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2007.01.02 Tuesday
寺田式 〜姉さんに訊け!!〜 SHOW-OFF 25号

寺田さんの大好きなブースカが店に!

高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載がスタートした
SHOW-YAの寺田恵子さんとの対談コーナー!!
ますます、まじめな恵子姉さんが好きになります。ときめきビール


*******************************

寺田式 〜姉さんに訊け!!〜

あのSHOW-YA寺田恵子さんといっしょに身近な社会問題を考えるコーナー(になるのかな?)寺田姉さんの意外な一面が。びっくり
(聞き手:テリー植田 協力:BARアジール)

緑文字が寺田恵子さん

・今日の読売新聞の朝刊の一面が、給食費の未払いが18億円って記事だったんです。自殺やいじめがたくさん起こってますけど、原因って、子供より親にあるんじゃないかってすごい思う。

払えるのに払わないんでしょ。親と社会が悪いね。
・いじめられる子、本人に原因がある場合も多いとは思うけど。

今ね、選択枝が少ないんだよ、たぶん。昔は勉強できないなりに選択枝ってあったじゃない。今は、ものの価値観がいい大学に入る、いい会社に入るそしたら安定して幸せっていうレールを引きすぎるんじゃないかなって。塾に行く時間よりほかの経験をする中から自分にあったものを探せばいいのに。レールの引き方が昔より狭い。そこから外れた子が学校でも、家でも行き場がないっていうとどうしたらいいか分からない。死ぬっていうのがどういうことか分からないまま死んじゃうんじゃないかな。

・僕が幼い頃は自殺が選択枝にはなかったですけどね。

ないない。政治もそうだけど、うそが多い偽りの世界。自分のしでかしたことの尻拭いをすることがへたくそ。人のせいにすぐする。善と悪の根本的な見方もできなくなってきてる。メディアに取り上げられるとそういう選択枝があることに子供が気がつくんだよ。

・選択枝ができた=自殺していいっていうことになるんですかね?恐怖感はないのかな。

うん。恐怖感はないと思う。大人のほうが死ぬっていうのが理解できてるから。人は殺すけど自分は心中しようと思っても死にきれなかったってこと多いでしょ。いじめを苦に自殺って報道されると、選択枝として絶対入ってくるんだよね。

・大人もそれを受けて自殺してるでしょ。


履修問題のでしょ、ありえないよね。


・ちょうど僕が小学校4年生の担任の先生が、教頭になってATMにおいてあった封筒の現金を盗んで逮捕されたんですよ。

きゃー、なさけない!!今もう世の中狂ってるんだってば。イギリスではいじめた子供の親から罰金とるの知ってる?

・ええ、すごいですね。学校が罰金徴収するんだ。

イギリスの罰金って高いんだって。悲しいかなそういうふうに法律決めないといじめはなくならないのかな。子供って残酷だからね。本人が思ってもないことで相手を深く傷つけることってあるじゃない。

どっちもあるのね。いじめる側もあるしいじめられる側にまわったこともある。小学校の三年生かな。一人の女の子を待ち伏せして傘で突いたりとか。そのときに、人をいじめることがすごいいやーな気分になった。人をいじめても楽しくない。家に帰ってどんよりして暗くなってそれからもういじめやめようと思って。クラス替えがあって、いじめられた子がひとりでいて、今度は、その子をなんとかしてやろうと思って話し相手になったら、いじめられたの。そのときは、女の子全員から嫌われたけど、今度はいじめられた女の子も仲間に入れて、私が仲間はずれにされちゃうんだよね。集団ではなくてターゲットはひとりなんだよね。救われたのは、担任の先生は休み時間に男の子と遊ばせてくれたの。だからひとりぼっちではなかったけど、女の子には口を聞いてもらえなかった。そのときに誰かしら手をさしのべてあげたり、抜け道を探してあげないといけないのかなって。
イギリスの映画だと思うんだけど、その映画は、生まれたことに意味なんてないんだって言ってた。だから楽しもうと。意味をみつけなくても生まれただけで十分に意味を成しているからってね。私は、おのれの人生を自分らしく生きていくか考える時代に突入したんじゃないのって思うね。


SHOW-YA LIVE2006 DVDリリース
2006年10月20日に行われたライブの模様を収録
2007年1月24日発売 3990円(税込み)
www.show-ya.jp
| テリー植田 | 高円寺 | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006.10.16 Monday
SHOW-YA 寺田恵子さんインタビュー記事


高円寺タウンマガジン用のSHOW-YA寺田恵子さんのインタビュー原稿です。
姉貴と呼ばせてください。ライブ拝みに伺います。
別れ際に、車の窓を開けて
「ライブ、来なよ!今度は飲みながらやろうよ!」って。
きゃー、かっちょええ!!


__

世界初の女の子だけのハードロックバンドとしてギネスブックに載るまで続けたい。


1985年にデビューし、女性ロックバンドとしてハードロックシーンの頂点に立ったSHOW-YA。デビュー直後の寮生活に始まり、脱退、ソロ活動、復活と80年代〜00年代を駆け抜けた寺田恵子さんの波乱の人生を17年ぶりという高円寺でシャウトして頂きました。変わらぬカッコ良さがまぶしすぎ!!
(取材&テキスト:テリー植田 撮影:大澤麻衣)

高円寺には今までバンドやっていた人、今バンドをやっている人、これからやろうと思っている人がいると思いますのでそんなロック野郎どもに向けたインタビューになればと思います。まずは、1985年、デビュー頃の生活はどんな風だったのですか?

デビュー前後の苦労話もたくさんあるんだけど、何から話そうかなぁ。いっぱいありすぎてぇ〜。

そうですよね、ヤマハのコンテストに出たれた頃の話からいきましょうか。

18歳くらいの時で、デビュー4年くらい前の話なんですよ。歌の世界に入るのを子供の頃から決めていたので賞を取れたらすぐデビュー出来ると思っていたらそうではなくて。結局、ライブハウスで活動していかなければならなくて。2社からソロデビューの話が来ていて断って。女性ロックバンドをデビューさせてくれる受け皿がないのかなって、なかばあきらめモードに入っていた時に、うちの事務所が君らのためにプロダクションを作ろうと。それでデビューすることが出来たんですけど、デビューにあたってお金がないじゃないですか?うちの事務所からお給料は頂くけど生活出来るほどではないでしょ。で、メンバーみんなで3年間の寮生活が始まる訳ですよ。

初めて知りました。SHOW−YAは寮生活から始まったんですね。マンション?それとも一軒家ですか?

一軒家。ほんとの寮。部屋が13部屋あって、リビングも広くて。1人2部屋づつでね。

じゃ、苦労話というよりリッチな生活じゃないですか?!(笑)

でもね、ひと部屋は荷物置きや、外に洗濯物干して出かけられないので、洗濯部屋になっていて、あとはドラムの練習部屋。布団買って防音して作ってね。ドラムの子はスティックを持って朝起きて来るの。スティックには「ドラム命」って書いてあるの。それくらい朝から晩までドラムのことを考えるのが好きな子で。

寮生活しながらバイトやっていたのですか?

しないしない。ずっと練習。その分、集中出来たのは良かった。ラッキーだし恵まれてて贅たくだね。デビュー前は学校行って、2時間バイトやって、練習やってみたいなかんじだったけど。

バイトは何されていたのですか?

ひとつはマクドナルド。時間を選べて1時間でも入れるの。もうひとつは喫茶店。ランチタイムにちょこっとね。

その頃はシングルを出したりライブやったりと順調では?

はたから見たら順調だったと思うけど、自分的には納得いかない時期が続いたかな。デビュー決まってからの4年はほんとうに悩んでいた。

音楽的な悩みですか?

ううん。デビューしたらもっとすぐ売れると思っていた。世の中そんなに甘くなくて。女の子バンドでハードロックやってることで世間の注目をあびるって自信満々だったので。24歳で初めてアメリカ行った時に、レコーディングのアシスタントさんに悩みを聞いて頂いて。髪型も変えた。ビジュアル、洋服も変えてみた。化粧方法も変えた。音楽でもいろんなチャレンジもしている。どうして売れないのか。どうしたらいいのだろうと。そしたら、「アメリカでは30歳でデビューするのが常で、30歳でデビュー出来たらラッキーだ。人間というのは30歳になってはじめて大人の道の一歩を踏み出す。それまでは子供だ。子供の時に何を経験して何を学んで自分にとって何が大切か見極める時間だ。君はまだ30歳まで6年ある。その間に何を学んで何を自分のものにするか考えたら30歳に己の道が開かれる。そうして初めて音楽ってものが出来るのだよ」って言われたの。

海外のライブで得たものってありましたか?

発見は、音楽に国境はないって言うじゃない?これは正しいと思った発見と言葉に国境はあるっていう発見。言語の問題はボーカルとしてスポークスマンとして一番悩んだことだったかな。

去年でSHOW-YAは20周年。80年代、90年代、00年代と振り返るとどんな思いがありますか?

80年代はとにかく一生懸命。がむしゃらに貪欲に音楽に傾ける情熱はピカイチだったと思う。私は92年に脱退して、音楽に興味が無くなってしまって。また出てくるのだけど、ほんとうに音楽やめようって思って実家に帰った。全く音楽に魅力を感じなくなってね。いたるところで音楽が流れているとうっとうしくてうっとうしくて。引きこもったりした時期があったの。ソロデビューのお話も頂いたけど断って。でも、いい年した女が結婚もせず、就職もせずぷらぷらする訳にもいかないので就職しようと思って、就職案内と履歴書を買って書いてね。私はケーキ工場で働きたくって。(大まじに)

えっ?SHOW-YAの寺田恵子がケーキ工場ですか!?(笑)

そうなの。履歴書に名前とか経歴を書いていくと大学卒業後のあとが書くことないの。大学卒業するかしないかでデビューが決まってね。で、SHOW-YAとしてプロ活動を始めるって書かないといけないでしょ。それ書くのがためらいがあって。面接の時に働いてないんですかって聞かれたらそうですって言わないといけないでしょ。ずっと悩んでいた時に、ソロでデビューすることになる事務所の社長さんから電話を頂いて。戻って来い、お前の力が必要だと。どうしても歌を歌いたくないのなら、女バンドのプロデューサーとして戻って来いと。今まで培って来たものをどこの馬の骨か分からないやつらに易々と渡すのはいやだと。(笑)だったら自分でイチからやるって。

自分でやるっていうケツのまくり方が寺田恵子らしいですね。

がむしゃらにやっていた80年代から、看板を背負ったまま活動しなければいけない90年代に入って葛藤があって。私はハードロックをソロではもうやりたくなくて。97年まではSHOW-YAが活動していたから同じ土俵に立ちたくなくて。そこからお金を貯める作業に入るんです。個人でやるにしても、メンバーにギャランティーを払わないといけないでしょ。1年間はメンバーを食わせていけるお金が貯まったので、そのお金を持って昔お世話になった事務所(現事務所)に。これから1人で頑張っていくので今度ともよろしくお願いします。一応、お金は貯めました。1年間はメンバーの生活の面倒を見て、その1年間にどうにもならなかったら諦めます。」と、そういう話をしたらうちに戻って来いよとなって。90年代はミュージシャンとしていい時代ではないの。バンドでいる時はメンバーのありがたさは分からなかったの。でもソロになると自分がボーカルである以上は楽器出来ないからライブが切れないんだよね。

ミュージシャンとしては死活問題ですね。

野たれ死のうって。タイムズスクエア挨拶に行って、「実は前の事務所を辞めました。」と。「一時、ご迷惑をかけてすいませんでしたーでギターを持って風呂も入らず、その日暮らしの生活をしようとギターを始めたのね。(笑)日本の音楽シーンにいやけがさして。ミュージシャンの商品化みたいなのが嫌だったの。ちょうどすごく高いキーの女の子が流行った頃で、君の声は時代の声じゃないからダメだって言われて。音楽性を否定されるならともかく声を否定されたら行き場がないじゃない。ギター弾けるようになったら黒人のサックスプレーヤーと雪降る90年代終わりは自分で楽器を始めて新たな音楽活動をしようと思った頃。この業界に別れを告げてニューヨークで中凍えて死んで、何年か後に「日本人元ミュージシャン、ニューヨークで凍死。」ってニュースになるみたいな。(爆笑)

ジム・モリソンの最後みたいな伝説に。(笑)

ヘビーメタルのイベントでアコースティックギターを持って弾いたら周りが認めてくれてね。お客さんも喜んでくれてそこからまた違う音楽人生が始まったの。自分の声とサポートしてくれる楽器だけで出来るならこれ以上強いものはないって。で、この状態だったらSHOW-YAをひっぱって行けると。でも断られて5年かけて1人1人説得しました。(2005年、オリジナルメンバーで大復活祭ライブ開催)

これからめざすことってありますか?

「世界で初の女の子だけのハードロックバンドとしてギネスブックに載るまで続けたいと思っているの。男だとストーンズもエアロスミスもいるけど、女の子だけでしかもハードロックというのはいないしね。ちょっと夢でかいみたいな。」

【高円寺のバンドマンたちにメッセージfrom 寺田恵子】
「この一球は絶対無二の一球なり。されば真摯をあげて打ち出すべし」
漫画「エースを狙え」の言葉ですが、私はボーカルなので
「この一声は絶対無二の一声なり。されば真摯をあげて一声うつべし」
音楽やっている人は自分の楽器パートに置き換えて。二度と来ない人生なので今というときを頑張ってください。


【SHOW-YA LIVE 2006】
新神戸オリエンタル劇場 10/14(土)
渋谷公会堂 10/20(金)
お問い合わせ:SOGO Tokyo 03-3405-9999 SOGO Osaka 06-6344-3326
各プレイガイドにて発売中
http://www.show-ya.jp/

【鉄は熱いうちに打て!ROCK CONCERTの初体験!!!ROCKの英才教育!!!】
『日本全国ハードロック化計画』を推進するROCK道の女達『SHOW-YA』が、子供達にロックとは何か?コンサートはどのようにして行われていくのか?を優しく教授する、社会科見学ツアーを開催します。『SHOW-YA』の実際のLIVE、10/20
渋谷公会堂で行われるLIVEの楽屋裏に小学生以下のお子さんを対象に無料ご招待。同時に、ミニライブを行いROCKバンドの生音を体感してもらいます。申し込みはインターネットHPにて(近日詳細アップ)


| テリー植田 | 高円寺 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(2) |
2006.10.16 Monday
坂本美雨さんインタビュー記事


高円寺タウンマガジン用にインタビューした原稿です。
美雨さんは、教授に顔のパーツが、矢野さんに顔のかたちがクリソツでドキドキしました。サラブレッドの香りが漂う高円寺でした。
美雨さんには、猫ひろしさんを紹介する約束をして別れました。


___

坂本美雨、あの思い出の高円寺再び。

高円寺で昔から伝えられるロック伝説がある。あの坂本龍一と矢野顕子が住んでいたらしい。そして、矢野顕子が駅前のやきとり屋「大将」の常連だったらしいと。 1980年、坂本家に生まれた娘は 9歳まで高円寺に暮らし、その後家族で NY へ移住。1997 年、Ryuichi Sakamoto featuring sister M 名義でデビュー。 99 年に本名、坂本美雨として本格的に音楽活動を始めた。そして、NY と東京を行き来し猫と共に暮らしながら 1 枚の珠玉のアルバム「Harmonious 」を完成させた。母校である杉並第八小学校を訪問し撮影と取材を行った。(取材&テキスト:テリー植田  カメラマン:大澤麻衣)


高円寺は何年ぶりですか?

「一年ぶりくらい です。」

9歳まで高円寺に住んでいらっしゃったそうですが、当時の記憶はありますか?

「もうその家ないんですけど、特殊な家で、コの字になっていて真ん中に中庭があって。
父の部屋が孤立していて、廊下がなぜかすごく長くて。父の部屋にいると誰も侵入してこなくてすごく静かなかんじがして。ほとんどいなかったですね、父は。レコードの山とか本がたくさんありました。」


それを読んだり聴いたりしていたのですか?

「はい、内緒で。本当は入ったりしたらいけなかったと思うんですけど、たぶん。その静かな感じがすごく染み付いていて。特に昼間とか微妙な光が中庭から入ってきて・・・。」

そんな場所でアルバムでも歌っている大貫妙子さんの『彼と彼女のソネット』とか聴かれていたのですね。

「そうですね、その感じはよく覚えてますね。(「カフェラテ温かいの下さい。」と、オーダー)曲の記憶と直結していますね。」


音楽をやりたいと好奇心が向かっていったのは何歳のころですか?

「プロとしてだとsister M からです 。それまでもずっと歌っていましたし、詩を書いたりとか、合唱団に入ったりしていましたけど、ただ歌手になるというのが恥ずかしくて。芸能界だとかそういうものに興味がなかったので自分が表に立ってやると思ってませんでした。」

お父さま、お母さまの音楽活動はどのように思っていましたか?

「圧倒的に彼らは別世界の人たちというか、すごいと思ってました 。宇宙人みたいなもので。尊敬していましたね。自分はそこに並ぶ訳もないし、楽しいだけの業界でもないし、特に父親と母親がやってきた時代とは今は違うし。歌手デビューしようとかそういう感じにはなれなかったんです。 sister M があるまでは。」


高円寺って猫が多い街ですが、その当時から猫を飼っていましたか?

「野良が庭に迷い込んでくるんですよね。近所に二十何匹か飼ってる猫屋敷が二軒あって。リーダー格の猫がいて、猫の三大病全部持ってるみたいな汚いボス猫。その子を家族ですごく可愛がってた。7歳の時、そこの中央公園でタビちゃん(ニクキュウブロローグのトップページの猫)を拾って、その子は今も NYにいるんですけど。もう 20 年くらい一緒。」

高円寺時代の古い友達とつきあいはありますか?

「少ないですね。学校の友達は一切ないです。小学3 年生で NY へ行って、みんなに手紙を書いたんですよ。向こうに行ってからこんな生活だよって。向こうに行ったらいろんなことがショックで。特に物の大きさがすごくショックだった。ミルクから道から人まで、家もそうだし。そういうことを事細かに書いたんですね。そしたらたぶん、自慢しているように受け取られちゃったのかなぁ、その後なんとなく縁が切れてしまったんです。。。」

アクセサリーも作られてるんですね。誰の影響ですか?

「ちっちゃい頃からビーズで遊ぶのがすごく好きだったんです。育ての親ともいえる、 2 人お手伝いさんがいて。そのうちの 1 人がすごくクリエイティブな人でいろんなことを教えてくれた。その2 人は、親から教わらなかったことをいっぱい教えてくれて。人格形成にすごく影響があった人たち。手紙の書き方からスカーフの合わせ方からリボンの結び方から何から何まで教えてくれて。若い方のお手伝いさんは、絵を描いたり、ビーズで何か作ったり、料理したりとかそういうクリエイティブなことを教えてくれたんです。それで人に作ったり母に作ったりしているうちにビーズにはまっていった。」

今回リリースされたアルバムに収録される曲について教えてください。まずは「 THE NEVER ENDING STORY 」(HONDA 企業 CM 曲)ですが、どんな思い出がある曲ですか?

「1984 年の映画で、家族で映画館に行ったのはたぶん初めてだったと思う。強烈な印象が残って。楽しいだけの映画ではないですよね、哀しみがすごくある。今では哲学的なところは理解出来ますけど子供にとっては複雑な映画だったから何度も自分の中で噛みしめていて。それで主題歌が忘れられなくて、それ以降ずっと歌っていた曲なんです。」

※1983 年、 YMO解散。 1984 年、「戦場のメリークリスマス」で坂本龍一がアカデミー賞受賞。矢野顕子の「ラーメン食べたい」が教科書に掲載。

偉大な音楽家の親に対する距離感は感じますか?

「自分の親は親なんですけど、でも例えばコンサートに行って観たら全く別の存在だし、周りにファンがたくさんいて、私よりも親のことをずっと長く好きだった人がいて自分はファン以下、っていう遠い存在な感じがありました。」

カメラマン :私の旦那さんはドラマーなんですけど、 家庭の中では子供に音楽を伝えていくという行為にすごく冷静な気がするんですよ。子供に対して、好きなものは、自分で選んでいけ、って思っている感じの距離感。美雨さんは親とそういう距離感はありましたか?

「うん、まさしく。全然なにも教えてくれなかった。置いてあるものを私が勝手に選んでっていう感じ。家に帰ったらクラフトワークが鳴っていたり、 YMOも好きでしたし。初めて観た舞台は舞踏で、 山海塾を何度か観て。幼い頃は舞台って言ったら白塗りの男の人がこんなんなって踊っていると思っていた。で、がんがんテクノ聴きながら父の大きな真っ白なシャツをかぶって踊ったりして。そういう風に与えられたもので自分の好きな要素を勝手にくっつけていって。これ聴きなさいとかこれ絶対良いからとか親から言われることはその頃は一切無かったです。」

すごいですねぇ〜。そういう環境にいるっていうこと自体が普通じゃなくて、すでにとんでもなく良い教育になっていますねぇ。

「特に影響を受けた環境としては彼らの音楽に向かう時のものすごい空気感ですよね、その場のテンション。すごく子供でも敏感に感じ取っていて、とりまく人間も多かったし。その周りの人間が父や母が言ったことに対してこういう反応をしているって事とか、マネージャーはこういう気の使い方をしているとか。こういう時は絶対に声をかけたらいけないとか。そういう場面場面の空気の中にあるものを感じ取っていて、それがどれほど大切なことであるか、どれだけ価値があるものであるかということを学べたと思う。だから彼ら自身にはこれを教えてあげようだなんて気持ちは微塵もなかったはず。ここから先は大人の時間だからあっちにいきなさいとかよく言われていたし。(笑)」

これから母校の杉並第八小学校へ行って撮影しますが、どんな小学生でしたか?

「3年生までしか通ってないんですけど、その頃は背が高くて足が速くて環境も環境だったしどちらかというと目立つ存在だったと思います。暴れん坊というか、男の子いじめたりしていました。首絞めたりとか。(笑)天敵がいて。めちゃくちゃ仲悪くて。誰も寄って来れないの、私たちがケンカしている時は。 2人とも口がものすごく達者で、お互いプライドが高くて。天敵はおしゃれにサンフランシスコ生まれだったりとかお寺の娘さんでお金持ちで(笑)ある時、授業が始まる前に壮絶なケンカを教室の後ろでやってたんですよ。そうしたらみんな着席していていつのまにか先生も一緒にこっちを眺めてた。「は〜い、気にしないでいいわよ〜っ。終わるまで待ってるから続けて〜。」って言われたの。「いや、いいです。」って。すごい変な、いい先生でしたね。

家庭も小学校も普通じゃない環境ですね。最高の教育受けたんじゃないですか!(笑)じゃ、そろそろその懐かしの母校に行きましょうか!!


【プロフィール】
坂本美雨(さかもと・みう)
音楽活動に加え、連載、映画評などの執筆、J-WAVE のナビゲーター、テレビ、CM 等のナレーション、ジュエリーブランド「 aquadrops」のプロデュースなど創作の幅を広げる。
J-WAVEでロバート・ハリス氏と「 MIDNIGHT  GARDEN 」を担当。(毎週月〜木 24:00 〜24:30 )

公式ホームページ(stellarscape )
http://www.miuskmt.com/
オフィシャルサイト(ニクキュウ ブロローグ)
http://blog.excite.co.miuskmt/ jp/

【アルバム情報】
HONDA企業 CM 曲「THE   NEVER  ENDING  STORY 」、「彼と彼女のソネット」、柴草玲さんの「オキナワソバヤのネエさんへ」、デュークエイセスと共演した「遠くへ行きたい」を含む全 10 曲。
タイトル「Harmonious 」 YCCW-10024/¥2940 (tax in )now on sale
| テリー植田 | 高円寺 | 10:54 | comments(0) | trackbacks(2) |
2006.09.07 Thursday
安斎肇さんインタビュー@高円寺


「『日本の音楽のルーツは中央線の奥にある。』って言うのは、はっきりしている。そういう系譜がある沿線ってないんだ。」(安斎肇)


ソラミミストでイラストレーターとして知られる安斎肇さん。雑誌「レコードコレクターズ」の装丁、JALのリゾッチャのキャラクター、NHK「just pop up」のロゴとキャラクター、象印マホービンの企業キャラクター、田中康夫氏の個人のキャラクター「やっしー」などのひたすらポップなイラストとデザインで世の中を楽しくする。湯村輝彦氏を敬愛し、ライ・クーダーとプリンスとサッカーをこよなく愛する安斎さんのとっても気になる青春時代を聞きました。案の定、この日も1時間の遅刻でしたが。
え、安斎さんって52歳なのっ?!

(取材と文:テリー植田 撮影:大澤麻衣)

・どんな20代を過ごしたのですか?

最初は、桑沢デザインに行って。大学受験でくじけて、一浪して桑沢に入ったんですよ。多摩美、武蔵美、日芸に行きたかったんですよ。3つとも落ちて。当時から実践的なデザイン学校として認められていたけど、ただうちの親父が決めただけなんですよ。うちの親父が美術手帳を見ていて広告があって、校長の桑沢さんが非常にいい人だって言い出して。自主的でなかったうえに、一浪の人ってなんとなく志半ばみたいなとこってあるでしょ。あきらめきれないところがあって、就職する気もなくて。それで3年間の研究科に行こうとしてそこも落ちて。そのまま就職しなかったんですよ、俺。当時つきあっていた女の子が研究科に進んでいたので、その子がパッケージの授業とか受けていたのでそこに顔だしたりぷらぷらしていたの。働かなくてすめばいいのに、誰も気づかなかったらいいのにって思っていたんだ。当時ワークショップ"MU!"(はっぴいえんどのレコードジャケット制作で有名)とか100%ピュアスタジオがあって、仲間が集まってデザインチーム作ってレコードジャケットやったりする傾向の時代だったの。そんなのマネしたのやろうって言われて、グラフィックーツアースーパーマケット、当時原宿にドゥーファミリーっていうブランドのデザインやってるお兄さんとお父さんが資本を出すとか言って株式会社から始まって。


はっぴいえんどのレコードジャケット

・ぷらぷらからいきなり凄いじゃないですか!

※桑沢デザイン研究所はこんなところhttp://www.kds.ac.jp/

でも、もう失敗でしょ?失敗の臭いがぷんぷんじゃないですか。(笑)半年ももたずに解散。またぷらぷらして、さすがに彼女が、働いたほうがいいんじゃないって言ってね。そこから麹谷・入江デザイン事務所に入って。農協牛乳とかのパッケージとかねやったの。いわゆる弟子に入ったようなものだから。三角定規洗ったり、ロットリング洗ったり。師匠が作業している横に立って、「ロットリング!」って言ったらさっと渡して。そんなの今も大好き。その後は、象印のロゴやったりね。横尾忠則さんとか和田誠さんとかイラストレーターの人って必ずグラフィックデザイナーとしても表記されるから、イラストレーターやってる=グラフィックデザイナーやってるっていう意識だったんですよ。でも実質的に言えばイラストは描いてなかったから、読者だよりの挿絵とか描かせてもらったり。得意でもない点描でえんぴつとかね。ほんとに楽しかった。

・その時はまったく今の「安斎肇タッチ」は出来てないんですね。

そう、全然。うちは親父が肖像画家だったんで、いわゆるリアルに関しては一目あった。

・じゃそのDNAは受け継がれているんですかね?

まったくリアルなものは好きじゃないし、それよりも頭の中にある奇妙な生き物を描いてたほうが気持ちよかったから。だからそれを描きたいために親父にリアルなものも描けるんだぞっていう基本を見せないといけなかった。見たものを描けないと想像したものなんか描けないんで。一生懸命リアルやってたんですよ。クロッキーとか凄い好きですよ。ぼーっとしてる時とは描いてますよ。

・初めての職場はどれくらい続きましたか?

僕はほとんど3年ですね。3年やって失恋して、恋も3年で終わって。最後の1年は抜け殻のように働いていたんだけど、友だちにめちゃめちゃナチュラリストがいたんですよ。そいつとカナダに行ってだんだん気持ちが変わってきて。このままでは地球は壊れてしまうぞ、なんて。自分たちがちゃんと生きるためには自分たちでちゃんとしないといけないって。その友だちには、雪山に自分で家を建てて、自給自足で生活している人がいるんですよ。雪の間はロッジとして、夏は畑耕して生活している。あっちこっち旅行をして家族で住んでいる。いやーもう理想的じゃないですか。これだって!思って仕事を辞めたいって話をして、俺もこれからも自然の中に生きようって思って行ったらめちゃくちゃ暖冬で。

・すごいオチだなぁー。


雪の降らない雪山のイメージ図

一番人でのほしい冬が暖冬でロッジのお客さんが1組くらいしか来なかった。あまりに来ないんで、ロッジ建てたおやじは出稼ぎに行ったんです。奥さんと子供とアルバイトの俺を置いて。急に何の音もしない山の中に残されて。雪って音を消すから、何にも音がしなくってにぎやかなはずの雪世界が、雪もフケくらいしか降らなくって。それを見てたら悲しくなっちゃって。2日くらい夕暮れになると雪見ながら泣いてましたよ。グラフィックーツアースーパーマケットやってたやつが、ちょっと人手が足りない。レコードジャケットがやりたいって言ってたよなと。言お前はだいたいったっけなーって。お前がいないと始まらないから、社長に全部話ししてあるから来いって言われて。毎日泣いててもしょうがないって思ってね。だってその年のまきは全部割っちゃったんだもの。(笑)そのまんまレコード会社やるのもいいなって山を降りて来たんですけど。実質、デザイナー2人だったんで。渡辺プロダクション系のSMSレコードデザイン室っていうところだった。桑江知子の「私のハートはストップモーション」(カネボウCMソング)で当たったものだから勢いついて小柳ルミ子とか出したり。僕はその中でとにかくロックをやりたい。レコードジャケットをやりたかったんだけど何でも良いわけじゃなかったんですよ。変なプライドがあって。ロックがやりたいって思ったけど話が違うと思ったけど、営業がやってるチラシとか看板とかついたてとかチケットとかの小さい仕事ばっかり一生懸命やったの。そしたらちっちゃい仕事も一生懸命やると目立つんだよね。今までは営業の人が手書きのコピーでやってたようなチラシをちゃんとデザインしてやると凄い喜ばれる。チケットもイラスト入りにしてあげるし、もういいよっていうくらいToo Muchなものをやってあげた


桑江知子の「私のハートはストップモーション」
※渡辺プロダクションってこんなとこ
http://www.watanabe-group.com/

・その時にはもう安斎タッチが出てきてますか?

いや、まだまだ。西海岸最高みたいなの。やしの木が飛んでるような。80年になるぎりぎりあたり。1983年にフリーになってるんですよ、たぶん。


「西海岸最高みたいなの」イメージ図


「パープルレイン」の大ブレイク前あたりですね。


そう、プリンスで言うとね。もともとメインのことをやるのが好きじゃなくて。なんか恥ずかしいんですよ。いろいろやりたいことはあるんだけど。「俺に、ジャケットデザインやらせてくれよ」って言うのがすごい恥ずかしいから。いつも友だちにやらせて、後ろでこっち方がかっこいいよって、全部後ろで糸をひいてるみたいなのが好きなんですよ。SMSの時もすごい会社を救ったんですよ。志村けんと加藤茶のイラストを描いて来いって社長に言われて。俺ははなから描いて来いって言われたら描かないから、友だちにメインに描かせて、俺は2人をペンギン化して描く。そしたら落ちるじゃないですか。友だちは正直に似顔絵を描いてきてそれがジャケットになって、俺は後ろジャケットにヒゲのおまけつきっていうのをやった。ジャケットを切ってまるめるとヒゲダンスのヒゲになって、あと蝶ネクタイになるのを裏につけたんですよ。ダ、ダ、ダ、ダ、ダンダンって歌詞ないから歌詞カードもつけれないじゃん。はじめて褒められた。「そんなおまけは子供は絶対喜ぶしね、子供が作ってみんなが遊んだらいい。しかも、ひとつっていうのがいい。子供は兄弟がいたら2枚買う。1枚しか売れないところ2枚買ってくれる。」ってね。ヒゲも1枚でペロっていうのは誰でも考えるから、2枚にして盛り上げて本物のひげみたいにしたんですよ。


「ひげダンス」ジャケ写 右端にはおまけつきの文字が。


プリンスの「パープルレイン」は1984年

・すごいアイデアですね。意図的にやったんですか?

ううん、全然。(笑)だって、1枚に描ききれなかったんだもん。(笑)

・僕それ、持ってますよ。小学生2年当時は買えなかったけど。セロテープにマッキー極太で黒く塗ってヒゲにして口元に貼ってました。今、僕は東村山市民ですし。

ちきしょう!商売がたきだなぁ!(笑)

その頃、野球を一生懸命やってました。渡辺プロダクションの野球大会。渡辺プロダクションの中でも赤字で弱小な会社だったんで、野球でめだってやろうと思って。一番で、左うちになり、その頃は足が速かったので。野球大会の盗塁王と三振王を両方持ってますよ、二年連続で。今もバッティングセンターたまーに行くけど。

・サッカファンの前に、野球されてたんですね。ぼくは、幼い頃は、近鉄バファローズファンで。
中西だ!

・そう、太(ふとし)っすね。バファローズキャップのデザインをした岡本太郎ファンで、あのキャップをかぶりたいために野球始めたんですよ。

へぇー!ほんと、そうなんだ。あれは、それこそ言ってみればアメリカンフットボールみたいなデザインで凄いかっこ良さがあった。すっかり顔が赤くなってきましたけど写真大丈夫ですかね?(と、カメラマンに気を使って)

・いよいよ83年、フリーへの道ですね。

長いね、今日は。辞める勇気はそんないらなかったんですけど。どっちかって言ったらその後の方が勇気いりましたね、一人でやっていくっていうのは。その頃は30歳前、29かなぁ。みんな会社変わった時には良いポジションに入っているから。

・いろいろ考える時期ですよね。サッカーで言うと中田hideと同じですよ。決断の時ですね。

あ、そうか。ひとつだけ、主張しないといけないということに対して今まで以上に勇気がいったけど。それ以外のものはめちゃくちゃ楽しかったですからね。あらゆる意味で楽だったし。湯村輝彦さんが大好きで何かある度によく行ってたんですよ。湯村さんに、このままレコード会社で仕事していた方がいいでしょうか?って聞いたらね。「安斎くんはねぇ、辞めてねフリーでやっていったほうがいいよね。」って言われたんですよ。へえー、湯村さんこんなこと言ってくれるんだって嬉しくて。じゃ、ぼく辞めますって。友だちのカメラマンの飯島薫はすごく心配してくれて。飯島はうちのアシスタント、電話番に来ない?って誘われたんですよ。で、電話番をして、安斎くんは部屋代いらないからって。西麻布のおしゃれなところで。交差点近くのレッドシューズとか入ってるビルで。狭くてそれこそ10畳もないとこで。撮影スペースがいるからって言われて、これだけスペースいるからって。機材をここに置くからって。安斎くんは、自分の作業テーブルをデザインしなよって言われて。デザインしたのはこれくらい(80センチくらい)の幅だったんですよ。電話を置いて、作業できるっていうのを最大でとってやったらこれくらいの幅で。めちゃめちゃ不便で。バーのカウンターくらいしかないんだよ。当時は版下だから、版下が曲がって壁にずるずるずる〜ってなって窓の外に出たりしてたの。そんなんで仕事してたけど楽しかったなぁ。なんかすんごいめちゃめちゃフリーでやっていくことに燃えだしてきて。ひとつひとつ一生懸命やりたくなったんですよ。留守番電話はあるじゃないですか。あれを、ちょっと声色使ってやったり、人のモノマネでやったりしたんですよ。そのうち沼田元気って人がいろいろアシスタントを連れてきたの。で、アシスタントとかけあいで留守番電話を入れたり。だんだんアバンギャルドになっていって、もしもしもしもしって不機嫌な出方をして急に平謝りになったりとか。そういうコント系のことやったりとか、落語やったりとか。出囃子をどうするとか音楽をどうするとか、歌うたいながらやるとか。毎日そういうのを帰る間際に1時間くらいかけてやってたんですよ。ある時、飯島が「安斎くん、留守番電話がすごく不評で、俺の仕事が減ってるんだけど。」って言われて。その時やったことで。飯島くんが趣味で買った16ミリカメラがあって。壊れていて撮ったつもりが全部黒味になっちゃってて。だめだなぁ、って。でもこれひっかいたら絵が描けるよって言われて。針で引っかいたら白く絵が抜けるんですよ。そんなのやったりしたのが、立花ハジメっていう人が気に入ってくれて。プロモーションビデオに使ってくれたり。NHKのタイトルに使ってくれたり。へんなアバンギャルドなことがしたくて、ダンボール切ったりして。それをかぶったりして音楽にあわせて踊ったりして、それを見た人にパフォーマンスで呼ばれたりしたりね、インチキなことしてて楽しかったですね。

・それは、メインから外れていくっていう安斎さんの法則なんですかね。

いまだに本職じゃない人がやってることが好きなんですよね、なんか。そういうのって別に遊びでとか、クオリティーではない。

・そういう遊びがコネクションを広げていったんでしょ?

当時はそこでどんどん友だちが出来ていってその友だちが仕事をくれて。宝島の関川くんだったり、渡辺祐(たすく)だったり。全然たいしたデザインしていたわけではないけど面白がってもらえてた。立花さんにYMOのツアーパンフのデザインいっしょにやらないって言われたり。

・凄いなぁ。その当時はそういうつながりがすぐにカルチャーになっていった時代ですよね。

責任持ってた、それぞれ。ちょっとしょってんじゃないのっていうくらい。自信過剰なまでの自信。今だったら鼻持ちならないようなやつらがっかりですよ。面白かったよ。漫画トラっていうのをやるようになって。漫画に音が入ってるの。湯村さんところに行ったら、「安斎くんね、俺フリーになれなんて言ってないよぉ〜。」って言われて。「安斎くんはレコード会社にいるから安斎くんなんだよ。レコード会社にいて俺に仕事をくれるから安斎くんなんだよ。なんでフリーになっちゃったの?!」って。だって、フリーになったほうがいいって言ったじゃないですかって。「いや、フリーっていうのは、そういうフリーじゃなくて、レコード会社の仕事もするフリー。」で湯村さん何をしますって言ったら、杉浦茂(宇宙や戦艦漫画で有名な大御所)さんの漫画が大好きだから杉浦さんに会ってみたいって、湯村さんが言ったんですよ。その杉浦茂さんの漫画を載せて、湯村さんが杉浦さんに会いに行くのをドキュメンタリーでやっていい?ってことになって。湯村さんとタラさんを連れて、音をとりながらやりましたね。それは今じゃ杉浦さんもいないし感謝されてますね。


湯村輝彦さんってこんなジャケされてます。


こんなのも

(ここで取材をいったん切り上げて、純情商店街へ撮影へ。撮影終了後、焼き鳥屋からデザイナー杉山さんの事務所へ移動して後半戦再開。コンビニで安斎さんが好きなキリンクラシックラガーを買ってきました。)

・では、続きをお願いします。29歳くらいまで行きました。

まだ29歳かよ!

・どんな30歳代でしたか?ぼくは今34歳ですけど。

あんまり年で考えたことないんですけど。

・それが、安斎さんが若い秘訣なんじゃないですか?

すっごいおじいさんみたいじゃないですか、俺。

・ハハハッ。今、52歳でしょ?40すぎくらいかと思ってましたよ。

待ってくださいよ。同じだって!だって、40も50も同じだと思いません??!!
それこそ一番いろんな先のことを考えた中学のころ、15、6歳。40、50歳はあたりまえにじじいですよ。30だってそうだよ。

・僕が34歳で安斎さんが53歳。20歳くらい違うじゃないですか。後20年先のこと考えられないですもん。

いや、逆にうらやましいですよ、めちゃくちゃ。僕これから20年だと70やんか!ねぇ、やんかって。やんかがでることもないですけど、自分のこと思ったら、これから何ができるかって思ったらね、それほど欲張ったことは出来ないでしょうね。でも、30から20年なんて、僕のほとんどの、例えば。自分で客観的にその、評価というか、客観的に自分を紹介する時に一番メインにみせたいと思っているのは30歳代の仕事ですよ。30から40歳にかけての仕事。リゾッチャもそうだし、デザイン的なものもそうだし。レコードコレクターズっていうのは、僕にしてみたら元のミュージックマガジンっていうのがあって。その中村とうようさんがやってたミュージックマガジンっていうのは、ミュージックマガジンのデザインっていうコーナーがあって、そのコーナーで2回だけ出たことがあったんですよ。僕の目標はそのデザインのコーナーに自分のやったジャケットが取り上げられるってことだったんですよ。それをある程度ね、2回だけでもとりあげられて、すごい嬉しくて。そのミュージックマガジンから派生したマニアなレコードコレクターズに関してはすごく尊敬というか自分の中では音楽に関わる中では一番の高みだと思っていた。で、その雑誌の表紙をやることになったので、自分で100冊やろうと。1冊でもいいから結果を出そうと思ってやったんですよ。そんなこと決めなくていいのに。あの時期は僕の中で円熟期であったような気がしていて。一発しかなかった頃の、一発に勝負をかけてた頃の30歳代のデザイン、イラストはヘタだけどなんか怖いものがありますよ。


レコードコレクターズってこれ。

・その頃はたくさんほかの仕事もされていたんでしょ?

いや、そんなに。僕は仕事も遅いし、人つきあいもうまく出来ないので。そんなに思うほど忙しくはなかったと思うんですけどね。


当時は誰もが知っていたリゾッチャのキャラクター

NHKのjust pop upのロゴもそうですよね。観ていましたけど、インパクトありましたよ。フリッパーズギターとか岡村靖幸とかとがったアーティストもたくさん出てましたよね。

あれは、アートディレクションから全部やっていましたからね。だってひどかったんだから。当時、僕の中では育ってくるかんじが自分で分かっていた。すごく見栄を張って、このままでは日本のデザイン界がだめになるぞっていうきばったかんじの、余分な力が入りまくった時期と、まったくもうデザインというのは「美しさ」ではなくて「意味」だって思いだして来た時期があって。「意味」を考えだした時期と今のようにデザインは楽しくなければデザインじゃないと思ってる時期があって。タイミングによっていろいろ来るんです。その中で一番しょってた時期がjust pop upですね。「NHKの番組全部つまんないですよ。」ってNHKの前で言ったの。なにも美しいものはないし、NHKにロックを紹介することは無理だって。だから海外からもらった番組をどんどん流したほうがいいですよって。そういうのも出来なくて日本の歌謡曲流しても意味ないでしょって。結局事務所が勝ってるだけの話で。事務所が同じでタレントが変わってるだけだから。意味ないからやめたほうがいいですよって言って、もうその日でNHKとは関わらないどおこうと思ったら、めちゃめちゃ気に入られちゃって。

・NHKになかなかそういう風に言う人もいないんじゃないですか。

そんな失礼な人いないでしょ?(笑)で、だったらやってくださいよって。just pop upのシステムを変えてね。楽屋から、NHK着いた時の札があるじゃないですか。ああいうのも出しなさいと。楽屋のケータリングから、音が出せるようにしたり。撮影と撮影の空き時間のケアとかも全部しなさいって。理想的な形にもっていけるように。ジングルを作って。どんどん自分の首を絞めていったんですけどね。

・すごい!デザイナーを超えたプロデューサーですよね。

当時ね、いくつかのロックアーティストをかかえている事務所のやつらと凄く一生懸命HNKを変えようってやったけど、でもね、凄い残念なことにロック自体が力が落ちていてね。唯一できなかったのは、テレビのそのもののシステムの中で、台本っていうのをもっと自由に、フリートークみたいにしてインタビューみたいに作りこみするのは出来なかった。すごく普通のものになった。フリッパーズギターとか当時はすごい難しいアーティストの方々に出てもらうこともできたし、それこそ名前はないけど才能をもった人たちの音楽を流すことがもっとできたらよかったのに。もっとたくさんできることはあったのに。
でもそれは、何よりも本当の意味でテレビのことを知らなかったからかなって、今思えばね。本当に知っていたらそんなやつらも巻き込んでねやれたら面白しろかったのにね。

※YouTubeで観てみよう!ハガキのあて先や背景イラストも安斎さんによる。http://www.youtube.com/watch?v=7whS3huMMlU&mode=related&search=

タモリ倶楽部に対してはそういう発言はしないんですか?

うん、まったく。(笑)ある訳ないじゃないですか。30歳の後半になって、タモリ倶楽部は40歳になってたかもしれないな。

・タレント的なポジションでテレビに出られるようになったのはタモリ倶楽部からですか?

う〜ん、えっとね。その前に、えっとね。何だっけなぁ。ヒットスタジオじゃないや何とかヒットっていう深夜番組がTBSであって。あんまり具体的に言うとあれだけど、全然面白くなくって。ナース井出さんとかいろいろがんばってたんだけど。番組が終わる頃になって、お前らのせいだみたいな言い方されてさ。最高にテレビっていやな世界だなって思ってたんですよ。NHKやった時はすごく希望に燃えていたんだけど、深夜のその番組でモチベーションがさがって、やりたくない状況でタモリ倶楽部に入ったんですよ。最初は、タレント的なポジションは大嫌いだったからデザイナーとしてやってたんだけど、タモリ倶楽部に出る段階でそんなこと言ってもしょうがないじゃんって。観られるようにしか観られないしね。空耳でいいじゃないって。

・最初は、「空耳アワー」っていう名前のコーナーじゃなかったんでしょ?

そうなんですよ。「あなたにも音楽を」っていう。いろんなものにもテーマ音楽があると。電信柱にもどんなものにも。それに途中から出て、小岩駅を写しながら、「小岩、私の小岩〜」ってピンキーとキラーズが流れるみたいな。ボキャブラに近いようなのだった。それと、クイーンのがんばれとか、アース・ウィンド&ファイヤーの青森県みたいなのをやって。そしたらそっちばっかり応募があって。画期的にそっちの方向に言って、でいつのまにか空耳アワーになったの。

・で、いつのまにか「ソラミミスト」ということですね。

あの番組は構成作家かいてディレクターがいて、それこそすごい何人ももアイデアでやってる番組だから、僕が参加したときはすでに企画もいろいろ決まっていたし、空耳アワーのタイトルに変わりますって言われて、安斎さん、肩書きはどうしましょうって。その前の「テーマ音楽評論家」でいいですよねって言われて。やめてって。それはすごく誤解されやすいネーミングだから。仕事頼まれて困ったこともあったし。もっとあやふやなものにしたいんで、「ソラミミスト」にしてもいいかなって。そしたらディレクターが「それはちょっと〜、わけ分からないっすな。」実質のあるものより訳わからないもののほうがいいからって、そうしてもらったの。それだけから自分で言ったのは。

・それが、今となっては世間では空耳のおじさんですよ。

こんな事態に人生がなるとは思わないでしょ?一所懸命デザインがんばってきてさ、イラストレーターとしてもがんばってきてさ。結局世間は空耳の人だからね。

※それでは、安斎さんの出世テレビ番組を観てみましょう。あれ、いない?!http://www.youtube.com/watch?v=qdrxgbpAB3I

・それも良しってかんじですか?

良しっていうか、もう認めざるを得ないでしょ。いくら抵抗しても意味がないじゃないですか。お前が犯人だって言われているんだから、私が犯人ですって言うしかないよね。
やってませんって言ってもね、やっちゃってるしね。

・逆ジョンベネのカー容疑者の心境ですか。(笑)


実はやってなかったカー容疑者!

カー容疑者もいいかげんだよなぁ。無実だって分かりつつああいうことする人づるいよね。だからあんなに堂々としてたんだよね。どこかで一瞬、ほんとうに犯人にされちゃうかもって、でも俺やってないからみたいな。

でもロリコンであることには変わりないっていうね。

あれは発表の場としては最高ですよね。あの人どこに行っても「かわいい子入りましたよ!」って言われるもんね。あの世界の中では3本の指に入るでしょ。

もう、SHOW-OFFの連載とか頼んだほうがいいんじゃない?!

・メールでねって、俺も捕まってしまいそうじゃないですか!

タレントっていうのは才能のことであまりある才能のある人で、なんでも対応できるっていう意味だったわけでしょ。もうソラミミストって呼ばれていいやってかんじかな。
いまだに表に立つことがいやですもん。できれば後ろで仕事することがいいな。それこそ前にでてものを言うことが、僕の友だちがそうだからそう思われているけど。いわゆる、ちゃんと自分の意見がある人じゃないといけないと思うんですよ。僕、ないもん。意見は聞かれればあるよ。もともと何かがしたいっていう強い意思があるわけじゃないですか。例えばみうら(じゅんさん)みたいに日本の常識を変えるまでの勢いっていうのは僕にはないわけだから。ただたんに、いっしょに仕事をしているからそういうイメージがあるかもしれないけど。僕自身はまったくないですよ。ないことに対して悪いと思っていない意識の低さみたいなのはよくないけど、ないことに対して全然悪いと思ってないし。実際は、ないわけじゃないからね。僕はものを作るっていうことで表現をするだけで。その表現は、もともとものを作られてくれた人が持っているものだとしてもそれをきちんと見せてあげたり、きちんと形にしてあげたりすることがすごく大事なことで、それをやってくれる人がいないから、すごくゆがんだ伝わり方をしちゃうから、なんだか分からないけどものをマイナーだとかメジャーだとか言ってみたりするじゃないですか。あんなのただ単に気の使い方だけじゃないですか。メジャーとマイナーと呼ばれるもののさがあるじゃないですか、表現の違いだけだと思うんですよね。

・出会いによってデザインする意味が変わってきたとおっしゃってましたけど、今は楽しくなければデザインでないって気持ちですか?

面白くなければ伝わらないっていうのを、みうらじゅんって言う人に教えてもらった。すごくそうだと思う。実際そういう風になってるじゃない。バラエティーでなければ通じないみたいなところがテレビだとあるじゃないですか、良くないことだと思うけど。シリアスはシリアスに訴えてほしいじゃないですか。みうらは、シリアスなものはシリアスでなきゃいやだとも言っている訳で。そいうことに共感してものをいっしょに作っていくっていう楽しみがすごいありますよね。

・10年、20年先にそのかんじって変わってくると思います?

このかんじは、もっとレイドバックすれば面白くなると思っているの。ほんとだったら、線一本引いて人が笑ってくれたらいいんだ。それが理想で。デザインもすごい凝ったものが好きなんですよ。本当はそんな展覧会とかやりたいんだけど、実際できないからね。お金も時間もかかるから。そんなのがすってできたらいいなって。デザインは複雑なものを見せれたらいいし、いろんな感情を込めたいし、絵を描くときはもっとストレートにしたいなって思ってるんですけどね。

・みうらさんとの最初の出会いってどんなのだったのですか?

みうらくんとはね、野沢直子ちゃんの誕生日パーティーで西麻布のクラブで。いろんな浮かれている人たちの中で妙にはじけだされたかんじで、俺とみうらくんがいたの。他に友だちがいなかったのと、華やかな雰囲気になじめなくて。そしたら向こうから友だちになってくださいって近づいて来て。で、飲みながら立ち話していて。安斎さん、ロック好きですよねみたいなロック話になって。だいたいこのパーティーロックじゃないですよねみたいな会話になって。そのうち、話しているかんじが漫才みたいになってきて、こんなとこにエリック・クラプトン来ないちゅうねん!こんなとこにジョージ・ハリソンいたら大ゲンカや!みたいな。(笑)そういうロックネタで漫才を2人でずっとしていて、そのうち、盛り上がって来て、ソファーに座っている人たちがいて、その人たちの前でやって。ちょっと面白いねって言い合って、そのうちまた飲もうねって。それから毎日のように飲むようになっちゃって。こんなに10代のころの話を面白がってくれるやつもいないし。ひさびさに高校の時に戻ったみたいで。すごいインパクトありましたね。でも最初はね、言い方悪いかもしれないけど、みうらに言わせれば、俺はおしゃればデザイナーさんだったから。余計なことをすると。いわゆるちゃんと面白いものをおしゃれに変えてしまうと。面白くなくしてしまう人だと、みうらからすると。僕も実際はそうは思ってはないけれども、でもものを伝えるときにはある程度のビジュアル的なクオリティー、美意識は必要じゃない?っていう思いだったから、最初のうちは、みうらくんに仕事頼まれてやったときは、何度か衝突はしてますよ。


みうらじゅんさん&安斎肇さん


勝手に観光協会のジャケ

・へぇー、そうなんですか。それは2人のキャラクターからすると意外ですね。

でもみうらは、正しいことはちゃんと説得できる人だから。ぼくは、絵を見せてね、こっちがいいでしょとしか言えない人だから。そこにはちゃんとしたロジックはないからさ。みうらは、その当時からそういうのがちゃんとあって、プロデュース能力は。実際、デザインを見せてかっこいいねって言われるより、大笑いされるほうが快感になってくるんですよね、俺は。その中にちゃんとしみるかっ良さがあればいいと思う。

・今の安斎さんのスタイルが出来たのっていつごろですか?

確立してない。(笑)おごった言い方をすると、デザイナーってひとつのテーマで大げさに言えば、100種類くらいデザインをみせないといけないんですよ。その中で今回、10とか1とか2とかにしぼる作業じゃないですか。僕はスタイルはないですよ。イラストにはあるけ。イラストレーションはスタイルがないと話にならないけど。その問題が僕の中ですごいジレンマでもある。お題や素材があったときにいろんなイメージがわくけれど、イメージを主張することが出来ない。イメージを作ることはデザインの仕事。イラストレーターはそれを主張する作業だから。主張するっていうことが身につくまではちょっと大変だった。

・安斎さんが影響受けた人って誰ですか?

湯村輝彦さんに心酔してからは一途ですね。いまだに湯村さんだな。音楽は、何人かいるんですけど、1人って言われたらライ・クーダーなんですよね。ぼくからすると湯村さんは、これは言ったらいけないのかもしれないけど最初僕が見たときは、河村要助さんとほぼ同じいっしょだったんですよ。でタッチが似ているので今のタッチに変えたんです。それで今のヘタウマって言う世界を作ったんです。そこには、絵を描く情熱が強くあって、その情熱が全てで。思いがほとばしりすぎて思わず描いてしまうんだっていうのが最高の絵であると。技術ではなくて情熱があるかどうかだっていう心情にとても共感し、湯村さんはグラフィックデザイナーでもあって、日本の中でもそうとう、一番好きかもしれない。すごくいろんな意味で絵もデザインも生活スタイルも好きですね。新宿の猥雑な中に、白亜のコンクリートの要塞みたいなのがあって。そこに南国の木が2本空高くそびえたっていて。階段を上がっていくと「タランチュラに注意」って書いてあるの。(笑)扉をあけるとプーンとなんともいい香りがしてきて、靴は脱ぐんだけど、湯村さんは当時、バスケットシューズを履いていて。家具は全部白で、そこに赤いライトとか赤い家具がポイントポイントにあって。真っ白なシャツに真っ黒な湯村さんが出てきて、「会いたかったんだよ。」って握手されて。筋骨隆々ですよ、まゆげのない長髪で。(笑)ずっとソウルミュージックがかかっててもうすんごいですよ〜。好ききらいがあるかもしれないけど、ここまでの美意識があるのはすごい。で、キュキュキュキュってマジックで絵を描いてくれて。あ、これでいいですよって言ったら。もうちょっと描くよ。キュキュキュキュキューッって。いやー、抱かれてもいいなって思った。

ライ・クーダーはどうですか?

音楽の探求者で、それこそ、古きよき伝統音楽。音楽家たちを訪ねていって、その音楽家から吸収したものを今によみがえらせていくみたいなことをやっていて。あの人の不器用さがすごく好きで。自分は譜面も読めないし自分自身は音楽に対して造詣がないから、不器用な人が一生懸命やっているものに感銘を受ける。その共感をする部分と、スライドギター、ボトルネックという奏法が音楽の中で特別に好きですね。

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・ボトルネック奏法のCMもありましたよね。

なんというの、弦が触れる音とか、弦を放してボトルがこすれる音とかああいうの聞くと無性に悲しくなるんですよね。

・僕は、落ち込んだとき、部屋を真っ暗にして「パリ・テキサス」(ヴィム・ベンダース監督)のサントラを大音量でかけたりしますよ。

キュルキュルキュル、ドーンって。それもどうかと思うけど〜。(笑)

・いいじゃないですか!ほっといてくださいよ!(笑)


「パリ・テキサス」サントラジャケ

彼女ができるとライ・クーダーを聞かせるっていうのが常ですね。ライ・クーダー聞いていいねって言う子じゃないと本気になれないっていうか。なんかヘタねとか、もうちょっときれいな音楽が好きとか、素朴すぎとか言われるとね〜。今はキューバ音楽にいっちゃってますけど、ライ・クーダーには早くボトル・ネックの世界に戻ってきてほしいんですけどね。もうああいうのはやりたくないんだろうな。くやしいな。

・ライ・クーダーは、プリンスとまったく対極ですね。

うん、まったく逆ね。プリンスは天才ですからね。しかも完璧主義じゃないですか。そういう意味ではまったく対極にいる人で、だから好きなんですよ。人は、やっぱ、なんて言うのかな。溢れんばかりの才能のために世の中から外れてしまって笑いものになるくらいじゃないとだめなのかな〜。ねぇ。いまだに音の配置とかかっこいいですよね。

・こないだのアルバム「3121」はほんとうにかっこいい。しかもアルバムまるごと何回も聴けますね。全曲いい。

僕も、僕も。やられたなぁ、ねぇ。ベストアルバムは、聴いた曲ってこともあってもうBGMになってきてるじゃないですか。こないだのアルバムはかっこよかったなぁ〜。


プリンス最新アルバム「3121」

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プリンスのベスト盤は12インチシングルがたっぷり聴ける

・プリンスの動きがあればまたトークショーやりたいですね。

離婚しちゃったしねぇ〜。

・じゃ、最後に高円寺の若者たちに良きアドバイスをお願いします。

僕のね、僕の世代というか、僕の中では中央線というのはすごく特別なものなのね。それは、たとえば高円寺じゃないよね、って吉田拓郎が歌ったように。僕がラジオにハガキ出して観に行ったコンサートで言うと武蔵野系の人たち、高田渡さんにしても。いっぱいこの中央線沿線に、中川さんも、いたわけですよ。僕はたまたま池袋の東武東上線っていうところに生まれてしまって。雑多なやぼなところで育っちゃったもんだから、やっぱりたとえ同じようにラジオを聴いていても、中央線のイメージを歌った歌とかあるけど、すごく結びつかないものとかたくさんあった。渋谷で桑沢デザインに入ったら、すごく中央線沿線に住んでるやつらがいっぱいいて。阿佐ヶ谷、高円寺、吉祥寺、三鷹、立川、福生とかいて。実際、福生というとこでワークショップ“MU”とかでいうはっぴーえんどとかのジャケットを作った集団がいて、そので細野さんの「HOSONO HOUSE」があって。日本の音楽のルーツは中央線の奥にあるっていう意識が僕の中ですごくある。それははっきりしている。音楽の系譜が。そういう沿線ってないんだ、ほかに。湘南のほうで桑田圭祐って言われても全然ぴんと来ないじゃないですか。まあ、比較するの良くないね。中央線というのは伝統とこういうカルチャーの中で、音楽、絵、漫画もそうだし、いろんな役割をしている場所で僕にとってはコンプレックスがある場所なんです。この場所に友だちもいるけど、なかなか踏み込めない。僕、中野までは来れるようになったの。サンプラザとかあってまだ来やすい。中野から先、高円寺からはいまだに違う意識になるんだ。そういう意味ではそこに住んでるっていうその場所の歴史を考えたらすごく力が出てくると思うんですよ。ちょっと歴史の上に立ってその歴史を踏襲することがないけれど、そこからまた新しいことを作るのにエネルギーもいるだろうし。大変なことだろうと思うけど、たぶん受け入れてる体制は街には整っているから、ここからはじめてもらったら嬉しいな。僕は今神奈川だけど、遠い福生からものが生まれたっていまだに思ってるし。絶対にそういう土壌に生活しているというのはとても大きいことだよね。

・9月の9、10日と狭山でハイドパークフェスがありますね。去年は細野さんがHOSONO HOUSEほとんどまるごとやりましたよ。あがた森魚さんとか加藤和彦さんとかも出ますよ。

ええー!あっそう。いいねー。僕の中では加藤和彦はヒーローなんだ。加藤和彦っていうのは京都の人ってかんじがあるね。

・みうらじゅんさんといっしょですね。

信用できないんだよね。うひひひっ。それは冗談なんですけど。若い頃ものを作るには環境って絶対大事だよね。そういう良い環境にいたほうが絶対得だよね。

※今年もハイドパークフェスは開催!!
http://hmf-sayama.jp/

・これからやっておきたい仕事ってありますか?

もういかにも死んじゃいそうな人みたいに。余命いくばくもない人に最後のインタビューみたいじゃないですか!(笑)

・そうなってもいいように、一応僕も人を選んで取材やってますから。

やりたいことは、めちゃめちゃありますよ。僕今、新しいバンドやろうとしてる。

・ええ!チョコベビーズ以外に!やる気マンマンじゃないですか〜。

あとは、イラストではなくてアニメーションを作りたくてそっちをやってますね。それと、ひとつマスターしたいって思って、ボトルネックギターをやろうと。それで年とったらギター1本持って地方を旅してね。ブルーズマンみたいな生活をしたいな。ブル〜ズマン。最終的にはそれが目標ですね。そこでも自分のキャラクターのTシャツ売ってたりしてね。すごいせこいんだけどね。

・そのときは、僕が売り子しますよ。(笑)

東村山に行ったときはよろしくお願いします〜。



【プロフィール】
安齋 肇(あんざい はじめ)

1953年12月21日
東京池袋生まれ 神奈川在住
イラストレーター、デザイナー

桑沢デザイン研究所デザイン科終了後、麹谷・入江デザイン室(1976〜1979)、
SMSレコードデザイン室(1978〜1982)を経てフリー。デザイナーとして、CDジャケットやツアーパンフレットなど音楽に関するデザインのほか、装丁を手掛ける。イラストレーターとしてはキャンペーンやイベントのキャラクターデザイン、雑誌連載を通し活躍している。また、ミュージックビデオの監督、CM出演・ナレーション、アニメーションタイトル作成、個展・グループ展、など広く活動している。1992年よりTV朝日系「タモリ倶楽部」のコーナー“空耳アワー” にてソラミミストとして出演中。1998年、CM・ナレーション部門のマネージメント・オフィスとして、「ワン・ツゥ・スリー」を村松利史、温水洋一らと設立、所属。

ワン・ツゥ・スリー
http://www.office-123.com/anzai.html


【主なCM出演 】
MMCコーヒー「コーヒー飲ませ隊」(1994)
中古車「ガリバー」(1997) 
丸大食品「燻製屋陶芸篇」
【主なCMナレーション】
秋葉原電気まつり「カモとカニ編」 
富士通「MO」(1996)
日清「ラー坊」 セガ「サタコレ」(1997)   
カルビー「サッポロつぶつぶポテト」 
味の素「BLENDY」(1998〜)
JR東日本「TRAING渋滞編」 
東芝「燃料電池発電」(1998)
SONYプレイステーション
「ENIXいただきストリートゴージャスキング」(1998)
ゼブラ「なかよしゼブラ」(1999) 
ジャストシステム「一太郎11」(2001)
ファミリーマート(2001〜) 
キリンビール「グリーンラベル」(2002) 
佐川急便(2002)

【主なTV出演 / レギュラー】
TBS系「オフィスヒット」(1988.4〜1989.3)
TV朝日系「タモリ倶楽部」空耳アワー(1992.4〜)
NHK衛星「ジャスト・ライブ」(1993.4〜9)

【主なCDジャケットデザイン / アート・ディレクション】
「RESOCHA」(1996/SONY)
「RESOCHA2」(1997/東芝EMI)
スチャダラパー「偶然のアルバム」(1996/東芝EMI)
デキシード・ザ・エモンズ「ROYAL LOUGE」(1997/Epic Sony Record)

【主なツアーパンフレットデザイン】
奥田民生(1995〜1998)
UNICORN(1989〜1993)
THE CHECKERS(1984、1987、1989、1991)
BARBEE BOYS(1987〜1990、1992)

【主な装丁】
高見映著 「ノッポさんがしゃべった日」(1991/丸善メイツ)
いとうせいこう・みうらじゅん著 「見仏記」「秘見仏記」(1993、1995/中央公論社)「見仏記 海外編」(1998/角川書店) 
ジョン・W・デュフィ著/渡瀬ひとみ訳 「プリンス[1958-1994]」(1994/宝島社)
ローリー寺西著  「不思議の国のローリー」(1995/ソニーマガジンズ)
みうらじゅん著  「お堂で逢いましょう」(1995/弘済出版社)
高橋洋二著  「10点さしあげる」(1996/大栄出版)
しりあがり寿・西家ヒバリ著  「いっしょぐらし!」(1996/KOEI)
スチャダラパー著  「スチャダラゼミ」(1997/角川書店)
マイケル・ブラウン著/奥田祐二訳 「抱きしめたい ビートルズ’63」(1998/アスペクト)
近田春夫著  「考えるヒット」(1998/文芸春秋)

【主なキャラクターデザイン】
JAL「大平洋楽園計画・リゾッチャ」(1994)
テレビ朝日「秋のイベント」(1995)
AAA「奇跡の地球」エイズキャンペーン(1995)
弘済出版「タビダチくん」(1996)
シンコー・アーティスト「CIマークとロゴ」(1997)
RICOH「ZOOMくん」(1997)
レディオ湘南「サポーターズクラブ」(1998)
JRバス8社
「ツバメのジャーニー バス旅フォトラリー」(1998)
NTT「デザイン電報」(1998) 
カルピス「桃とカルピス」(1999)
明治製菓「チョコベビー」(2000) 
ベネッセコーポレーション(2001)
J-COM「はやくカエロウ」(2001) 
ノキア「Ai-yai-ya!」(2001)
JA共済「しあわせ夢くらぶ」(2002)
ファイブ・ア・ディ  『食べちゃえ☆野菜 食べちゃえ☆☆果物』
| テリー植田 | 高円寺 | 00:17 | comments(2) | trackbacks(35) |
2006.03.19 Sunday
SHOW-OFF22号出来ました。


出来ました、SHOW-OFF22号。今回は、表紙インタビューの「人間椅子」杉作J太郎氏、エアギターの宮城マリオ氏の三本やりました。

本誌は、高円寺の古着屋さんやレストランなんかで配布中であります。
古着屋、ミニカー屋の「ホットワイヤー」ならゲットできる確立高いと思います。是非とも。近日中に、執筆した原稿はアップいたしますのでしばしお待ちを!グッド
| テリー植田 | 高円寺 | 12:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
2005.12.03 Saturday
今夜、高円寺で。
高円寺のあんな店、こんな店、あんなところ、あんな話などディープにやります!!!!
高円寺在住の方、これから高円寺に住もうという方、是非。
特別ゲスト参加決定、エアギター日本三位の宮城マリオ氏!!



中央線だよ全員集合! 高円寺編
〜2005年忘年会だよ全員集合〜

司会 テリー植田(高円寺フリーペーパーSHOW−OFF)
   急行(バカ映像/爆ロックフェスティバル)
ゲスト:吉村智樹(WOWシリーズでお馴染み高円寺在住ライター)
    宮城マリオ(エアギター日本三位)

12月3日(土)
18:30オープン/19:00スタート
1500円(前売りなし)
高円寺クラブROOTS
http://www.muribushi.jp/rootshp/info_r.html
東京都杉並区高円寺北3-22-3 
EL.03-3330-0447 JR高円寺駅北口より徒歩2分
| テリー植田 | 高円寺 | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
2005.10.05 Wednesday
高円寺抱瓶のクラブROOTSが誕生


高円寺でピカイチの沖縄料理店、抱瓶(だちびん)の新ビルがこの夏に完成した。1億円ビルと言われるこのビルには、クラブ、バー、レストランがはいっている。どれも抱瓶の系列店であります。オープン当時は店前に具志堅用高氏や喜納昌吉氏の名前の入った花輪が並んでおりましたが、ここのB1には、ROOTS!というクラブがあります。知人の紹介でここの店長さんを紹介して頂いて12月にイベントをやることになりました。拍手

小生は、高円寺のフリーペーパーSHOW-OFFを編集しておりますが、イベントを高円寺でするのは非常に久しぶりなのです。9年前の上京当時は高円寺でDJやったりしておりましたが、ここ最近はやっておりませんでしたので、もう一度初心に帰るべくイベントをやろうかと思います。ちょっとした高円寺への恩返しといった心持ちでしょうか。高円寺の知人、友人を中心に高円寺イベントになれば楽しくなりそうであります。グッド

クラブのキャパは、50-60名程度ですが、PA機材もそろっておりライブも映像スクリーンも完備。飲食ももちろん出来ます。
忘年会もかねて12月3日(土)に開催。お楽しみに。

群星(むりぶし)ビル
http://www.muribushi.jp/
| テリー植田 | 高円寺 | 10:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
2004.07.09 Friday
SHOWOFF15号出来ました。

地域密着型フリーペーパーとして高円寺では定着した感があります
SHOW-OFF15号が高円寺を中心に配布中です。
季刊で年4回発行。

1、2号くらいまでは一人で書いてるページが多かったのですが
高円寺在住の有志スタッフも増えて、少しずつ広告も入るように
なり、なんとかここまでやってこれました。
高円寺が好きでただやってます感がにじみ出てます。


みんな欲しかった高円寺マップつき。
古着屋、BAR、レストラン、レコード店などなどたんまり掲載。

いろんな雑誌の高円寺特集であからさまにパクられたのも名誉。
アドマチック天国 高円寺篇にも紹介されました。


表紙は、あのハイロウズのヒロト氏の弟で俳優の甲本雅裕氏


高円寺在住20年の山崎洋一郎氏(ロッキン・オン編集長)のコラムも読めます。
山崎さんは、雑誌でロックのことを熱く語るよりも
日常の話題で書いてもらった方が、
ああっ、この人考え方がロックやなぁって感じるのです。


甲本雅裕さんってどんな人?ああっ、観たことあるぅー。
http://www.tama.or.jp/~hos/ham-sand/Profile/TSB/komoto.html
| テリー植田 | 高円寺 | 14:09 | - | trackbacks(0) |
2004.07.07 Wednesday
山崎洋一郎(ロッキン・オン編集長)インタビュー
SHOW−OFF 2号 エンジーに訊け!

山崎洋一郎(ロッキン・オン編集長)インタビュー



編集、ライターとして参加している高円寺のフリーペーパーSHOW−OFF(2号)で音楽ファンならこの人の原稿は一度は読んだことあるはず。山崎さんにはロッキンオン以外の雑誌で音楽以外の話を聞きたいとずっと思っていたのがやっと実現。高円人の人もそうでない方も必読の珍インタビュー。



テリー(以下:テ):高円寺に住んで、もう何年なの?

山崎洋一郎(以下:山):18年かな。19才からで、上智大学生兼、新宿ローリング・ストーンの一時店長兼アングラ劇団主宰兼だった。

テ:そん時、一人暮らしだったの?

山:吾妻通りの喫茶店のナジャの上に住んでて、そこにはヘビメタ野郎がいたり、イージーライダーみたいなバイカーだとか、トロージャンのパンクスとか40才で道路工事やってるけど格好はブラックサバスみたいなジャンキーとか、そういう人脈だった。家は、ドアを開けっ放しにして出入り自由にしてて、帰ったら薬やってる連中がヨダレたらしてたり、セックスしてたりとか。。。そんなことしてたから2年くらいで追い出されたかな。1983年から84年くらい。

テ:プリンスの「パープル・レイン」の頃だ!俺が中学1年生だな。

山:あと、デビット・ボウイの「レッツ・ダンス」、カルチャー・クラブとかフランキー・ゴーズ・トゥー・ハリウッドとかね。

テ:そのころから高円寺は、パンクっぽいイメージはあったの?

山:メタルとかが多かったのかな。みんな長髪で、髪が短かったのは、俺だけ。モトリー・クルーとかが好きでみたいなのが多かったのが高円寺。

テ:有名人とかミュージシャンは、住んでたの?

山:いたいた。その頃一世風靡していたブルー・ハーツのヒロト、マーシーが住んでた。ロッキン・オンに入ってから仕事するようになってマーシーとすごく仲良くなって。ヒロトは、よくZZ TOPに来てバーボン飲みながらブルースをリクエストして、新宿ロフト行って友達のパンクバンドで暴れて、JAMでモッズ系イベントで踊るみたいな3つのしぶい遊びをしてた。あといかにもマーシーらしいロマンチックな話なんだけど、夏によく遊ぶようになって必ず南口の噴水で待ち合わせして、ラーメン屋に行って、
餃子喰いながらビール飲んで、俺んち行ってクラッシュのビデオ見るみたいな。夏の少年遊びみたいなのをしてた。「トレイントレイン」で大金持ちなのに餃子とか春巻きをつつんで持って帰るの(笑)

テ:へーっ。そうなんだ。俺はその頃、ロッキン・オン買って洋楽を聴き始めた時だったな。山崎さんの記事も読んでたよ。

山:テリーは、こう見えても29才だもんな。ずっと同い年くらいと思ってた。声が渋すぎるよな。パラレルって知ってる?

テ:噂に聞いたことはある。レコード屋だっけ?

山:おそるべきニューウェイブ貸しレコード屋。ラフトレードとかチェリーレッドのものが全部そろってるにたいな。そこで、キュアーとかニュー・オーダー借りたり、イギー・ポップを万引きしたりとか、ジョイ・ディビジョン借りたりとか。でもローリング・ストーンで働いてて新宿文化圏に居たから、レコードは西新宿だな。神戸にいた頃にロッキン・オンで読んでた新宿レコードがここか!なんじゃここ4畳半くらいしかないじゃんみたいな。

テ:80年代は、どんな格好してたの?

山:俺、服の趣味は変わんない。細身のジーンズ、スニーカー、あと、軍モノ。

テ:高円寺に住むことって、すごい楽ですか?

山:うん、楽。まず、24時間うるさい街だからこっちがうるさくしててもめただない。俺、でっかい音出すから静かな住宅地は絶対ダメで、あと変なことやってもそれ以上に変なことやってるやつらがいるから目立たなくてすむ。薬でおかしくなったやつが鳩を虫取り網で追っかけてても、へんな薬やってんだなですむけど、成城学園前だとそれじゃすまないじゃん。

テ:通報されるよ。(笑)そういう連中が伝統的に住んでるんだ。

山:日本人はもうちょっと、自由に、いいかげんに振舞ってもいいかなって思うんだけど。そういういいかげんさでは、高円寺はピカイチでしょ。このライフスタイルが別にすばらしいとは思わないけど。

テ:地方からバンドやりに東京に出てきたけど、失敗してみたいなのも多いでしょ。ドロップアウト。

山:そうだね。なんか負け犬ムードの高い街だよね。それには、理由がちゃんとあって、勝った奴が必ず出て行くから。それも不思議でしょうがないけど。勝ったら残れよっていう。ブルーハーツ、HIROMIX、スピッツのマサムネもそうだし。売れたらいなくなる。売れなかったら高円寺グダグタしてるか、田舎帰るかどっちか。 売れて高円寺にとどまる奴は、見たことない。

テ:それってなんなんだろうね?

山:やっぱ、負け犬っぽいムードがいやなんじゃないかな?出て行きたくなる。ここ、卒業って。俺は、絶対に出ないけど。

テ:それは、どうしてなの?楽だから?

山:(1分ほどの沈黙)負け犬根性みたいなのは、すごいいやだけど。。ホントに勝負して負けた奴が出してる負け犬根性はいやだけど、まだ勝負してないで、負けるかどうかわかんないいうフラストレーションもある街じゃん。そういうのは、俺好きなんだよ。言ってる意味わかる?

テ:うん、わかる。ぎりぎりのところで戦ってるみたいなかんじ。

山:そうそうそう。負けた奴の負け犬根性がドヨーンと漂ってる街ではあるけど、まだ、くすぶっててこれからぶわっと火がつくかもしれないかんじもあるから。

テ:若いフリーターやってる連中とかそうだよね。

山:そういうエネルギーが凄い好き。あと、凄いなと思ったのは、高円寺は、ごみを出したときのなくなり率!!

テ:なにそれ?持っていちゃうの?

山:ちょとラジカセといか、置いておくと1時間後とかには、絶対無い。椅子が一脚なくなったからって出しておくともうない!南米とかみたいだよね。車が故障して、放置しとくと、タイヤはずされてエンジンもっていかれるみたいな。子供がガーって。

テ:言い過ぎ、それ。(笑)

山:俺も持っていく派だったけど。ピンサロが潰れて、ソファーとか出すじゃん。ピンサロのソファーって凄い趣味悪くていいじゃん。赤紫みたいなの。

テ:高円寺って都心からの距離感がいいでしょ。

山:そうだね。中野とかだと違うしね。

テ:俺は、3年阿佐ヶ谷に住んでたけど、高円寺とは全く違う。住んでる人種も。空気感も。

山:高円寺は、ミュージシャンの卵が多くて、阿佐ヶ谷は、漫画家、小説家の卵が多いっていう話は聞いたことがある。阿佐ヶ谷ってロック感がないよね。あんまりなじまないな。

テ:阿佐ヶ谷って安全な街だし。下北とも違うし。高円寺って団結感ないよね。個人個人がゆるーくやってるかんじ。

山:それはあるね。でもね。高円寺は、妙な地元意識があるとか言われてきたけど、俺らの頃はそんなのねえじゃんって思ってたの。それは、昔の話だと思ってたの。でもね、ある日、俺の友達がマリファナでパクられたの。そいつひとりパクられてその後ごっそり20人くらいパクられた。やっぱ、あるんだな。高円寺のファミリー感みたいなのがって思ったよ。一網打尽ってかんじだよ。一番高円寺に不満があるのは、なんで外資系のレコード屋がないのかってこと。タワーレコード、バージン。絶対つくるべき!!

テ:HMVなんか立川に出来てるもんな。

山:立川につくるんだったら高円寺につくれよな〜。ホントに。こんだけ、音楽好きがいるのにさ。。。でも、駅前の新星堂の2階のお姉ちゃんがんばってる。あの人ロック好きだから。

テ:ははは。よくみてるな〜。さすが高円寺の主。80年代は、音楽はどんなの聴いてたの?

山:80年代は、ダブだな。リントン・クエイシ・ジョンソンの「ベースカルチャー」とかオーガスタス・パブロとか。あとはニュー・ウェイブ。キュアー「ポルノグラフィティー」とかモノクローム・セットとかコクトーツインズの・・・何だっけアルバム?

テ:ガーランド?

山:それ!それがベスト3かな。

テ:俺が、中1の頃ですよ。84、5年かな。ロッキン・オン読み出した頃で、山崎さんの文も読んでたよ。スミスとか聴いてた。貸しレコード屋で借りて、テープにとってた。

山:スミスがあったな。「ミート・イズ・マーダー」ちょっと、ひんやりしたイメージだね。でもやっぱりダブばっかだったな。俺、神戸出身だから関西ではダブ仲間いっぱいいたけど。東京では、ダブ聴いてる奴は、いなかったな。

テ:今日、山崎さんが会社で面接してきた学生達は、さっき言ったアーティストとか知らないいんでしょうね?

山:しらないだろうね。当然。22、3歳でしょ。 オアシスではじめてロックにはまりました、でしょ。

テ:へー。そうか。つらいなー。世代を感じるな。会社の若い人は、山崎さんに昔の知らないアーティストとかジャンルを尋ねに来たりするの?

山:するよ。「それはなっ!。。。」って。

テ:ハハハッ。出たウンチクおやじ!

山:例えばさ、スミスなんか、今ぱっと聴いてすげーってもんじゃないじゃん。あの凄さをどう説明していいかわからないね。オアシスでも、ほんとあの時って凄かったけど、今の高校生オアシス聴かせても凄いと思わないだろうし、でも、22、3才の奴等にすればオアシスって凄いバンドなわけでしょ。そういうのっていつの時代でもちょっとずれるというのは あることだから。

テ:音楽は、よく聴いてるのかな?若い子は。

山:邦楽が多い。前は、邦楽のリスナーは各バンド、各タレントのファンってかんじだったけど、今は、音楽リスナーとして音楽をちゃんと聴いてる。変ったなと思う。いいことだなって。俺がやってる洋楽としては、つらいなと思う。

(いったん中断後、以下、初公開トーク!!!!)

山:ロッキンオン入って直後。86年くらい。俺が大麻不法所持でパクられたことがあって。行ってきまーすってドアから出たら4人の刑事に飛びかかられて、羽交い絞めされて荻窪所に20日間ぐらい入ってた。ああ、終わりだ。明日から何しょうかなって思ってたら社長がかなりがんばってバックアップしてくれて。渋谷陽一が。やっぱりロックの会社に入ったんだなって思った。 入社して半年くらいだったら即クビ、今だったら。

テ:いい会社やな。

山:今だったら即クビにする。社長がしなくても、俺がする!

テ:はははっ。ロックじゃないじゃんか、山崎さん!


ロッキン・オンってこんな会社
http://www.rock-net.jp/
| テリー植田 | 高円寺 | 18:03 | comments(12) | trackbacks(0) |
2004.07.07 Wednesday
WHAT’S LOVE?マッツさん対談
高円寺フリーペーパーSHOW−OFF エンジーさんいらっしゃい!
〜ゲスト WHAT’S LOVE?マッツさん(ボーカル)〜

意外やメタル好きで、高円寺在住のマッツさんとドッグベリーで
スカ聴きながら歌謡曲談義!!

(インタビュー:テリー植田&オッチー テキスト:テリー植田)


*どんな風に時代の音楽を聴いてきましたか?

(マッツ)小学校、中学校の時は、あんまり意識ないんですよね。とりたてて一生懸命レコード集めているような子じゃなかったし、普通にジュリーとかかっちょエエなぁ〜っていうね。歌手になりたいとか、音楽やりたいとか思わなかったけど歌ったりするのは好きだった。平々凡々と聞いていたけど、中学になると音楽がダサく思えた時期があったりしたんだけど、第二次性長期になると洋楽とかロック聴き始めたりとか。日本のものでもそれまでアイドル聴いていたのがサザンオールスターズから入ったり、夜中のテレビでカルチャークラブとか聴いたりしましたけど、ぼくは、いまいちどっちも行けなくて。ところが、高校に入る前に、ぼくにヘビーメタルサンダーが落ちて(笑)エレキギターの早弾きとか。メタリカとかちょっとハードコアに近い世界。どこでもみたことないっていう。高校になってエレキギター買ったり、モーターヘッド聴いたり、まあ、BURRN!よく読んでましたね。(笑)
(オッチー)伊藤正則さんのヘビーメタル・ナイトとかありましたよね。
(マッツ)そう、そう。東京っていいなって。ぼく仙台なんで。テレビ神奈川の番組とか、雑誌とかは情報を読むんだけど、ぼくの周りではいっさい何も起きないみたいな。。。やっぱBURRNしか情報がなくて。たまに日本のバンドでアウトレイジとか仙台に来て、勢い込んで行くんですが、50人くらいしかいなくて、モッシュというよりはほんとオシクラマンジュウしてるだけっていう。ダイブもできんしーみたいな、床に落ちてるだけみたいなね。中古レコード屋に行くようになって、ロックのいろんなものを聴くようになって、隅っこになるバッタ値で売られてるような歌謡曲とか買うようになったんですね。あ、西城秀樹だとかいって。家で聴いてみると、ちょこっと楽器をやるようになったせいもあって奥深さみたいなものを感じ始めるんですよね。歌謡曲ってヘンテコなこといっぱいやってるなって。70年代終わりごろだと、歌自体はどうしょうもなく歌謡曲なんだけどバックトラックは無理くりソウルとかそんな風にしてるとか。
(オッチー)実はあの当時、凄いこと演奏してたんですよね。

*ぼくらの世代ってジュリーが最初にカッコイイと思ったりするじゃないですか?

(マッツ)井上尭之さんとかもバンドもサウンドもうまくロックサウンドを取り入れてるじゃないですか。でもあくまでお茶の間のサイズというか。大野克夫さんとか、ちゃんとロックを分かってる人がちゃんとお茶の間に降りてきたかんじで。大学も仙台で、今ドラムやってる菅野が、彼の中でレゲエやスカで歌謡曲をポップにやったら面白いんじゃないと。レゲエ、スカはもともとアメリカのオールディーズとかの曲をジャマイカンで演奏するっていう。その考えで、別にオリジナル作らなくてもその味わいをやったら面白いんじゃないかというアイデアがあって。たまたまぼくが友達の結婚式の二次会で演歌とか歌ってるのを菅野が見てこいつにやらせてみようって思ったみたい。「みちのく一人旅」(最新アルバム「温故知新」に収録)とか歌ってました。それをベースとして、時期を別にして東京に出てきてワッツ・ラブ?というバンドになるんです。


*どういう人がアイドルでしたか?

(マッツ)映画だとトラック野郎ですね。1970年代後半の質感みたいなもの、82年くらいまでいいんだろうけど、そこ超えちゃうと違うかんじになっていくというか。なんかまだ貧乏なかんじがあったりとか。
(オッチー)日活映画のあの頃。梶芽衣子とか幸薄そうなかんじですよね(笑)
(マッツ)強い男は必ず油ぎってるとか(笑)成田三樹夫さんは別として。
(オッチー) WHAT’S LOVE?のプロモビデオ、いい役ですよね。抱き合ったりね。
(マッツ)60年代だと、もっとスカッとしてるというのかな。スター感があるっていうのかな。裕次郎さんとか。70年代だとスターじゃないというか、少しガニマタなかんじというか。
(オッチー)少しダーティーなかんじ。プロモビデオでもガニマタで歩いてましたよね。
こういうのに反映されてるんですかね?(CD「温故知新」のジャケ写を指差して)
(マッツ)この写真、「大将」なんですけど、北口店で。格好つけても格好つけられないところが味噌なんだと。
(オッチー)この写真、みんな仲良し感がすごいいいっすね。アフタービート(スタジオ)によくWHAT’S LOVE?のポスター貼ってありますよね。
(マッツ)みんな30越えてるのに。。。(笑)

*高円寺って住んでみてどうですか?

(マッツ)なんでしょ、確かにミュージシャンにとって居心地のいい街であるのは間違いないんだよね。自由人っていうと恥ずかしいけど好きなことやってふらふらやってる連中とかにはね。ただ、高円寺の中で溺れちゃいかんなっていうのもどこかであったりね。なんかあったかいじゃないじゃないですか、そういう人間に優しくて。物価も安いし、果物屋さんとかもあったりして。飲み屋も安いし朝までやってるし。そこにずっぽりはまっちゃうと結構危険な街なんですよね。(笑)
| テリー植田 | 高円寺 | 16:54 | comments(0) | trackbacks(0) |