっていって、結局ディレクTVの搭載以降、二人亡くなっちゃいましたから。かっとばしますけど、それが二回目の自殺の時期ですよ。これは本当に自殺しようと思ってね、それで熱海に行った。熱海の海で飛びこんで死のうと思ってね。当時の東芝映像のプロデューサーも東芝退社して、今四国にいるんだけど。4人のうち一人四国帰って、二人死んで。。。これもう生きてられないと思ってね。熱海に死にに行く時に、東芝のプロデューサーの部下だった男には、そいつだけには連絡してた。今から俺は死に行くんだと。「いやぁやめてくださいよ!」みたいなこと言ってたけど、いやもうダメだっていうんで、それで熱海に。それが墓場プロ立ち上げの年の1,2年前じゃない。それで生きてるわけには行かないと思って。死のうと思って。それで今回の一作目のロケ現場も熱海なんですよ。墓場プロっていってね、とにかく死んだつもりでやってる。死んだつもりじゃないとね、このギャンブルは無理だよ!!
テ:(笑)
J:なんの可能性もないですよ今。未来の。いわゆる普通の意味での。例えばの話、女性と仲良くなろうとか結婚申し込むってことはありえないもんね。生活が維持できないんだもん。例えば俺一人だったら友達に食わしてもらえるけど、カミさんまで食わしてもらえるかっていったらそれは無理でしょう!俺は、自分がどれくらいの男っぷりかはわかってるから、ヒモになるほどの男っぷりと女性に対してのキメ細やかさはないし。それがちょっと怖かった。…そんな日常ですよ。だから今はどうだっていいって感じでね。どうだっていいけど別にヤケクソになってる訳じゃなくて、やるからにはね、ほんとさっきから言っ
てたその正義心が年齢を越えていってるしね、世の中からまともな男像みたいなものが消失しようとしてるから。なんとしてもこれを復活させるためには、まぁ一命を投げ売ってていう気持ちはありますよね。どうやったってにっちもさっちもなんですけどね。

【杉作J太郎さんより高円寺の若者たちに男のメッセージ!!】
「まあ、どうにだってなるってことですよ。女の子も今の時代どうにでもなるのかもしれないけど、ほんとどうにでもなるしね、死ぬなんてことも隣り合わせだし、生きていようと思えば生きてられるし、お金ももうけようとしたらもうけられるし、お金なくなっても生きていこうと思ったら生きていけるし、まあ、どうだっていいってことですよ。俺は今思うのは人間どうだっていいってことだね。だから自分が信じていたことはやればいいんじゃないですか。」

【J、吠える。】
「量産で3本目、4本目、5本目、100本目と作り続けていきますんでね。これほんと冗談でやってるんじゃないいから。なんとか資金調達も順調なんで、1回はじめたからには死んだつもりでって言ってるけど。テクニック的なこととか、今の時代ですよ。テクニックや技術はみんな素晴らしくなってると思います。すべてのジャンルが熟成してるんだから。たとえば雑誌。昔と比べたらデザインの割付とか絶対今のほうがいい。テレビ番組のCGとか。テクニック的なことは全部よくなっている、じゃ何かが悪くなっているだろう、そっちを観てくれってことですよ。観にきてもらいたいんだけど、そっちを観て欲しい。これが正しい男の道だっていうのを同調している人たちだけで作ってますからそこを観てもらいたい。普通の映画とは作ってるプロセスがすごく違うから。」

【映画上映情報】
4月22日から下北沢シネマアートンで追加上映決定!!
「任侠 秘録人間狩り」「怪奇 幽霊スナック殴り込み」の豪華2本立て
とんでもない超豪華出演陣はこちら↓
男の墓場プロダクション
http://www.otokonohakaba.com/

| テリー植田 | フリーペーパー | 11:23 | comments(0) | trackbacks(1) |
2005.09.19 Monday
猫ひろしインタビュー記事


ついに全国区へ!話題沸騰の身長150センチ未満のお笑い芸人“猫ひろし”さんが、SHOW−OFF表紙&巻頭インタビューに登場!!

ビッグな夏フェスからコアなイベントまで全国を飛び回る日々が続く猫さんに、なんと三軒茶屋の普通の喫茶店でインタビューを敢行いたしました。携帯カメラ攻めを浴びながらの楽しいインタビューになりました。猫
(インタビュー&テキスト:テリー植田 撮影:ヤマハタマイ 協力:カフェCUP BEARER 三軒茶屋)


テ:猫さん、改まると恥ずかしいですね。今日は真面目な話からくだらない話まで聞かせて下さいね!!
猫:ニャーッ!!
テ:まずは芸人に至るまでのプロセスを聞かせて下さい。小さい頃からの話を聞きましょうか?
猫:高校は千葉で、生まれも育ちも千葉なんで。千葉の市原っていう、すごい田舎なんですよ。あ、プロフィールは六本木になってるんですけど(笑)そこは七不思議の一つと言うことで。(笑)田舎なんでテレビしかないから。で、高校も進学校じゃない所なんで、どうしようって。別に就職とかも考えてなかったし。でも田舎は嫌だなって思ってて。田舎って言っても東京まで2、3時間で行けるんですけど、でもそれでも東京行ったことなかったんで。高校の時に進学校じゃなかったのに突然大学行こうと思って。時間ができるから。このまま普通に就職するのも嫌だなって思って。で、とりあえず何でか知らないけど東京だって思って(笑)本当に僕一人しか進学しないような。ような、進学クラスもあるんですけど、僕は入れなかったんですよ。頭は悪かったし、学校よく休んでたんで推薦枠にも入れてもらえなかったんですよ(笑)なんで、とりあえず受験だ!って思ってやったんですけど、見事に全部落っこっちゃって。偏差値25ぐらいしかなかったから。とりあえず一年浪人してやらないとって、バーッと勉強して、一浪して大学に受かったんですけど。埼玉の岩槻にある目白大学に。埼玉県の目白大学っていう (笑)たぶん10年後にはなくなってるんじゃないかな?っていう大学に入って。最初は日大とかそういう所に行けば高校でもヒーローになれるんじゃないかなって思ったけど、やっぱりそんなに甘くなくて。一浪して、全部落っこちて、二次試験の補欠で受かったような所で、あんまり喜べなくて。でも埼玉だったんで。大宮に住んでたので埼京線で東京に30分で行けるんですよ。大学の時、奨学金でお金借りてたし、親からも仕送りもらってたんで、丸々10万円、何もしなくても入ってくるんですよ。
テ:それは遊びに使えるの?
猫:そうなんですよ。大学に行って先に単位取っちゃおうって思って、3年間で取っちゃって。あと空いてる時間で、その10万円で、とりあえず劇場行かないとって思って。週5回ぐらい行って。
テ:演劇ですか?
猫:演劇もお笑いも全部行ってましたね。田舎だったんですけど、高校の時にませてた奴っているじゃないですか。映画学校とか行ってるような。その友達と連絡取り合って。そしたら単館映画っていうのがあるって。そんなの知らないから。映画なんてグーニーズぐらいしか見たことないから(笑)で、見に行ったらすごく面白くて。
テ:その時は何をやってたの?
猫:井口昇さん。って最初からアンダーグランドばりばりの見てたんですけど。でもすごい面白いですよ。めちゃめちゃ娯楽映画みたいな。ただ金がかかってないだけで。友達は1回しか見てないんですけど、僕は10回ぐらい見に行ってて。本当に客が3人ぐらいしかいない時があって。で、井口さんって何やってる人だろうって思って。そしたら大人計画出てるっていうから、それを見に行ったらまた面白くて。松尾スズキさんのエッセイとか読んで、それも面白くて。ちょうどお笑いだと、浅草キッドさん、爆笑問題さんとか千原兄弟さんが東京に来た時、ジャリズムさんとか。 「浅草お兄さん会」見に行ったらキッドさんが漫才やってないんですよ。司会しかやってないから、何だ騙されたって思って。その時、東京ダイナマイトさんがやってて、すごい面白くて、ずっと見に行ってたんですよ。それでちょっと僕もやってみようかなって。
テ:見に行くまでは何もやってなかったの?
猫:大学では何もやってないですね。
テ:お笑いをやりたいっていうのは根底にあったんですか?
猫:少しはあったんですけど。
テ:役者志望だったとか?
猫:いえいえ、そういうのは何も。ただ時間があるから、とにかく見に行こうっていうのがあったんで、それの延長で友達を誘って無理矢理、ちょっと作ってやろうよって、落っこっちゃったんですけど。そしたらその時、二郎さんが、背が低かったんで「今度、トンパチプロっていうの作るから、よかったら来なよ」って。それから手伝いやらせてもらって。でも、二郎さんが作った集団の旗揚げ公演があって、それ呼ばれてなくて客で普通に見てたんですよ。あれ、僕呼ばれてないなって(笑)忘れられてるって思って、もう一度ラブレターみたいなのを書いて、それで「手伝い来てよ」って言われて行かせてもらったんですけど。
テ:その時に名前をつけてもらったんですか?
猫:ええ。それが大学4年の時だったんで、学生やりながらはダメだって言われてて、一年間は手伝いやって、その時に芸名が30回ぐらい変わってるんですよ(笑)最初、タランチュラ。
テ:それひどい芸名ですね(笑)
猫:ひどいですよね。その時は、スタイリッシュって言ったらおかしいけど、オシャレなのが流行ってたんですよ。コンビ名は片仮名で、名前は本名でみたいな。ちょうどボキャブラとか終わってオンエアバトルのころ。今でも活躍されてるラーメンズさんだとか、それこそオシャレな白い服着て、みたいな。バナナマンさんとか。そういうのを見てたんで。演劇とかもそういう流れであるじゃないですか。そういうのをやるのかなって思ってたら、最初タランチュラって芸名がついたんで、これ際物じゃないかって思って。苗字があって名前があるっていうのがよかったんで、例えばビートたけしとかポール牧とか、そういうのだったらいいなって思ってたんで、テレビ見て思い出して、タランチュラ本田っていいんじゃないかって思って、それで二郎さんにタランチュラ本田ってどうですかね?って言ったら「お前、何勝手なことしてるんだよ!」って言われて、「じゃあお前は明日から片仮名でホンダミナコだ」って。次が背が低いだけで片仮名でミカミヒロシとか。あとダンス
マンが流行ってた時にウンコマンとか。ラーメンズさんが売れてたんで塩ラーメンとか。あと横山ファックと  か。六本木まこと とか。一年間で30個ぐらい変わってて。最終的に猫が好きだったんで猫ひろしになったんですけど。それで大学卒業してすぐ舞台出させてもらって、その時の芸名がちょうど猫ひろしだったんで、それで出ちゃったんで。だからまだ断定的なものでないので変わるかもしれない(笑)本名が滝崎邦明なんで、全く関係ないんですよねー。(笑)
テ:小学生の時って人を笑わせたりするキャラクターだったんですか?
猫:落ち着きがなかったですね。先生によく怒られる、そういう子でしたんね。兄貴が僕の5コ上なんで僕が小学校一年生の時に五年生と六年生なんですよ。兄貴が移動教室の時に廊下を歩いてると、僕が必ず廊下で叩かれてるから「お前いつも家に帰って何やってんだ!」ってそういう落ち着きのない、うるさいというか。
テ:今、お笑いブームで、いろんな人がテレビに一斉に出てきて人気あるじゃないですか。みんな来年、再来年どういう風にやっていこうか、たぶん必死で考えてるという状況があると思うんですよ。猫さん的には今のブームはどう思ってますか?
猫:あと五百年ぐらい続くんじゃないですかね(笑)
テ:今、猫さんはイベントいっぱい出られててどう感じますか?
猫:でもお笑いのイベントは出てないんですよね(笑)音楽のイベントが多いです。だから所謂ブームの人がいるやつに出てないから、あんまり・・・。僕は来るものは拒まずなんで、何でも出ようと思うんですけど。ちゃんとしたのは出てないんで。
テ:ギャグ100連発のネタはどのようにして生まれたんですか?わりと長くやってますよね?
猫:そうですね。一番初めにネタやった時、漫談やったんですよ。二郎さんとかのライブに出させていただいた時に。そしたら二郎さんが「一体、誰がお前の話を聞くんだ?」って。「まずお前には魅力がないから話なんか聞かないよ」って正直な意見をもらって。「顔も面白いし、体も面白いから5分に1回ぐらいは笑わせな
いとダメだよ」ってギャグを作ってこいって。次の日に百個ぐらい作ってこいって言われて。で、ダーっと書いて、それを先輩  の前でやらなきゃいけないんですよ。ノート持って「ポーツマス、ポーツマス」とかやって。だいたい二郎さんが演出するんですけど、「じゃ、これで?ラッセラ〜ッ、ラッセラ〜ッて回ってみてっ」とか「その次はポーツマスってつけよ」って。最初はそれで出来たんです。まぁ、棚からぼた餅ですよね。
テ:二郎さんの演出ってツボついてますねぇー。お笑いの芸人さんで一番影響受けた人っていますか?幼い頃、テレビに出てた芸人さんとか。
猫:やっぱり田舎だったからテレビしかないから、やっぱりダウンタウンさんとか。年代的に中学の時にごっつええ感じとか始まってガキの使いとかあったりして。月曜日学校に行ったら「昨日ごっつ見た?」って。
テ:浜田さんと松本さんどっちが好きですか?
猫:二人ともですよ。
テ:僕らの世代だと、欽ちゃんがいて、ドリフとかひょうきん族があってとかなんですけどね。ダウンタウンはもっともっと後。
猫:小学校の時は、ひょうきん族とかなんですけど、変わる時があるんですよね。中学校の時にずっと元気が出るテレビ見てて、たけしさん好きだったからひょうきん族も見てて。皆がごっつええ感じ面白い面白いって言うから、「えー、元気が出るテレビの方が面白いよ」って思ってたらごっつええ感じの方が面白くて。それは今でも覚えてます。後期ですよ、たぶん。終わる前。
テ:海外の人で好きな人っています?
猫:マイケルジャクソン!
テ:どういう影響を受けましたか??
猫:やっぱり生き様が。すごく憧れるんですよ。家に帰ると遊園地があって、チンパンジーがいて、僕の好きなもの全部持ってるんで(笑)昔から声もいいし。ミュージシャンやってる人であんな高い声出せる人ってそんなにいないと思うし。やっぱり選ばれた人だなっていうか。かっこいいですよね。
テ:普段はどういう音楽聴かれたりするんですか?
猫:ZAZEN BOYS!この間、向井さんと会ったんですよ。新宿のロフトプラスワンで。ちょうどワハハの芝居やってたから。僕、プロデューサーの横山(ロフトプラスワン)さんにずっと向井さんのこと好きだ好きだって言ってて、普通にライブとか行くんで。で、横山さんがうちでライブやってるから何かセッティングしようか?って言われたんですけど、いや、でも会ったことないからなって思ってたんです。芝居の中日に荷物を全部トラックに入れて、シアターアップルでやってたんで、ロフトプラスワンの目の前だから、プラスワンの看板がまだ出てたから、もしかして向井さんいるのかなって思って。そしたらちょうどプラスワンの女性の方に会って、「向井さんまだいますよー。」って言われて、ちょっとだけ行ってみようかなって行ってみて覗いてみたらいたんですよ。で、「あ!猫ひろしや!」って向井さんに言われて。(笑)でも何にもできなかったですね(笑)向こうから「猫ひろし!猫ひろし!」って言ってくれて。ギャグ一個だけやらせてもらって。ネタやって、帰ってきて「アンコール!アンコール!」ってやったら喜んでくれたからヤッターって思って。でもまだライブ見に行っても楽屋には行けないですね。どこかで会えればいいんですけどね。そしたら話せるかなって。
テ:いい話ですねー。好きな映画ってあります?
猫:映画はやっぱり「グーニーズ」ですかね(笑)小学校の時はやっぱりグーニーズ。今は子猫物語(笑)
テ:猫はいま飼ってるんですか?
猫:今は飼ってないですね。子供の頃から犬ばっかり飼ってます(笑)犬4匹ぐらい飼ってたんで。僕は今まで三茶に住んでたんですけど、そこには猫がよく来てたんですけど、8月に引っ越しちゃったんですよ。今の家が取り壊しになっちゃったんで。そこには猫がいないですね。
テ:住む街はどうやって決めてますか?
猫:住む街はサイコロで。(笑)渋谷に事務所があるんで、自転車で通える所。
テ:高円寺の印象はどうですか?
猫:高円寺は先輩の家があるんで、それでよく行ったりするんですよ。あと「円盤」(高円寺の新名所となっているレコード屋&イベントスペース)っていう所に知り合いの人がいるんで、そこに出させていただいたりとかして。田口さんって店長の人がすごくよくしてくれてて、京都に行ったりとか。 「無力無善寺」(高円寺の終着駅と言っていいライブハウス)でライブやったりとか。水中(「水中、それは苦しい」という素敵なバンド)関係で。
テ:水中さんとはどうやって知り合ったんですか?
猫:僕は鳥肌さんと一緒のライブがあったんですよ。で、水中が鳥肌さんのファンで、普通にチケット買って来たらしいんですよ。それでその時にお客さんとして僕を見て、話かけられたんですよ。気持ち悪い男の人がいるなって思って。新宿を歩いてて「猫ひろしさんですよね?」って言われて、テレビとか出てないのに何で知ってるんだろう?って思って「この間の鳥肌さんとのライブ見ましたよ、面白かったですよ」とか言って、ダメ出しとかもされて、それで何だこいつ?!って思って。他のネタも見たっていうから、あのネタはリズムが悪いとか言われて、「あー、そうですか。。。」とか言いながら、こいつ殴ってやろうか!って思って(笑)で、また会いましょうとか言って。で、なべやかんさんの大晦日のライブで、ライブハウスの電話が鳴ったんで、僕が出ると「猫ひろしさんの出演時間はいつですか?」って聞くんですよ。あ、僕、猫ひろしですけどって嬉かったから言っちゃって。12時ぐらいに出ますよって言って、それがジョニー(大蔵大臣)君で。また会って。そしたらまた渋谷のライブハウスにも来てくれてて、CD持ってて、 「僕、ジョニー大蔵って言うんです」って言うんです。こいつ気持ち悪いよって、ますます気持ち悪い人だなって  思って(笑)「CD聴いてください」って言って、帯見たら、明和電機とみうらじゅんさんが書いてて、この人すごい人なのかな?って思ったけど、曲名見たら「もげもげ先輩」とか「ガッツいちもつ」とかダジャレじゃねぇかよって思って。でも聴いてみようって思って、最初CDだけだとよく分からなかったんですよ。シャウトするじゃないですか。その時、朝のバイトしてたんですよ。朝6時からなんで、朝5時半とか暗いからウォークマン聴いていってて、その水中くんのやつ聴いてみようって思って、聴いたら30分の道のりが気持ち悪くなるんですよ。「おじいちゃん!それおばあちゃんじゃないよ!」とか、朝からそんなの聴いてて嫌だなーって思って。でも連絡先交換してライブ見に行ったらすごいかっこよかったんですよ。その時は一人でやってたんですよ。僕ちょうど斎藤ねこさんと知り合いだったんで、ねこ繋がりでメール交換しましょうよって言って。ジョニー君がバイオリン探してるからっ  て言うから、斎藤ねこさん若い人とやるの好きだからって、ねこさんの知り合いの中で一番すごいバイオリニスト選んでいいよって。それでバンドを組んだんですよ。
テ:よくライブいっしょにやられますよね?
猫:先月は3回ぐらい。(笑い)
テ:ずばりライバルはいますか?
猫:パックンマックン!名前が素晴らしいなと。まだ会ったことないんですけど。ネタもあんまり見たことないんですけど(笑)名前の響きと外国人がいるっていう。なかなか手強いライバルだな、と。
テ:今はライブばっかり出演されてる状態ですか?
猫:あ、でもサウナ行ったりします。健康ランドへ。同じ事務所のメンバーが、みんな年配になるんですよ(笑)ワハハの中のワハハ商店っていう芸人部門で新しくできたんですけど、僕2年前からお世話になってるんですよ。同期が36歳とか37歳とか。ウクレレえいじさんが36歳で入って、ガッポリ建設が36と33
ぐらいで入ってて、僕の先輩のコラアゲンはいごうまんが33とかで入ったから、僕が一番若くて。後輩も47とかなんですよ。でも劇団で一番年上なんですよ。そういう人と仲良くて遊ぶから、普通、居酒屋行ったり合コンしたりするじゃないですか。行くところは、みんな疲れてるから自然とサウナに(笑)じゃ、ちょっと車でサウナ行くかって、そこで朝まで仮眠室で寝てじゃあね、って感じですかね。劇団員は飲んでるけど、芸人は全然飲まないんですよ。だからライブ終わったらジョナサンで打ち上げしようぜって。ドリンクバーでって(笑)
テ:今後の展開を教えてください。すごい戦略があるとか?!
猫:東京ドームに来る外タレの前座をやりたいです。デュランデュランとか。今年そういうのがあればいいなーって。(笑)あとは最近引っ越したんで、地域のゴミを拾ったりしながら地域の人から愛されようかなって。
テ:高円寺の音楽とか好きな若い人が表紙見て、「あ、猫ひろしだ」ってなると思うんですけど、その人達にメッセージを!!
猫:てじなーにゃー。あ、人のギャグですね(笑)じゃあ、お前も頑張れよ。これも人もギャグだ(笑)じゃあ、やずやーやずやー。9月17・18・19日に猫ひろし単独ライブ「キャッツ」っていうの銀座SOMIDOホールでやるんですよ。いつもみたいなネタ連続で2時間やります!!

【猫ひろしプロフィール】
昭和52年8月8日 千葉県出身 
150冖にのちっさな身体から放つ超ビッグな笑いの数々は必見!癖になる猫ちゃんワールドへ是非。
TOKYO FM 毎週木曜日深夜3:00〜5:00  「WANTED!」放送中。

単独ライブvol.5「キャッツ」迫る!!
9月17日(土)19時開演
18日(日)16時開演
19日(月・祝)16時開演
前売り2500円 当日2800円 銀座SOMIDOホール(03-3289-5310)
ぴあ、ローソンチケットなどで絶賛発売中!!
問い合わせ先:WAHAHA本舗(03-3406-4472)

9月23日(金)
伊達男ナイト@心斎橋に
猫ひろし初登場!!!!祝
http://shinjuku.cool.ne.jp/dateotoko-night/



| テリー植田 | フリーペーパー | 11:44 | comments(0) | trackbacks(9) |
2004.08.02 Monday
R25

駅で探せ!フリーパーパーR25。急げ!ジョギング


30代の男必読のインタビューだぜ!
何も言わん、読むベシ。
欽ちゃんに感謝多々。拍手

なんと、
「あっち向いてホイ!」を考えたのは、欽ちゃんだった!

R25ってなんじゃらホイ?!!?
http://www.r25.jp/top.shtml
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