「『日本の音楽のルーツは中央線の奥にある。』って言うのは、はっきりしている。そういう系譜がある沿線ってないんだ。」(安斎肇)
ソラミミストでイラストレーターとして知られる安斎肇さん。雑誌「レコードコレクターズ」の装丁、JALのリゾッチャのキャラクター、NHK「just pop up」のロゴとキャラクター、象印マホービンの企業キャラクター、田中康夫氏の個人のキャラクター「やっしー」などのひたすらポップなイラストとデザインで世の中を楽しくする。湯村輝彦氏を敬愛し、ライ・クーダーとプリンスとサッカーをこよなく愛する安斎さんのとっても気になる青春時代を聞きました。案の定、この日も1時間の遅刻でしたが。
え、安斎さんって52歳なのっ?!
(取材と文:テリー植田 撮影:大澤麻衣)
・どんな20代を過ごしたのですか?
最初は、
桑沢デザインに行って。大学受験でくじけて、一浪して桑沢に入ったんですよ。多摩美、武蔵美、日芸に行きたかったんですよ。3つとも落ちて。当時から実践的なデザイン学校として認められていたけど、ただうちの親父が決めただけなんですよ。うちの親父が美術手帳を見ていて広告があって、校長の桑沢さんが非常にいい人だって言い出して。自主的でなかったうえに、一浪の人ってなんとなく志半ばみたいなとこってあるでしょ。あきらめきれないところがあって、就職する気もなくて。それで3年間の研究科に行こうとしてそこも落ちて。そのまま就職しなかったんですよ、俺。当時つきあっていた女の子が研究科に進んでいたので、その子がパッケージの授業とか受けていたのでそこに顔だしたりぷらぷらしていたの。働かなくてすめばいいのに、誰も気づかなかったらいいのにって思っていたんだ。当時
ワークショップ"MU!"(はっぴいえんどのレコードジャケット制作で有名)とか
100%ピュアスタジオがあって、仲間が集まってデザインチーム作ってレコードジャケットやったりする傾向の時代だったの。そんなのマネしたのやろうって言われて、グラフィックーツアースーパーマケット、当時原宿にドゥーファミリーっていうブランドのデザインやってるお兄さんとお父さんが資本を出すとか言って株式会社から始まって。
はっぴいえんどのレコードジャケット
・ぷらぷらからいきなり凄いじゃないですか!
※桑沢デザイン研究所はこんなところhttp://www.kds.ac.jp/
でも、もう失敗でしょ?失敗の臭いがぷんぷんじゃないですか。(笑)半年ももたずに解散。またぷらぷらして、さすがに彼女が、働いたほうがいいんじゃないって言ってね。そこから
麹谷・入江デザイン事務所に入って。
農協牛乳とかのパッケージとかねやったの。いわゆる弟子に入ったようなものだから。三角定規洗ったり、ロットリング洗ったり。師匠が作業している横に立って
、「ロットリング!」って言ったらさっと渡して。そんなの今も大好き。その後は、
象印のロゴやったりね。
横尾忠則さんとか
和田誠さんとかイラストレーターの人って必ずグラフィックデザイナーとしても表記されるから、イラストレーターやってる=グラフィックデザイナーやってるっていう意識だったんですよ。でも実質的に言えばイラストは描いてなかったから、読者だよりの挿絵とか描かせてもらったり。得意でもない点描でえんぴつとかね。ほんとに楽しかった。
・その時はまったく今の「安斎肇タッチ」は出来てないんですね。
そう、全然。うちは
親父が肖像画家だったんで、いわゆる
リアルに関しては一目あった。
・じゃそのDNAは受け継がれているんですかね?
まったくリアルなものは好きじゃないし、それよりも
頭の中にある奇妙な生き物を描いてたほうが気持ちよかったから。だからそれを描きたいために親父にリアルなものも描けるんだぞっていう基本を見せないといけなかった。見たものを描けないと想像したものなんか描けないんで。一生懸命リアルやってたんですよ。クロッキーとか凄い好きですよ。ぼーっとしてる時とは描いてますよ。
・初めての職場はどれくらい続きましたか?
僕はほとんど3年ですね。3年やって失恋して、
恋も3年で終わって。最後の1年は抜け殻のように働いていたんだけど、友だちにめちゃめちゃナチュラリストがいたんですよ。そいつとカナダに行ってだんだん気持ちが変わってきて。
このままでは地球は壊れてしまうぞ、なんて。自分たちがちゃんと生きるためには自分たちでちゃんとしないといけないって。その友だちには、雪山に自分で家を建てて、自給自足で生活している人がいるんですよ。雪の間はロッジとして、夏は畑耕して生活している。あっちこっち旅行をして家族で住んでいる。いやーもう理想的じゃないですか。これだって!思って仕事を辞めたいって話をして、俺もこれからも自然の中に生きようって思って行ったらめちゃくちゃ暖冬で。
・すごいオチだなぁー。

雪の降らない雪山のイメージ図
一番人でのほしい冬が暖冬でロッジのお客さんが1組くらいしか来なかった。あまりに来ないんで、ロッジ建てたおやじは出稼ぎに行ったんです。奥さんと子供とアルバイトの俺を置いて。急に何の音もしない山の中に残されて。雪って音を消すから、何にも音がしなくってにぎやかなはずの雪世界が、雪もフケくらいしか降らなくって。それを見てたら悲しくなっちゃって。2日くらい夕暮れになると雪見ながら泣いてましたよ。グラフィックーツアースーパーマケットやってたやつが、ちょっと人手が足りない。
レコードジャケットがやりたいって言ってたよなと。言お前はだいたいったっけなーって。お前がいないと始まらないから、社長に全部話ししてあるから来いって言われて。毎日泣いててもしょうがないって思ってね。だってその年のまきは全部割っちゃったんだもの。(笑)そのまんまレコード会社やるのもいいなって山を降りて来たんですけど。実質、デザイナー2人だったんで。渡辺プロダクション系のSMSレコードデザイン室っていうところだった。
桑江知子の「私のハートはストップモーション」(カネボウCMソング)で当たったものだから勢いついて小柳ルミ子とか出したり。
僕はその中でとにかくロックをやりたい。レコードジャケットをやりたかったんだけど何でも良いわけじゃなかったんですよ。変なプライドがあって。ロックがやりたいって思ったけど話が違うと思ったけど、営業がやってるチラシとか看板とかついたてとかチケットとかの小さい仕事ばっかり一生懸命やったの。
そしたらちっちゃい仕事も一生懸命やると目立つんだよね。今までは営業の人が手書きのコピーでやってたようなチラシをちゃんとデザインしてやると凄い喜ばれる。チケットもイラスト入りにしてあげるし、もういいよっていうくらい
Too Muchなものをやってあげた。

桑江知子の「私のハートはストップモーション」
※渡辺プロダクションってこんなとこ
http://www.watanabe-group.com/
・その時にはもう安斎タッチが出てきてますか?
いや、まだまだ。
西海岸最高みたいなの。やしの木が飛んでるような。80年になるぎりぎりあたり。1983年にフリーになってるんですよ、たぶん。

「西海岸最高みたいなの」イメージ図
・「パープルレイン」の大ブレイク前あたりですね。
そう、
プリンスで言うとね。もともとメインのことをやるのが好きじゃなくて。なんか恥ずかしいんですよ。いろいろやりたいことはあるんだけど。「俺に、ジャケットデザインやらせてくれよ」って言うのがすごい恥ずかしいから。いつも友だちにやらせて、後ろでこっち方がかっこいいよって、全部後ろで糸をひいてるみたいなのが好きなんですよ。SMSの時もすごい会社を救ったんですよ。
志村けんと加藤茶のイラストを描いて来いって社長に言われて。俺ははなから描いて来いって言われたら描かないから、友だちにメインに描かせて、俺は2人をペンギン化して描く。そしたら落ちるじゃないですか。友だちは正直に似顔絵を描いてきてそれがジャケットになって、
俺は後ろジャケットにヒゲのおまけつきっていうのをやった。ジャケットを切ってまるめるとヒゲダンスのヒゲになって、あと蝶ネクタイになるのを裏につけたんですよ。
ダ、ダ、ダ、ダ、ダンダンって歌詞ないから歌詞カードもつけれないじゃん。はじめて褒められた。「そんなおまけは子供は絶対喜ぶしね、子供が作ってみんなが遊んだらいい。しかも、ひとつっていうのがいい。子供は兄弟がいたら2枚買う。1枚しか売れないところ2枚買ってくれる。」ってね。ヒゲも1枚でペロっていうのは誰でも考えるから、2枚にして盛り上げて本物のひげみたいにしたんですよ。

「ひげダンス」ジャケ写 右端にはおまけつきの文字が。
プリンスの「パープルレイン」は1984年
・すごいアイデアですね。意図的にやったんですか?
ううん、全然。(笑)だって、1枚に描ききれなかったんだもん。(笑)
・僕それ、持ってますよ。小学生2年当時は買えなかったけど。セロテープにマッキー極太で黒く塗ってヒゲにして口元に貼ってました。今、僕は東村山市民ですし。
ちきしょう!商売がたきだなぁ!(笑)
その頃、野球を一生懸命やってました。渡辺プロダクションの野球大会。渡辺プロダクションの中でも赤字で弱小な会社だったんで、野球でめだってやろうと思って。一番で、左うちになり、その頃は足が速かったので。
野球大会の盗塁王と三振王を両方持ってますよ、二年連続で。今もバッティングセンターたまーに行くけど。
・サッカファンの前に、野球されてたんですね。ぼくは、幼い頃は、近鉄バファローズファンで。
中西だ!
・そう、太(ふとし)っすね。バファローズキャップのデザインをした岡本太郎ファンで、あのキャップをかぶりたいために野球始めたんですよ。
へぇー!ほんと、そうなんだ。あれは、それこそ言ってみれば
アメリカンフットボールみたいなデザインで凄いかっこ良さがあった。すっかり顔が赤くなってきましたけど写真大丈夫ですかね?(と、カメラマンに気を使って)
・いよいよ83年、フリーへの道ですね。
長いね、今日は。辞める勇気はそんないらなかったんですけど。どっちかって言ったらその後の方が勇気いりましたね、一人でやっていくっていうのは。その頃は30歳前、29かなぁ。みんな会社変わった時には良いポジションに入っているから。
・いろいろ考える時期ですよね。サッカーで言うと中田hideと同じですよ。決断の時ですね。
あ、そうか。ひとつだけ、主張しないといけないということに対して今まで以上に勇気がいったけど。それ以外のものはめちゃくちゃ楽しかったですからね。あらゆる意味で楽だったし。
湯村輝彦さんが大好きで何かある度によく行ってたんですよ。湯村さんに、このままレコード会社で仕事していた方がいいでしょうか?って聞いたらね。「
安斎くんはねぇ、辞めてねフリーでやっていったほうがいいよね。」って言われたんですよ。へえー、湯村さんこんなこと言ってくれるんだって嬉しくて。じゃ、ぼく辞めますって。友だちのカメラマンの飯島薫はすごく心配してくれて。飯島はうちのアシスタント、電話番に来ない?って誘われたんですよ。で、電話番をして、安斎くんは部屋代いらないからって。西麻布のおしゃれなところで。交差点近くの
レッドシューズとか入ってるビルで。狭くてそれこそ10畳もないとこで。撮影スペースがいるからって言われて、これだけスペースいるからって。機材をここに置くからって。安斎くんは、自分の作業テーブルをデザインしなよって言われて。デザインしたのはこれくらい(80センチくらい)の幅だったんですよ。電話を置いて、作業できるっていうのを最大でとってやったらこれくらいの幅で。めちゃめちゃ不便で。バーのカウンターくらいしかないんだよ。当時は版下だから、版下が曲がって壁にずるずるずる〜ってなって窓の外に出たりしてたの。そんなんで仕事してたけど楽しかったなぁ。なんかすんごいめちゃめちゃフリーでやっていくことに燃えだしてきて。ひとつひとつ一生懸命やりたくなったんですよ。
留守番電話はあるじゃないですか。あれを、ちょっと声色使ってやったり、人のモノマネでやったりしたんですよ。そのうち
沼田元気って人がいろいろアシスタントを連れてきたの。で、アシスタントとかけあいで留守番電話を入れたり。だんだんアバンギャルドになっていって、もしもしもしもしって不機嫌な出方をして急に平謝りになったりとか。そういうコント系のことやったりとか、落語やったりとか。出囃子をどうするとか音楽をどうするとか、歌うたいながらやるとか。毎日そういうのを帰る間際に1時間くらいかけてやってたんですよ。ある時、飯島が「
安斎くん、留守番電話がすごく不評で、俺の仕事が減ってるんだけど。」って言われて。その時やったことで。飯島くんが趣味で買った16ミリカメラがあって。壊れていて撮ったつもりが全部黒味になっちゃってて。だめだなぁ、って。でもこれひっかいたら絵が描けるよって言われて。針で引っかいたら白く絵が抜けるんですよ。そんなのやったりしたのが、
立花ハジメっていう人が気に入ってくれて。プロモーションビデオに使ってくれたり。NHKのタイトルに使ってくれたり。へんなアバンギャルドなことがしたくて、ダンボール切ったりして。それをかぶったりして音楽にあわせて踊ったりして、それを見た人にパフォーマンスで呼ばれたりしたりね、インチキなことしてて楽しかったですね。
・それは、メインから外れていくっていう安斎さんの法則なんですかね。
いまだに
本職じゃない人がやってることが好きなんですよね、なんか。そういうのって別に遊びでとか、クオリティーではない。
・そういう遊びがコネクションを広げていったんでしょ?
当時はそこでどんどん友だちが出来ていってその友だちが仕事をくれて。宝島の関川くんだったり、渡辺祐(たすく)だったり。全然たいしたデザインしていたわけではないけど面白がってもらえてた。立花さんに
YMOのツアーパンフのデザインいっしょにやらないって言われたり。
・凄いなぁ。その当時はそういうつながりがすぐにカルチャーになっていった時代ですよね。
責任持ってた、それぞれ。ちょっとしょってんじゃないのっていうくらい。自信過剰なまでの自信。今だったら鼻持ちならないようなやつらがっかりですよ。面白かったよ。漫画トラっていうのをやるようになって。漫画に音が入ってるの。湯村さんところに行ったら、「安斎くんね、俺フリーになれなんて言ってないよぉ〜。」って言われて。「安斎くんはレコード会社にいるから安斎くんなんだよ。レコード会社にいて俺に仕事をくれるから安斎くんなんだよ。なんでフリーになっちゃったの?!」って。だって、フリーになったほうがいいって言ったじゃないですかって。「いや、フリーっていうのは、そういうフリーじゃなくて、レコード会社の仕事もするフリー。」で湯村さん何をしますって言ったら、杉浦茂(宇宙や戦艦漫画で有名な大御所)さんの漫画が大好きだから杉浦さんに会ってみたいって、湯村さんが言ったんですよ。その杉浦茂さんの漫画を載せて、湯村さんが杉浦さんに会いに行くのをドキュメンタリーでやっていい?ってことになって。湯村さんとタラさんを連れて、音をとりながらやりましたね。それは今じゃ杉浦さんもいないし感謝されてますね。

湯村輝彦さんってこんなジャケされてます。

こんなのも
(ここで取材をいったん切り上げて、純情商店街へ撮影へ。撮影終了後、焼き鳥屋からデザイナー杉山さんの事務所へ移動して後半戦再開。コンビニで安斎さんが好きなキリンクラシックラガーを買ってきました。)
・では、続きをお願いします。29歳くらいまで行きました。
まだ29歳かよ!
・どんな30歳代でしたか?ぼくは今34歳ですけど。
あんまり年で考えたことないんですけど。
・それが、安斎さんが若い秘訣なんじゃないですか?
すっごいおじいさんみたいじゃないですか、俺。
・ハハハッ。今、52歳でしょ?40すぎくらいかと思ってましたよ。
待ってくださいよ。同じだって!だって、40も50も同じだと思いません??!!
それこそ一番いろんな先のことを考えた中学のころ、15、6歳。40、50歳はあたりまえにじじいですよ。30だってそうだよ。
・僕が34歳で安斎さんが53歳。20歳くらい違うじゃないですか。後20年先のこと考えられないですもん。
いや、逆にうらやましいですよ、めちゃくちゃ。僕これから20年だと70やんか!ねぇ、やんかって。やんかがでることもないですけど、自分のこと思ったら、これから何ができるかって思ったらね、それほど欲張ったことは出来ないでしょうね。でも、30から20年なんて、僕のほとんどの、例えば。自分で客観的にその、評価というか、客観的に自分を紹介する時に一番メインにみせたいと思っているのは
30歳代の仕事ですよ。30から40歳にかけての仕事。リゾッチャもそうだし、デザイン的なものもそうだし。
レコードコレクターズっていうのは、僕にしてみたら元の
ミュージックマガジンっていうのがあって。その中村とうようさんがやってたミュージックマガジンっていうのは、ミュージックマガジンのデザインっていうコーナーがあって、そのコーナーで2回だけ出たことがあったんですよ。僕の目標はそのデザインのコーナーに自分のやったジャケットが取り上げられるってことだったんですよ。それをある程度ね、2回だけでもとりあげられて、すごい嬉しくて。そのミュージックマガジンから派生したマニアなレコードコレクターズに関してはすごく尊敬というか自分の中では音楽に関わる中では一番の高みだと思っていた。で、その雑誌の表紙をやることになったので、自分で100冊やろうと。1冊でもいいから結果を出そうと思ってやったんですよ。そんなこと決めなくていいのに。あの時期は僕の中で円熟期であったような気がしていて。一発しかなかった頃の、一発に勝負をかけてた頃の30歳代のデザイン、イラストはヘタだけどなんか怖いものがありますよ。
レコードコレクターズってこれ。
・その頃はたくさんほかの仕事もされていたんでしょ?
いや、そんなに。僕は仕事も遅いし、人つきあいもうまく出来ないので。そんなに思うほど忙しくはなかったと思うんですけどね。
当時は誰もが知っていたリゾッチャのキャラクター
・NHKのjust pop upのロゴもそうですよね。観ていましたけど、インパクトありましたよ。フリッパーズギターとか岡村靖幸とかとがったアーティストもたくさん出てましたよね。
あれは、アートディレクションから全部やっていましたからね。だってひどかったんだから。当時、僕の中では育ってくるかんじが自分で分かっていた。すごく見栄を張って、このままでは日本のデザイン界がだめになるぞっていうきばったかんじの、余分な力が入りまくった時期と、まったくもう
デザインというのは「美しさ」ではなくて「意味」だって思いだして来た時期があって。「意味」を考えだした時期と今のようにデザインは楽しくなければデザインじゃないと思ってる時期があって。タイミングによっていろいろ来るんです。その中で一番しょってた時期がjust pop upですね。「
NHKの番組全部つまんないですよ。」ってNHKの前で言ったの。なにも美しいものはないし、NHKにロックを紹介することは無理だって。だから海外からもらった番組をどんどん流したほうがいいですよって。そういうのも出来なくて日本の歌謡曲流しても意味ないでしょって。結局事務所が勝ってるだけの話で。事務所が同じでタレントが変わってるだけだから。意味ないからやめたほうがいいですよって言って、もうその日でNHKとは関わらないどおこうと思ったら、めちゃめちゃ気に入られちゃって。
・NHKになかなかそういう風に言う人もいないんじゃないですか。
そんな失礼な人いないでしょ?(笑)で、だったらやってくださいよって。just pop upのシステムを変えてね。楽屋から、NHK着いた時の札があるじゃないですか。ああいうのも出しなさいと。楽屋のケータリングから、音が出せるようにしたり。撮影と撮影の空き時間のケアとかも全部しなさいって。理想的な形にもっていけるように。ジングルを作って。どんどん自分の首を絞めていったんですけどね。
・すごい!デザイナーを超えたプロデューサーですよね。
当時ね、いくつかのロックアーティストをかかえている事務所のやつらと凄く一生懸命HNKを変えようってやったけど、でもね、凄い残念なことにロック自体が力が落ちていてね。唯一できなかったのは、テレビのそのもののシステムの中で、台本っていうのをもっと自由に、
フリートークみたいにしてインタビューみたいに作りこみするのは出来なかった。すごく普通のものになった。フリッパーズギターとか当時はすごい難しいアーティストの方々に出てもらうこともできたし、それこそ名前はないけど才能をもった人たちの音楽を流すことがもっとできたらよかったのに。もっとたくさんできることはあったのに。
でもそれは、何よりも本当の意味でテレビのことを知らなかったからかなって、今思えばね。本当に知っていたらそんなやつらも巻き込んでねやれたら面白しろかったのにね。
※YouTubeで観てみよう!ハガキのあて先や背景イラストも安斎さんによる。http://www.youtube.com/watch?v=7whS3huMMlU&mode=related&search=
・タモリ倶楽部に対してはそういう発言はしないんですか?
うん、まったく。(笑)ある訳ないじゃないですか。30歳の後半になって、タモリ倶楽部は40歳になってたかもしれないな。
・タレント的なポジションでテレビに出られるようになったのはタモリ倶楽部からですか?
う〜ん、えっとね。その前に、えっとね。何だっけなぁ。ヒットスタジオじゃないや何とかヒットっていう深夜番組がTBSであって。あんまり具体的に言うとあれだけど、全然面白くなくって。
ナース井出さんとかいろいろがんばってたんだけど。番組が終わる頃になって、お前らのせいだみたいな言い方されてさ。最高にテレビっていやな世界だなって思ってたんですよ。NHKやった時はすごく希望に燃えていたんだけど、深夜のその番組でモチベーションがさがって、やりたくない状況でタモリ倶楽部に入ったんですよ。最初は、タレント的なポジションは大嫌いだったからデザイナーとしてやってたんだけど、
タモリ倶楽部に出る段階でそんなこと言ってもしょうがないじゃんって。観られるようにしか観られないしね。空耳でいいじゃないって。
・最初は、「空耳アワー」っていう名前のコーナーじゃなかったんでしょ?
そうなんですよ。「
あなたにも音楽を」っていう。いろんなものにもテーマ音楽があると。電信柱にもどんなものにも。それに途中から出て、小岩駅を写しながら、「小岩、私の小岩〜」ってピンキーとキラーズが流れるみたいな。ボキャブラに近いようなのだった。それと、クイーンのがんばれとか、アース・ウィンド&ファイヤーの青森県みたいなのをやって。そしたらそっちばっかり応募があって。画期的にそっちの方向に言って、でいつのまにか空耳アワーになったの。
・で、いつのまにか「ソラミミスト」ということですね。
あの番組は構成作家かいてディレクターがいて、それこそすごい何人ももアイデアでやってる番組だから、僕が参加したときはすでに企画もいろいろ決まっていたし、空耳アワーのタイトルに変わりますって言われて、安斎さん、肩書きはどうしましょうって。その前の「
テーマ音楽評論家」でいいですよねって言われて。やめてって。それはすごく誤解されやすいネーミングだから。仕事頼まれて困ったこともあったし。もっとあやふやなものにしたいんで、「
ソラミミスト」にしてもいいかなって。そしたらディレクターが「それはちょっと〜、わけ分からないっすな。」実質のあるものより訳わからないもののほうがいいからって、そうしてもらったの。それだけから自分で言ったのは。
・それが、今となっては世間では空耳のおじさんですよ。
こんな事態に人生がなるとは思わないでしょ?一所懸命デザインがんばってきてさ、イラストレーターとしてもがんばってきてさ。結局世間は空耳の人だからね。
※それでは、安斎さんの出世テレビ番組を観てみましょう。あれ、いない?!http://www.youtube.com/watch?v=qdrxgbpAB3I
・それも良しってかんじですか?
良しっていうか、もう認めざるを得ないでしょ。いくら抵抗しても意味がないじゃないですか。お前が犯人だって言われているんだから、私が犯人ですって言うしかないよね。
やってませんって言ってもね、やっちゃってるしね。
・逆ジョンベネのカー容疑者の心境ですか。(笑)
実はやってなかったカー容疑者!
カー容疑者もいいかげんだよなぁ。無実だって分かりつつああいうことする人づるいよね。だからあんなに堂々としてたんだよね。どこかで一瞬、ほんとうに犯人にされちゃうかもって、でも俺やってないからみたいな。
でもロリコンであることには変わりないっていうね。
あれは発表の場としては最高ですよね。あの人どこに行っても「
かわいい子入りましたよ!」って言われるもんね。あの世界の中では3本の指に入るでしょ。
もう、SHOW-OFFの連載とか頼んだほうがいいんじゃない?!
・メールでねって、俺も捕まってしまいそうじゃないですか!
タレントっていうのは才能のことであまりある才能のある人で、なんでも対応できるっていう意味だったわけでしょ。もうソラミミストって呼ばれていいやってかんじかな。
いまだに表に立つことがいやですもん。できれば後ろで仕事することがいいな。それこそ前にでてものを言うことが、僕の友だちがそうだからそう思われているけど。いわゆる、ちゃんと自分の意見がある人じゃないといけないと思うんですよ。僕、ないもん。意見は聞かれればあるよ。もともと何かがしたいっていう強い意思があるわけじゃないですか。例えばみうら(じゅんさん)みたいに
日本の常識を変えるまでの勢いっていうのは僕にはないわけだから。ただたんに、いっしょに仕事をしているからそういうイメージがあるかもしれないけど。僕自身はまったくないですよ。ないことに対して悪いと思っていない意識の低さみたいなのはよくないけど、ないことに対して全然悪いと思ってないし。実際は、ないわけじゃないからね。僕はものを作るっていうことで表現をするだけで。その表現は、もともとものを作られてくれた人が持っているものだとしてもそれをきちんと見せてあげたり、きちんと形にしてあげたりすることがすごく大事なことで、それをやってくれる人がいないから、
すごくゆがんだ伝わり方をしちゃうから、なんだか分からないけどものを
マイナーだとかメジャーだとか言ってみたりするじゃないですか。あんなのただ単に気の使い方だけじゃないですか。メジャーとマイナーと呼ばれるもののさがあるじゃないですか、
表現の違いだけだと思うんですよね。
・出会いによってデザインする意味が変わってきたとおっしゃってましたけど、今は楽しくなければデザインでないって気持ちですか?
面白くなければ伝わらないっていうのを、みうらじゅんって言う人に教えてもらった。すごくそうだと思う。実際そういう風になってるじゃない。バラエティーでなければ通じないみたいなところがテレビだとあるじゃないですか、良くないことだと思うけど。シリアスはシリアスに訴えてほしいじゃないですか。みうらは、シリアスなものはシリアスでなきゃいやだとも言っている訳で。そいうことに共感してものをいっしょに作っていくっていう楽しみがすごいありますよね。
・10年、20年先にそのかんじって変わってくると思います?
このかんじは、もっとレイドバックすれば面白くなると思っているの。ほんとだったら、
線一本引いて人が笑ってくれたらいいんだ。それが理想で。デザインもすごい凝ったものが好きなんですよ。本当はそんな展覧会とかやりたいんだけど、実際できないからね。お金も時間もかかるから。そんなのがすってできたらいいなって。デザインは複雑なものを見せれたらいいし、いろんな感情を込めたいし、絵を描くときはもっとストレートにしたいなって思ってるんですけどね。
・みうらさんとの最初の出会いってどんなのだったのですか?
みうらくんとはね、
野沢直子ちゃんの誕生日パーティーで西麻布のクラブで。いろんな浮かれている人たちの中で妙にはじけだされたかんじで、俺とみうらくんがいたの。他に友だちがいなかったのと、華やかな雰囲気になじめなくて。そしたら向こうから友だちになってくださいって近づいて来て。で、飲みながら立ち話していて。安斎さん、ロック好きですよねみたいなロック話になって。だいたいこのパーティーロックじゃないですよねみたいな会話になって。そのうち、話しているかんじが漫才みたいになってきて、こんなとこに
エリック・クラプトン来ないちゅうねん!こんなとこに
ジョージ・ハリソンいたら大ゲンカや!みたいな。(笑)そういうロックネタで漫才を2人でずっとしていて、そのうち、盛り上がって来て、ソファーに座っている人たちがいて、その人たちの前でやって。ちょっと面白いねって言い合って、そのうちまた飲もうねって。それから毎日のように飲むようになっちゃって。こんなに10代のころの話を面白がってくれるやつもいないし。ひさびさに高校の時に戻ったみたいで。すごいインパクトありましたね。でも最初はね、言い方悪いかもしれないけど、みうらに言わせれば、
俺はおしゃればデザイナーさんだったから。余計なことをすると。いわゆるちゃんと面白いものをおしゃれに変えてしまうと。面白くなくしてしまう人だと、みうらからすると。僕も実際はそうは思ってはないけれども、でもものを伝えるときにはある程度のビジュアル的なクオリティー、美意識は必要じゃない?っていう思いだったから、最初のうちは、みうらくんに仕事頼まれてやったときは、何度か
衝突はしてますよ。
みうらじゅんさん&安斎肇さん
勝手に観光協会のジャケ
・へぇー、そうなんですか。それは2人のキャラクターからすると意外ですね。
でもみうらは、正しいことはちゃんと説得できる人だから。ぼくは、絵を見せてね、こっちがいいでしょとしか言えない人だから。そこにはちゃんとしたロジックはないからさ。みうらは、その当時からそういうのがちゃんとあって、
プロデュース能力は。実際、デザインを見せてかっこいいねって言われるより、大笑いされるほうが快感になってくるんですよね、俺は。その中にちゃんとしみるかっ良さがあればいいと思う。
・今の安斎さんのスタイルが出来たのっていつごろですか?
確立してない。(笑)おごった言い方をすると、デザイナーってひとつのテーマで大げさに言えば、100種類くらいデザインをみせないといけないんですよ。その中で今回、10とか1とか2とかにしぼる作業じゃないですか。僕はスタイルはないですよ。イラストにはあるけ。イラストレーションはスタイルがないと話にならないけど。その問題が僕の中ですごいジレンマでもある。お題や素材があったときにいろんなイメージがわくけれど、イメージを主張することが出来ない。イメージを作ることはデザインの仕事。イラストレーターはそれを主張する作業だから。主張するっていうことが身につくまではちょっと大変だった。
・安斎さんが影響受けた人って誰ですか?
湯村輝彦さんに心酔してからは一途ですね。いまだに湯村さんだな。音楽は、何人かいるんですけど、1人って言われたら
ライ・クーダーなんですよね。ぼくからすると湯村さんは、これは言ったらいけないのかもしれないけど最初僕が見たときは、河村要助さんとほぼ同じいっしょだったんですよ。でタッチが似ているので今のタッチに変えたんです。それで今の
ヘタウマって言う世界を作ったんです。そこには、絵を描く情熱が強くあって、その情熱が全てで。思いがほとばしりすぎて思わず描いてしまうんだっていうのが最高の絵であると。技術ではなくて情熱があるかどうかだっていう心情にとても共感し、湯村さんはグラフィックデザイナーでもあって、日本の中でもそうとう、一番好きかもしれない。すごくいろんな意味で絵もデザインも生活スタイルも好きですね。新宿の猥雑な中に、白亜のコンクリートの要塞みたいなのがあって。そこに南国の木が2本空高くそびえたっていて。階段を上がっていくと「
タランチュラに注意」って書いてあるの。(笑)扉をあけるとプーンとなんともいい香りがしてきて、靴は脱ぐんだけど、湯村さんは当時、バスケットシューズを履いていて。家具は全部白で、そこに赤いライトとか赤い家具がポイントポイントにあって。
真っ白なシャツに真っ黒な湯村さんが出てきて、「会いたかったんだよ。」って握手されて。筋骨隆々ですよ、まゆげのない長髪で。(笑)ずっと
ソウルミュージックがかかっててもうすんごいですよ〜。好ききらいがあるかもしれないけど、ここまでの美意識があるのはすごい。で、キュキュキュキュってマジックで絵を描いてくれて。あ、これでいいですよって言ったら。もうちょっと描くよ。キュキュキュキュキューッって。いやー、
抱かれてもいいなって思った。
・ライ・クーダーはどうですか?
音楽の探求者で、それこそ、古きよき伝統音楽。音楽家たちを訪ねていって、その音楽家から吸収したものを今によみがえらせていくみたいなことをやっていて。あの人の
不器用さがすごく好きで。自分は譜面も読めないし自分自身は音楽に対して造詣がないから、不器用な人が一生懸命やっているものに感銘を受ける。その共感をする部分と、
スライドギター、ボトルネックという奏法が音楽の中で特別に好きですね。
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・ボトルネック奏法のCMもありましたよね。
なんというの、弦が触れる音とか、弦を放してボトルがこすれる音とかああいうの聞くと無性に悲しくなるんですよね。
・僕は、落ち込んだとき、部屋を真っ暗にして「パリ・テキサス」(ヴィム・ベンダース監督)のサントラを大音量でかけたりしますよ。
キュルキュルキュル、ドーンって。それもどうかと思うけど〜。(笑)
・いいじゃないですか!ほっといてくださいよ!(笑)
「パリ・テキサス」サントラジャケ
彼女ができるとライ・クーダーを聞かせるっていうのが常ですね。ライ・クーダー聞いていいねって言う子じゃないと本気になれないっていうか。なんかヘタねとか、もうちょっときれいな音楽が好きとか、素朴すぎとか言われるとね〜。今はキューバ音楽にいっちゃってますけど、ライ・クーダーには早くボトル・ネックの世界に戻ってきてほしいんですけどね。もうああいうのはやりたくないんだろうな。くやしいな。
・ライ・クーダーは、プリンスとまったく対極ですね。
うん、まったく逆ね。
プリンスは天才ですからね。しかも完璧主義じゃないですか。そういう意味ではまったく対極にいる人で、だから好きなんですよ。人は、やっぱ、なんて言うのかな。溢れんばかりの才能のために世の中から外れてしまって笑いものになるくらいじゃないとだめなのかな〜。ねぇ。いまだに音の配置とかかっこいいですよね。
・こないだのアルバム「3121」はほんとうにかっこいい。しかもアルバムまるごと何回も聴けますね。全曲いい。
僕も、僕も。やられたなぁ、ねぇ。ベストアルバムは、聴いた曲ってこともあってもうBGMになってきてるじゃないですか。こないだのアルバムはかっこよかったなぁ〜。
プリンス最新アルバム「3121」
http://www.amazon.co.jp/%30a2%30eb%30c6%30a3%30e1%30a4%30c8%30fb%30d9%30b9%30c8/dp/B000EIF8Y6/sr=1-1/qid=1157557776/ref=sr_1_1/249-2418057-6903505?ie=UTF8&s=music
アマゾンでベスト盤は購入可能です!
プリンスのベスト盤は12インチシングルがたっぷり聴ける
・プリンスの動きがあればまたトークショーやりたいですね。
離婚しちゃったしねぇ〜。
・じゃ、最後に高円寺の若者たちに良きアドバイスをお願いします。
僕のね、僕の世代というか、
僕の中では中央線というのはすごく特別なものなのね。それは、たとえば高円寺じゃないよね、って
吉田拓郎が歌ったように。僕がラジオにハガキ出して観に行ったコンサートで言うと武蔵野系の人たち、
高田渡さんにしても。いっぱいこの中央線沿線に、中川さんも、いたわけですよ。僕はたまたま池袋の東武東上線っていうところに生まれてしまって。雑多なやぼなところで育っちゃったもんだから、やっぱりたとえ同じようにラジオを聴いていても、中央線のイメージを歌った歌とかあるけど、すごく結びつかないものとかたくさんあった。渋谷で桑沢デザインに入ったら、すごく中央線沿線に住んでるやつらがいっぱいいて。
阿佐ヶ谷、高円寺、吉祥寺、三鷹、立川、福生とかいて。実際、福生というとこでワークショップ“MU”とかでいうはっぴーえんどとかのジャケットを作った集団がいて、そので細野さんの「
HOSONO HOUSE」があって。日本の音楽のルーツは中央線の奥にあるっていう意識が僕の中ですごくある。それははっきりしている。音楽の系譜が。そういう沿線ってないんだ、ほかに。湘南のほうで
桑田圭祐って言われても全然ぴんと来ないじゃないですか。まあ、比較するの良くないね。中央線というのは伝統とこういうカルチャーの中で、音楽、絵、漫画もそうだし、いろんな役割をしている場所で僕にとってはコンプレックスがある場所なんです。この場所に友だちもいるけど、なかなか踏み込めない。僕、中野までは来れるようになったの。サンプラザとかあってまだ来やすい。中野から先、
高円寺からはいまだに違う意識になるんだ。そういう意味ではそこに住んでるっていうその場所の歴史を考えたらすごく力が出てくると思うんですよ。ちょっと歴史の上に立ってその歴史を踏襲することがないけれど、そこからまた新しいことを作るのにエネルギーもいるだろうし。大変なことだろうと思うけど、たぶん受け入れてる体制は街には整っているから、ここからはじめてもらったら嬉しいな。僕は今神奈川だけど、遠い福生からものが生まれたっていまだに思ってるし。絶対にそういう土壌に生活しているというのはとても大きいことだよね。
・9月の9、10日と狭山でハイドパークフェスがありますね。去年は細野さんがHOSONO HOUSEほとんどまるごとやりましたよ。あがた森魚さんとか加藤和彦さんとかも出ますよ。
ええー!あっそう。いいねー。僕の中では加藤和彦はヒーローなんだ。加藤和彦っていうのは京都の人ってかんじがあるね。
・みうらじゅんさんといっしょですね。
信用できないんだよね。うひひひっ。それは冗談なんですけど。若い頃ものを作るには環境って絶対大事だよね。そういう良い環境にいたほうが絶対得だよね。
※今年もハイドパークフェスは開催!!
http://hmf-sayama.jp/
・これからやっておきたい仕事ってありますか?
もういかにも死んじゃいそうな人みたいに。余命いくばくもない人に最後のインタビューみたいじゃないですか!(笑)
・そうなってもいいように、一応僕も人を選んで取材やってますから。
やりたいことは、めちゃめちゃありますよ。僕今、
新しいバンドやろうとしてる。
・ええ!チョコベビーズ以外に!やる気マンマンじゃないですか〜。
あとは、イラストではなくて
アニメーションを作りたくてそっちをやってますね。それと、ひとつマスターしたいって思って、ボトルネックギターをやろうと。それで年とったらギター1本持って地方を旅してね。
ブルーズマンみたいな生活をしたいな。ブル〜ズマン。最終的にはそれが目標ですね。そこでも自分のキャラクターのTシャツ売ってたりしてね。すごいせこいんだけどね。
・そのときは、僕が売り子しますよ。(笑)
東村山に行ったときはよろしくお願いします〜。
【プロフィール】
安齋 肇(あんざい はじめ)
1953年12月21日
東京池袋生まれ 神奈川在住
イラストレーター、デザイナー
桑沢デザイン研究所デザイン科終了後、麹谷・入江デザイン室(1976〜1979)、
SMSレコードデザイン室(1978〜1982)を経てフリー。デザイナーとして、CDジャケットやツアーパンフレットなど音楽に関するデザインのほか、装丁を手掛ける。イラストレーターとしてはキャンペーンやイベントのキャラクターデザイン、雑誌連載を通し活躍している。また、ミュージックビデオの監督、CM出演・ナレーション、アニメーションタイトル作成、個展・グループ展、など広く活動している。1992年よりTV朝日系「タモリ倶楽部」のコーナー“空耳アワー” にてソラミミストとして出演中。1998年、CM・ナレーション部門のマネージメント・オフィスとして、「ワン・ツゥ・スリー」を村松利史、温水洋一らと設立、所属。
ワン・ツゥ・スリー
http://www.office-123.com/anzai.html
【主なCM出演 】
MMCコーヒー「コーヒー飲ませ隊」(1994)
中古車「ガリバー」(1997)
丸大食品「燻製屋陶芸篇」
【主なCMナレーション】
秋葉原電気まつり「カモとカニ編」
富士通「MO」(1996)
日清「ラー坊」 セガ「サタコレ」(1997)
カルビー「サッポロつぶつぶポテト」
味の素「BLENDY」(1998〜)
JR東日本「TRAING渋滞編」
東芝「燃料電池発電」(1998)
SONYプレイステーション
「ENIXいただきストリートゴージャスキング」(1998)
ゼブラ「なかよしゼブラ」(1999)
ジャストシステム「一太郎11」(2001)
ファミリーマート(2001〜)
キリンビール「グリーンラベル」(2002)
佐川急便(2002)
【主なTV出演 / レギュラー】
TBS系「オフィスヒット」(1988.4〜1989.3)
TV朝日系「タモリ倶楽部」空耳アワー(1992.4〜)
NHK衛星「ジャスト・ライブ」(1993.4〜9)
【主なCDジャケットデザイン / アート・ディレクション】
「RESOCHA」(1996/SONY)
「RESOCHA2」(1997/東芝EMI)
スチャダラパー「偶然のアルバム」(1996/東芝EMI)
デキシード・ザ・エモンズ「ROYAL LOUGE」(1997/Epic Sony Record)
【主なツアーパンフレットデザイン】
奥田民生(1995〜1998)
UNICORN(1989〜1993)
THE CHECKERS(1984、1987、1989、1991)
BARBEE BOYS(1987〜1990、1992)
【主な装丁】
高見映著 「ノッポさんがしゃべった日」(1991/丸善メイツ)
いとうせいこう・みうらじゅん著 「見仏記」「秘見仏記」(1993、1995/中央公論社)「見仏記 海外編」(1998/角川書店)
ジョン・W・デュフィ著/渡瀬ひとみ訳 「プリンス[1958-1994]」(1994/宝島社)
ローリー寺西著 「不思議の国のローリー」(1995/ソニーマガジンズ)
みうらじゅん著 「お堂で逢いましょう」(1995/弘済出版社)
高橋洋二著 「10点さしあげる」(1996/大栄出版)
しりあがり寿・西家ヒバリ著 「いっしょぐらし!」(1996/KOEI)
スチャダラパー著 「スチャダラゼミ」(1997/角川書店)
マイケル・ブラウン著/奥田祐二訳 「抱きしめたい ビートルズ’63」(1998/アスペクト)
近田春夫著 「考えるヒット」(1998/文芸春秋)
【主なキャラクターデザイン】
JAL「大平洋楽園計画・リゾッチャ」(1994)
テレビ朝日「秋のイベント」(1995)
AAA「奇跡の地球」エイズキャンペーン(1995)
弘済出版「タビダチくん」(1996)
シンコー・アーティスト「CIマークとロゴ」(1997)
RICOH「ZOOMくん」(1997)
レディオ湘南「サポーターズクラブ」(1998)
JRバス8社
「ツバメのジャーニー バス旅フォトラリー」(1998)
NTT「デザイン電報」(1998)
カルピス「桃とカルピス」(1999)
明治製菓「チョコベビー」(2000)
ベネッセコーポレーション(2001)
J-COM「はやくカエロウ」(2001)
ノキア「Ai-yai-ya!」(2001)
JA共済「しあわせ夢くらぶ」(2002)
ファイブ・ア・ディ 『食べちゃえ☆野菜 食べちゃえ☆☆果物』