ほぼ週刊 テリー植田 2021-01-15T00:39:51+09:00 高円寺タウンマガジンSHOW-OFF27号配布中
東京IT新聞で「内部統制」連載執筆中 JUGEM お台場の異業種交流会に無料招待いたします! http://terryueda.jugem.jp/?eid=153 2007-12-17T16:40:55+09:00 2007-12-17T07:40:55Z 2007-12-17T07:40:55Z
下記日程で、異業種交流会をお台場で行います。
ダウンタウン松本さんの兄さんをはじめ面白い出演者ばかり。
ニフティのビジネスチームも参加しますので、ぜひとも名刺交換かねて参加ください。
参加希望者は、「異業種交流会参加希望」の件名で
お名前フルネー... テリー植田 ビジネス
下記日程で、異業種交流会をお台場で行います。
ダウンタウン松本さんの兄さんをはじめ面白い出演者ばかり。
ニフティのビジネスチームも参加しますので、ぜひとも名刺交換かねて参加ください。
参加希望者は、「異業種交流会参加希望」の件名で
お名前フルネームと希望人数を明記のうえ、
terryueda@gmail.com まで返信願います。
当日の15時まで受け付けいたします。
入場無料(飲食代有料 ファーストドリンク必要 500円〜)で参加いただけます。
________________
2007 12 19 [Wed]
100人の社長シリーズvol.3
恒例!100人の社長シリーズ!第3弾 年忘れお台場異業種交流会!
Open 18:30 Start 19:30 End 21:30 (予定)
会場:東京カルチャーカルチャー(http://tcc.nifty.com/ )
ファーストドリンク代(500円〜)は、必要になります。
恒例の社長交流会シリーズ第3弾は、オモシロサービスを提供するオモシロ社長や取締役を迎えて送る年忘れ異業種交流会!
IT関係、証券、ベンチャーキャピタル、出版、医療などなど毎回多業種の交流の場になってますので、お気軽にお越しください。
今回は、人気のベビママ向けサービスを行うヒューマックス株式会社松本隆博氏、オモシロオンライン辞書や社会人に聞いてみよラヂオを行う株式会社マインディアの西小倉宏信氏、鉄拳を手掛けた川村順一氏、噂のイラストコミュニケーションサービス「pixiv」(ピクシブ)を手掛ける片桐 孝憲氏(クルーク株式会社代表取締役社長)がトークゲストとして登場します!
司会進行は、東京IT新聞記者の植田鉄也。
【出演者】
松本隆博(ヒューマックス株式会社取締役)
西小倉宏信(株式会社マインディア代表取締役)
川村順一(株式会社デジタルスケープ営業統括本部ビジネスプロデュース事業部ビジネスプロデュースチーム・エグゼクティブプロデューサー/宝塚造形芸術大学教授)
片桐 孝憲(クルーク株式会社)
【司会】
植田鉄也(東京IT新聞記者)
【出演者プロフィール】
松本隆博(ヒューマックス株式会社取締役)
ヒューマングループと松下電器産業の合弁会社「ヒューマックス株式会社」を運営しながら、最強の素人(ダウンタウン松本人志氏の兄)のキャッチフレーズでミュージシャン「取締役松本隆博」としても活動。
初エッセイ本「松本の兄」、デビューmaxiシングル「尼崎なオカン♪」が発売中。植田が東京IT新聞で行ったインタビューでは、「東京はアウェイですわ。」と。
植田鉄也(東京IT新聞記者/東京カルチャーカルチャー・プロデューサー)
東京IT新聞、インプレスR&Dなどでネット関連記事を200本以上執筆、多くの社長や開発者のインタビューを行う。
テリー植田として東京カルチャーカルチャーのイベントプロデューサーの顔を持つ。
来年の流行語大賞をとるのが目下の夢。
川村順一(株式会社デジタルスケープ営業統括本部ビジネスプロデュース事業部ビジネスプロデュースチーム・エグゼクティブプロデューサー/宝塚造形芸術大学教授)
1988年に株式会社ナムコ入社。「鉄拳」シリーズや「ソウルエッジ」等のビジュアルデザインプロデューサー、ナムコDHゲームラボ部長(事務局長)などを歴任。2002年より2003年まで、台湾最大手のオンラインゲーム会社の日本法人株式会社ガマニアデジタルエンタテイメントジャパン取締役兼開発部長を経て、2003年7月より、株式会社デジタルスケープに勤務。
文化庁メディア芸術祭の企画展のプロデューサーやゲーム甲子園審査員なども務める。
2005年4月より宝塚造形芸術大学教授に就任。
西小倉宏信(株式会社マインディア代表取締役社長)
2007年に関西大学総合情報学部を卒業。
在学中、情報をキーワード形式で保存することにより、キーワード同士が自動的にリンクされる「Wiki」というWebシステムに無限の可能性を感じ、Wikiとブログの良さをかね合わせた「mindia(マインディア)」開発。同年、その開発を本格化させるために「株式会社マインディア」を設立。
ちなみに在学中は「パンデイロ」というブラジルの打楽器を毎週集まってひたすら叩くという「関西パンデイロ振興会」の会長に就任していた。
片桐孝憲(クルーク株式会社 代表取締役社長)
2005年クルーク株式会社を創業。
主にWebアプリケーションの開発を行い、2007年9月よりイラスト特化型SNS「pixiv」の運営を開始。
「pixiv」は開始から2ヶ月で会員数3万人、イラスト数は15万枚を超えている。現在はさらなる発展を目指し、エンジニアと共に開発を続ける日々。
特技はめざまし時計を使わずに起きること。
]]>46年生まれナイト!! http://terryueda.jugem.jp/?eid=152 2007-11-28T21:01:45+09:00 2007-11-28T12:02:24Z 2007-11-28T12:01:45Z
12月2日(日)に昭和46年生まれナイトやります!きっとこんなイベントは日本初では?!
このブログを読んでもらった方は、なんと入場無料(飲食代は有料になります)!2日午前中まで受け付けしますので、「46ナイト観覧希望」と明記し、氏名フルネームと人数を書いて... テリー植田 ライブハウス
12月2日(日)に昭和46年生まれナイトやります!きっとこんなイベントは日本初では?!
このブログを読んでもらった方は、なんと入場無料(飲食代は有料になります)!2日午前中まで受け付けしますので、「46ナイト観覧希望」と明記し、氏名フルネームと人数を書いて terryueda@gmail.comまでメール下さい!
2007 12 02 [Sun]
『昭和46年生まれ大集合!46世代ナイト!!』
Open 16:00 Start 17:00 End 19:00 (予定)
前売り券1500円 当日1700円(ともに飲食代別)
※ファーストドリンク代(500円〜)は必要になります。
先着30名に遠足用駄菓子プレゼント!!
会場:東京カルチャーカルチャー(ニフティ運営) http://tcc.nifty.com/
昭和46年生まれ、みんなお台場に集まれ!!ヒゲダンス、ひょうきん族、ヒントでピント、ザ・ベストテン、なめネコ、ガンダム、ラジコン、コロコロコミック、キャンディキャンディ、りぼん、マーガレット、欽ドン、ゲームウォッチ、ロケットペンシル、学校給食、懐かしのオリンピックに紅白歌合戦、花の子ルンルン、クイズダービー、スケバン刑事、甲子園、日本昔話、オールナイトニッポン、ヤンタンなどなど46世代の懐かしのカルチャーをスライドショー、クイズ、トークショーで振り返る、46世代の新しい同窓会的社交場イベントがスタート!!ぜひ、コミュの仲間、同級生、同窓生、家族でいらしてください!
出演:昭和46年生まれの瑞 佐富郎(プロレスライター)
昭和46年生まれのテリー植田(東京カルチャーカルチャー プロデューサー)
協力:昭和46年生まれコミュニティー管理人ミチイト
昭和46年生まれコミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=301326
]]>9/7 田中優氏 トークライブ http://terryueda.jugem.jp/?eid=151 2007-08-31T19:34:24+09:00 2007-08-31T10:37:51Z 2007-08-31T10:34:24Z
東京カルチャーカルチャーでのぼくのプロデュース講演です。
2007 09 07 [Fri]
「好都合な真実」
〜地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか〜」
Open 18:00 Start 19:00 End 21:30 (予定)
飲食代のみ!!(ドリンク¥400〜)
話題の著書... テリー植田
東京カルチャーカルチャーでのぼくのプロデュース講演です。
2007 09 07 [Fri]
「好都合な真実」
〜地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか〜」
Open 18:00 Start 19:00 End 21:30 (予定)
飲食代のみ!!(ドリンク¥400〜)
話題の著書「地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか」が発売されたばかりの田中優氏を招いた、スライドショーを使った地球温暖化に関する講演会&ゲスト(出演者未定)との座談会
田中優(たなかゆう)プロフィール
1994年に立ち上げた「未来バンク」理事長ほか、多くのNPO活動を展開。
「ap bank」顧問、「日本国際ボランティアセンター」理事、「揚水発電問題全国ネットワーク」共同代表、「足元から地球温暖化を考える市民ネットえどがわ(足温ネット)」理事。『地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか』(扶桑社新書)が発売され話題となる。
【出演】田中優(未来バンク理事長、ap bank顧問)
【会場】東京カルチャーカルチャー
http://tcc.nifty.com/
※東京カルチャーカルチャーオープン記念として今回のみ特別に入場料無料とさせて頂きます。但し当店は飲食店ですので当イベント参加には飲食代のみ別途必要となりますので、何卒御了承下さい。ドリンクは¥400から用意しております。
前売券、予約等はありませんので、そのまま会場にお越し頂ければご入場できますが、もし定員満席になった場合は、入場をお断りする場合もありますのでその点だけ御了承下さい。定員は120名を予定しております。
]]>パイオニアKURO プレミアプレビュー http://terryueda.jugem.jp/?eid=150 2007-08-03T13:57:08+09:00 2007-08-06T08:35:29Z 2007-08-03T04:57:08Z
「Seeing and Hearing Like Never Before」
昨日行われた(富士ソフト秋葉原ビル5階 AKIBA STUDIO)パイオニア新商品発表会「PONEER PREMIER PREVIEW」に参加してきました。
記者・ライターとしてこういう発表会や記者会見に参加することは仕事柄多いのですが... テリー植田 ビジネス
「Seeing and Hearing Like Never Before」
昨日行われた(富士ソフト秋葉原ビル5階 AKIBA STUDIO)パイオニア新商品発表会「PONEER PREMIER PREVIEW」に参加してきました。
記者・ライターとしてこういう発表会や記者会見に参加することは仕事柄多いのですが、今回は、いちブロガーとしての参加ということで楽しみにして行ってきました。
もともとDJとして、10年ほどパイノニアのCDJを愛用していたし、近所に家電量販店「コジマ」ができたこともあって、テレビの買い替えをしようとちょうど考えていたところでした。シャープのアクオスにするか、パイオニアのピュアビジョンにするかを迷っています、今。
体験にさきがけて、各界の方からのメッセージ映像が流されました。
映画監督のこだわりを再現するための黒の大切さを訴える映像には、あのスパイク・リー監督(「マルコムX」「DO THE LIGHT THING」)が登場しました。
日本からは、阪本順二監督(「どついたるねん」「亡国のイージス」「新・仁義なき戦い」)などが出演していました。
「このプラズマは、映画の色をしている。現場でやろうとしたことが、見える。」
(阪本順二監督)
イベントのコンセプトであり商品のコンセプトでもあるフレーズがこれ。
「Seeing and Hearing Like Never Before」
観たことも 聴いたこともないもの。
観えなかったものが、観えたとき。
聴けなかったものが、聴けたとき。
感動は、新しい何かに触れたときに生まれる。
開発担当者である板倉氏(27歳)が「プロジェクトX」(NHK)よろしく開発苦労エピソードを語ってくれた。手作りの大きなボックスも用意して。説明は、カミカミでとても場慣れしていない感じが逆に誠実さを感じられた。漆黒の黒を再現するための実験が幾度となく繰り返され完成に至ったようだ。
前機種よりもアンプとスピーカーが大改良され、音質が飛躍的に向上したようで、高い天井から降って来たような、教会のバロック音楽のように聴こえるサウンドはなかなかテレビのスピーカーとは思えないクオリティーになっている。スピーカーは、上、横、正面の3面の立体になっており工夫されている。体験コーナーで中世の戦争映画を観たが、火の玉が飛んでくる音は、逃げたくなるような勢いと迫力で迫ってきた。頭上を飛び越えていくような錯覚になったというのはまったくおおげさでないのは、店頭で体感すると分かってもらえると思います。
音楽映像は、マーカスミラーのベースプレイとリー・リトナーのギタープレイを観ましたが、ピッキングの繊細な音がちゃんと立体的に聴こえましたね。50インチの迫力とデジタルサウンドは最高です。家で、観れたらいいなぁ。
これ、ほしいです。
前機種よりも、黒がより深くなっているために、映画のフレームとなじんで、映画そのものに集中できるようになったのが大きい変更内容でしょう。そして、さらに、映画館で観るよりもより身近で劇場体験ができるシステムになったと思う。
ちなみに、第一号機は、10年前の1997年、長野オリンピックの時にプラズマテレビがパイオニアから発売されたとのことです。10年の進化はすごいです。
やっぱり、前機種と比べると、違いがわかり欲しくなります。市場価格がどれくらいになるかが、僕にとっては一番問題でしょうか。
今、一番欲しいプラズマテレビは、
「パイオニアKURO ホームシアターシステム」に決まりです。
参考記事
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0708/02/news104.html
]]>「東京カルチャーカルチャー」オープン! http://terryueda.jugem.jp/?eid=149 2007-07-20T15:28:35+09:00 2007-07-20T06:29:24Z 2007-07-20T06:28:35Z
ぼくがプロデュース・ブッキングするライブハウスがお台場にオープンします。
「ネットとリアルをつなぐ」交流の場として新しい試みに挑戦します。
飲食をしながら、音楽ライブ、お笑いライブ、社会貢献的なイベントなどの
エンターテイメントを楽しんでもらえるゆ... テリー植田 ライブハウス
ぼくがプロデュース・ブッキングするライブハウスがお台場にオープンします。
「ネットとリアルをつなぐ」交流の場として新しい試みに挑戦します。
飲食をしながら、音楽ライブ、お笑いライブ、社会貢献的なイベントなどの
エンターテイメントを楽しんでもらえるゆったりとしたスペースです。
8/17オープンで、現在、多くの方と出演交渉中です。
スタッフ日記なども更新中ですので、チェックしてください。
http://tcc.nifty.com/
プレスリリース
http://www.nifty.co.jp/cs/07kami/detail/070717003254/1.htm
]]>東京IT新聞が無料購読 http://terryueda.jugem.jp/?eid=148 2007-06-30T11:37:33+09:00 2007-06-30T02:40:51Z 2007-06-30T02:37:33Z
毎週、連載記事を執筆しているIT企業向け新聞です。
日経新聞やアエラのインターネット・IT版といったテイストです。[:グッド:]
個人でも会社でも無料購読OKです。[:無料:]
下記サイトで執筆記事読めます。(植田鉄也名義)
ITに特化したオフィス配送スタ... テリー植田 フリーペーパー
毎週、連載記事を執筆しているIT企業向け新聞です。
日経新聞やアエラのインターネット・IT版といったテイストです。[:グッド:]
個人でも会社でも無料購読OKです。[:無料:]
下記サイトで執筆記事読めます。(植田鉄也名義)
ITに特化したオフィス配送スタイルのタブロイド紙「東京IT新聞」。フリーペーパーは数多くありますが、独自のスタイルと他にはないパッケージが話題の新聞メディアです。昨年8月8日に創刊し、現在4000社/65000部以上の読者を獲得し、購読社数は日々増え続けています。当サイトにて、無料購読の申し込みを受け付けており、サイトからお申し込みいただくだけで、毎号お届け致します。購読料・配送料は無料ですので、ぜひご購読ください。
媒体名 東京IT新聞
欧文 THE TOKYO IT NEWSPAPER
版型 タブロイド版(490×297ミリ)
12頁 モノクロ/カラー (カラー1、6、7、12面)
発行日 毎週 火曜日
配布形態 コントロールド・サーキュレーション (申し込み制)
配布地域 日本全国
定価 無料 (購読料・配送料とも)
購読部数 65,000部
創刊日 2006年8月8日
発行 株式会社トレンドアクセス / 東京IT新聞
http://itnp.net ]]>逮捕直前!外山恒一インタビュー http://terryueda.jugem.jp/?eid=147 2007-06-23T14:19:54+09:00 2007-06-23T05:41:56Z 2007-06-23T05:19:54Z
熊本の破壊坊主か?!それとも、パンク革命家?!
獄中生活、乱立する高円寺のメディア&ストア「素人の乱」
との交友関係、都知事選挙出馬を経て、熊本⇔東京で煩悩を捨て妄想することとは?!
今最も注目されるアンタッチャブルな革命家・外山恒一氏が静かに吠... テリー植田 フリーペーパー
熊本の破壊坊主か?!それとも、パンク革命家?!
獄中生活、乱立する高円寺のメディア&ストア「素人の乱」
との交友関係、都知事選挙出馬を経て、熊本⇔東京で煩悩を捨て妄想することとは?!
今最も注目されるアンタッチャブルな革命家・外山恒一氏が静かに吠える。
逮捕直前、インタビュー!
(聞き手:テリー植田 場所:ZATTS CAFE)
外山恒一さんをご存じない方は、まずこちらを!
http://jp.youtube.com/watch?v=l2C9lv5t0yQ&mode=related&search=
テリー:今は、熊本在住ですか?
外山:そうですね。熊本出身ではないんですけれども。
テリー:鹿児島ですよね?
外山:実質的には福岡なんですよ。鹿児島は生まれたところです。
福岡には4歳からいるから、20年以上は福岡ですね。
テリー:熊本に本拠地を置いたのは何か理由があったんですか?
外山:獄中に2年いまして、出た時に行き場がなくて、それまでは福岡で一人暮
らしをしていたんです。行き場がなくて困っていた時に、実家が鹿児島に移って
いたので、鹿児島の実家に行くか、友達のところに転がり込むか迷って。そしたら
熊本の友人が「うちに居候しないか」と持ちかけてくれてそれ以来熊本で生活
しています。最初は友人の熊本の家に居候していたんだけど、現在はもう部屋を
自分で借りて。東京に来る時は高円寺に滞在していますね。
テリー:都知事選の反響とかあったと思います。同志を探されてるということをよく言われていますが、都知事選以降何か変化がありましたか?
外山:今後仲間を集めるのに必要な知名度を上げるというのが都知事
選の目的ですから、それをまんまと達成しましたね。まだ具体的な形にはなってい
ないんだけども、例えば東京でのちょっとした交流会や飲み会であれば20〜30人はバッと流れてくる感じですね。
テリー:集まる人たちというのはどういう人たちですか?
外山:ほとんどは都知事選をきっかけに興味を持ってくれた人ですね。
テリー:東京の人たちってことですか?
外山:そうですね。世代も出身もバラバラ。20歳前後の人もいるし、僕36歳ですけど、僕よりちょっと年上の40歳前後までいます。
テリー:僕も36歳です。僕は奈良県出身で東京に出てきて11年ですが、いずれ故郷に戻って何か起こすのか、それとも東京で何かやっていくのかということをずーっと考えていて。僕の田舎自体は奈良県の材木の町とか万葉の町なんですよ。近辺に卑弥呼の墓があっ
たり、そういう場所で育ってきて。
外山:卑弥呼は九州ですけどね。(テリー&外山:一同に爆笑)
テリー:僕らは九州と畿内ですね。邪馬台国論話すと長くなりそうですね。(笑)
奈良の桜井は、産業が死んでいて、大阪のベットタウンでしかなくて。
将来、そこに自分が戻った時に何ができるのかと考えた場合に、非常に難しいなと。
外山:例えば、奈良県に戻って文化的なことを始めようとしても、それを受け入
れる層がないでしょ。僕が九州で塾をやるというのも、ここ20年近く九州で活動
を続けて、それまでは「面白いヤツを探す!」という感じだったんだけれども
、「いない!」というふうに断念したんです。面白いヤツは育てるしかないと。
最低限、多少センスがあれば面白がれるようなことって世の中いっぱいある訳
じゃないですか。でも地方だとなかなかそういう情報が入ってこない。そう
いうのを全部、僕が20年近くかけて溜め込んできた知識などの基礎的な部分だ
け半年間で詰め込み教育を行って、世の中にどういう音楽やどういう映画やどう
いう本があるのかっていう基本を押さえれば、あとはそれぞれの力量でいけるわ
けで。そうすると九州にも文化的なレベルの高い若者が育つだろうし、育った人
を隔離して九州各地でその人がさらに人を集めて広げていけばと。何かのシーンに介
入するんじゃなくて、シーンそのものを作っていかないといけないという状況だか
ら、地方は。
テリー:逆にすごいやりがいがある仕事だとも言えますね。僕が外山さんに共
感するのは、東京で何か起こそうというより、自分の街で何かを育てようという発想を
持たれている部分です。それが新しいと言うよりは、本質的な部分というか。
外山:成り行き、といえば成り行きなんですよね。別にそんなに九州が好きな訳じゃないし、どちらかというと九州嫌いだし。ただ、僕が18歳くらいの時に、政治運動の世界ですけど、反原発とか反管理教育とか、そのへんの運動をやっている同世代の17〜8の連中っていうのは全国で散らばっていて、そういう同士がダーッと繋がった時期があるんですね。で、「これは面白い」と。全国各地にいろんな奴がそれぞれに独自に活動していて、それが横に繋がってお互い影響を与え合うっていう関係は非常に面白いなと思って。だからそういう方向を目指してはいるんだけれども、そうやって繋がっちゃうと結局みんな東京に出て行っちゃうんですよね。繋がりがなければそれぞれ地域で頑張っていたかもしれないん
だけど、繋がりができたことがかえって東京誘致を促しちゃう。そういうのが嫌で、九州が好きなわけじゃないんだけども、これで僕も東京行っちゃったら何のために全国ネットワークを作ったのか、っていう話になるんで、そういうこだわりでずっといるだけなんです。
テリー:その発想は面白いですね。九州は東京志向ありますよね。
外山:九州もそうだし、まぁ全国大体そうでしょう。関西圏以外は。
だいたい九州だと、九州から大阪や東京に出るか、九州各地から福岡に出
るか、ですね。
テリー:以前から外山さんに聞きたいと思ってたことなんですけど、僕は奈良県の山や
川の中で育ってきて、飛鳥(石舞台や猿石などが点在する歴史的地域)に自転車で行けるくらいの距離でした。僕は無宗教ですが、信仰のようなものが、例えば大和三山だったり三輪山だったり川であったりします。外山さんにとっての信仰に変わるものって何かありますか?
外山:僕は宗派には属してないんだけど、個人的に仏教徒なんですよ。親鸞と道
元の2人がお気に入りですね。宗派的には禅宗と浄土宗ってことで違うんだけど
、やっぱり一番しっくりくる、あんまり非科学的なところがないのが好きですね
、道元・親鸞は。
テリー:具体的にどういうところですか?
外山:もともと仏教って非科学的な宗教じゃないと思うし、そもそも宗教なのか
というのもあるし。仏教で唯一宗教的・非科学的なことがあるとしたら「生まれ
変わり」ですよね。すべての生命は輪廻転生していると。そんなものは説得のた
めの仮説であって、問題は何かというと『この世は生きづらい・苦しい』という
ことでしょう?仏教をよく分かってない人は、仏教ってのは輪廻転生を信じている
みたいに言うけれども、そうじゃなくて仏教っていうのは輪廻転生をしてまたこ
んな酷い世の中に生まれてくるのは嫌だということなんですよね。で、仏陀なん
かを修行をして、もう二度とこの世に生まれてこないような解脱をしたっていう
話なんですよ。どうすればこの酷い世の中に二度と生まれてこないで済むかというと、過
激にも走らず、日々の事に溺れたりもせず、ほどほどに生きろってことじゃない
ですか。結局、「ほどほどに生きろ」「中庸に生きろ」ということを言っている
だけの宗教で。仏陀自身は厳しい修業をした挙句に「こんな修行なんて意味がな
い」と言ってやめちゃう訳ですよね。仏教ってもともとそういう宗教だと思うんだけど、
親鸞・浄土宗の場合は、その結論だけ教えるんですよ。「ほどほどに生きろ」と。禅宗の場合は、結論はそうなんだけれども、結論だけ教えてもしょうがないだろ、仏陀と同じように厳しい修業をした結果それに至るという話で。だから修行の方法というか、まぁインテリ向けと大衆向けの違いなんですよね。親鸞は大衆向けに語ってるし、道元はインテリ向けに語ってるし。でも結論は同じ。で、元の仏教に近い結論ですよね。もともと日本の仏教なんか、中国に入った時点でかなり歪曲されてますから、それが朝鮮・日本に伝わってきてもっと歪曲されてますから。その歪曲されたところからスタートして結局もとの仏陀の言ってることとほとんど同じ立場に至っているんで。仏教好きだし、あと儒教も結構好きですよ。神道的なものというのは、何となく感覚ですよね。儒教・仏教・神道というと、神道が一番宗教なんだけど、日本語でものを考えている以上日本語の中に神道的な感性っていうのは入ってるんで、感覚的には神道に近いものになるんでしょうね。それこそ僕も古代史の舞台みたいなところで育ちましたから。
テリー:今伺った仏教的なもの・中庸的なものっていうのは、外山さんの過激なパブリック・イメージとある意味正反対ですね。演説とかパフォーマンスは、意図的にフェイクなんですかね?
外山:あんまり意図的ではないんだけど、僕の根っこは仏教的な認識があるんだけ
れども、まぁつまんないよね、中庸に生きてたって。(笑)それこそ別に過激に生きた
ってそれは悪いことではないっていうことでもあるんで、「中庸」っていうのは
。破壊坊主なのかもしれないですけどね。一休さんも過激ですからねー。(笑)
テリー:一休さんは、坊主界のパンクですからね。故郷のアイデンティティは心
の中にありますか?
外山:僕はないですね。むしろ故郷喪失がインテリの基本だと思ってるんで。ど
こにも故郷なんてないというか、故郷から受け入れられない。宗教者はだいた
いそうですけどね、イエスもそうでしょう、故郷では受け入れられない。デカル
トにしてもマルクスにしてもみんな亡命先でものを考えてたりしてるし。僕は故
郷という感覚は全く無いですよね。あるいは、あるとしても否定的な、自分を追
放した場所っていうんですかね。だから九州にこだわってるといっても九州にア
イデンティティを持っている訳ではないんですよ、方言も喋れないですし。九
州で36年、基本的には九州に住んでいたはずなんだけれども、頭の中は完全に標
準語になってるんで。
外山:政見放送で言っていた「少数派」ということとも絡んでるんですけど
、結局自分は「多数派」にはなれないと思っているんですね。でもやっぱり「少
数派」の勢力を築いていかなければいけない。「少数派」が孤立しているとどん
どんやられっぱなしですから。いくら団結したって「少数派」に留まるわけです
よ。「少数派」を九州に全員移動させれば、生態的には「少数派」から脱するこ
とができるんですよ。そういう戦略なんですよね。九州じゃなくてもいいんです
よ、四国とか北海道とかでもいいんだけど、どこかエリアを選んで、そこに「少
数派」を全員移住させる。そうすれば「少数派」といえども影響力がはっきり出
るので
。
テリー:ブログでも塾の設立について書かれてますよね。
外山:今、開設を目指しているっていう段階で。著作が出れば実現するんじゃないかなと思ってるんですけど。意外と都知事選で知名度が上がったとはいえ、特に大手のメディアはまだ外山をどう扱っていいものかどうかという感じがあって。編集者個人が判断するポジションの人もいるから誰かそういう人を見つけて、なんとか新書で、仮に「僕はこんなこと考えてるんだ」っていう著作を出せれば、塾生も集まってくるだろうし、塾の運営もできるだろうとは思うんですけど。
テリー:塾生とは寝食を共にするんですか?
外山:そうですね。半年間だけですけど。半年ごとに塾生を全員入れ変える。そ
の代り、その塾に入る条件としては、九州からしばらくは出ちゃいけない。
テリー:その間はずっと滞在すると。
外山:半年間は軟禁状態だから当然ですけど、塾を出たあとは、沖縄か九州に行
ってくださいと。塾で身につけた成果を、九州でいろいろ活動することで活か
しなさいと。その条件さえ守れば半年間も食事は保障して、勉強に専念してもら
います。
テリー:志ある人には最高の環境ですね。で、それを街で実践していくと。
高円寺で居酒屋をされる計画があるようですね。
外山:そうなんですよね、どうなるかわかんないですけどね。一旦決定したんですがちょっと問題発生して。
テリー:高円寺ですか?
外山:今のところ中野。僕は高円寺でやりたいんだけども。せっかく都知事選で
僕に興味を持ってくれてるんだけれども、そういう人たちが交流するスペース
が無いんで。それは居酒屋とかがいいんじゃないかなぁと。僕は普段九州にいる
からそこにはいないんだけど、外山に興味を持っている人がお客さんの大半
を占めるという。僕が目指したのはそっちですから、僕の元に人が集まるって
いう訳じゃなくて、僕のこともきっかけにして「少数派」が横に繋がって、何
かいろいろヤバイ企みをしていってくのが僕が望んでいることですから。
テリー:10年20年先のイメージってありますか?
外山:早ければ10年後には九州は独立してるんじゃないかと。もっと先になると、日本が九州とそれ以外に分かれていて、九州をメインにした再統合で。妄想を繰り広げてます。(笑)
テリー:そりゃもう、革命ですね。(笑)
外山:。とりあえず党みたいなものは作ります。外山の運動に参加したいっていう人を九州にきてもらうしかない。例えば、影響を受けた運動は別に全国にあっても、それは僕は責任取れないし、まぁ自由にやってくださいと。僕がどういう運動をやりたいと思ってるかどういうことやるかというのは九州に来ないと分かりません。
テリー:外山さんにとって東京ってどんな街ですか?
外山:あんまり住みたくはないんです。終電を気にしないといけない場所ってい
うのはあんまりいやですね。九州とかだと、それこそ福岡とかでもまぁ無理すり
ゃ自転車で行けないこともない距離に大体みんな集中して住んでますから。で、
福岡以外の九州の土地はもっと狭いですからね。
テリー:人の繋がりはどうですか?
外山:東京だとちょっと変なことやってても人を集めやすいんですよね。福岡ですらまぁ微妙な。僕みたいなのが福岡で人集めようとしても無理なんですけど、あまりに外れすぎてて。東京だとそんなこともないんですよね。そのへんが九州いやになることが多かったんですけど、発想を変えて、全国から興味を持った人を集めりゃいいんだと。九州でいくらそんな人探したって、限界があるし、全国から孤立している個人を集めて、九州で勢力を拡大していけばいいじゃないか。東京は時々来なきゃいけないとは僕自身思っ
てて、これまでも年に1〜2回は来ていたんでけど。
テリー:それはメディア対策に?
外山:いや、東京に面白い試みっていうのはあるので。僕はそれは東
京でやることに意味があるとは思えないんですよね、ただ面白い運動や試みはあると。それをこっちにきて、「これは面白い」と僕が思えるようなところと東京で交流して、いろんなアイディアを九州に持ち帰る。輸入業者みたいな。なかなか九州で新しい面白い動きというのは出てこないので、そういうのは東京なんですよね。
テリー:思想の輸入業者ですね。高円寺の街はどうですか?
外山:前から高円寺は縁が。だいたい僕が注目している歴代のアイテムは高円寺
界隈ですね。
テリー:同じくらいの30歳台の男のだと仕事・プライベート・家族なんかのことを考
える時期じゃないですか、世間で言うと。ある意味外山さんの活動って芯が通っ
ていて一般人からすると実はうらやましく思えるんじゃないかと。
外山:今は全く迷いがない状態なんですけど、それは獄中で人生の指針みたいの
を見つかったからであって、20代の10年間はめちゃめちゃきつかったですね。人か
ら胡散臭がられようが嫌われようが、守ってることを徹底的にやる、それでひど
い目にあってもいいんだっていう覚悟のもとに10数年はやるってことの上に今の
「迷いがない状態」があるわけだから。それは、憧れてる暇があったら「あなた
もやりなさい!」ということですよね。
http://www.warewaredan.com/ ]]>寺田恵子 船長(漁港) 対談 http://terryueda.jugem.jp/?eid=146 2007-06-23T14:02:41+09:00 2007-06-23T05:04:57Z 2007-06-23T05:02:41Z
実は、千葉県出身同士だった二人。
寺田姐さんに訊け 寺田式
特別対談篇 「美味しいマグロの見分け方講座」
お客様:「森田釣竿(フィッシュロックバンド漁港・船長)」
(企画・司会・構成:テリー植田)
テリー植田(以下テ):今回対談は初めてですが... テリー植田 フリーペーパー
実は、千葉県出身同士だった二人。
寺田姐さんに訊け 寺田式
特別対談篇 「美味しいマグロの見分け方講座」
お客様:「森田釣竿(フィッシュロックバンド漁港・船長)」
(企画・司会・構成:テリー植田)
テリー植田(以下テ):今回対談は初めてですが、船長に魚の素晴らしさを寺田さんに教授して頂きたいと思います!!
船長(以下船):自分、サカナくんみたいにそこまで魚のこと分かんないんですよ。
寺田恵子(以下寺):はははっ(笑)
テ:サカナくんは魚屋さんじゃなくて魚マニアですもんね。
寺:どうやって魚を料理するのが一番美味しいかを聞きたいよね。そういうのは専門でしょう!?
船:マグロ料理だっ鱈、任せてください!
寺:マグロは体にいいからさ、酒飲みにとっては体にいいんだよ。
船:新鮮なうちは生で食って、飽きてき鱈、ヤングだとフライにして食っちゃうとかね。
寺:ヤングだとフライって。(笑)
船:姐さんは一人でも飲まれるんですか?
寺:一人で飲む方が圧倒的に多い。外に出ると喉潰しちゃうから。もう、飲んだら暴れるというか、じっとしてないのよ私。それでいろんな人とクワーッと喋って。なんか歌に合わせて踊り始めたりとか、簡単なの書いて曲作り始めたりとか。カウンターに入ってお店の人でもないのにお客さんにオーダー頼まれて「アイヨー」って言って作ったりとか。
船:自分もそうかも。居酒屋に行って盛り上がって、「俺が魚切ってあげるよ!」みたいな(笑)。盛り上がっちゃって。他のお客さんの相手もしたりして。
テ:コミュニケーションが本業みたいなものだからね、船長は。
船:市場は対面商売がメインですからね。姐さん、やっぱり千葉だったから祭りとかありましたか?
寺:親父が職人で、大工なのね、建築やってたから。お祭りというよりは、職人の兄ちゃん達がいて、いつもみんなでどんちゃん騒ぎして。そうすると夜中お家に電話があって、「××警察ですけど、お宅の人たちが暴れてます」って。
テ:船長のうちと姐さん宅の血筋は似ているなぁ。
船:自分が小さい頃、大工さんが家を建てた時に、親父が鯛の姿作りを持って行ったりしてましたよ。そういう大人たちのコミュニケーションを常に見てきましたからね。そりゃ、酒も飲まされたし(笑)。魚食文化とか上下関係とか上手い飲み方とか下手な飲み方とか。かなり小さい頃から日本の文化には触れていた方じゃないですかね。
寺:お家の上下関係もはっきりしてるでしょ?
船:はっきりして鱒よ〜(笑)。でも友達み鯛な感覚。
テ:寺田さんは家でも料理しますか?
寺:毎日作ってるよ。朝も作ってるし、昼も。お家にいるときはよっぽど疲れてない限りはお家で作ってますよ。
テ:おすすめマグロメニューってありますか?
船:イベントの予算があれば一匹解体するんですけど、普段はマグロの頭部だけ解体しているんですね。「魚は捨てるところが無い」っていうメッセージを投げかける為に始めたことなのですが、やはり知らない人が多いですよね。頭部で食べられる部分、ホホ肉とか頭肉とか目玉がオススメかなぁ。“さえずり”っていう喉の部分は一匹で一つしか取れないすごく貴重な部分で、煮て食べたら最高ですよ!
寺:その貴重な部位っていうのは世の中に出回んないの?
船:あまり出回んないかなぁ。でも食べてもらい鯛。
寺:食べさせていただきます!(笑)。
船:参ったなぁ(笑)。じゃ浦安魚市場に来てください!
テ:船長、毎日市場にいるの?
船:ほぼい鱒。
寺:何時ごろ行けばいいの?行くとしたら。
船:土曜日曜が面白いですよ。毎週恒例の大売り出しで、色んな魚が入荷し鱒から。マグロの皮とか、あんまり普通の市場に置いてないものもたくさんあり鱒。
寺:おいしい魚の見分け方ってあるの?
船:簡単に言ってしまうと、目玉の白目部分が綺麗に澄んでいて、エラが赤いのが良いですね。魚体によって形がいろいろなので見分け方が違ってくるんですけど、基本的にその二点でOKです。
寺:エラの色ってくすんでくるんでしょ?
船:茶色くなっちゃうんですよ。ヤンキーの脱色みたいな。(笑)
寺:でも切り身になっちゃうともう分かんないですよね。
船:いや、切り身でも血合い…赤い部分があるので、鮭でもカジキでも。やっぱりヤンキーの茶髪は駄目(笑)。鮮度の良い魚はホント真っ赤なんですよ。よく見ると結構やばい魚もあり鱒から気をつけないと。最近、プロの魚屋さんがいなくなってきてるから、そこらへんはよく見極めてもらい鯛。
寺:安く売ってるのは絶対生はやめておこうかなとか思うんだけど、そういうのは関係ないの?
船:まぁ、新鮮なものだけが必ず良いってことじゃないから難しいですよね。熟成マグロって知って鱒か。マグロも黒いほうが美味いっていう事なんですけどね。黒いとマズイなんて見た目で判断しちゃうじゃないですか。
寺:するする!古いって。
船:でも、新鮮なものより少し時間を置いたほうが美味い場合もあるんですよ。一概には言えないのが魚なんです。まぁ難しいけど(笑)。やはり、魚屋さんとコミュニケーションをとって、口頭で教えてもらうのが一番早いかな。でも、時代がそんな時代じゃなくなってきて鱒よね、寂しいけど。コミュニケーションの不足が、日本人の味覚を落としたとも思って鱒ね。浦安が急激に発展していった時期に、自分も魚をあまり食べなくなった時期が実はありまして。
寺:それっていつくらいの時?
船:小学生くらいの時ですね。
寺:ディズニーランドが出来た時SHOW-YAのメンバーで遊びに行ったもん(笑)。
船:そうですか!(笑)ホント、街の発展とともに浦安も変わりましたよ。
寺:それはどうして?いろんな文化が入ってくるから?
船:そうですね。とくに食べ物が急に変わりました。知らない食べ物ばっかり出てくるから、当然興味がそっちに行きますよね?チキンナゲットとか。
テ:食べたことないフィッシュバーガーに心奪われたらもう帰って来れないよね。
船:そこらへんから、食に対する意識っていうのが急に変わっちゃったと。今、回転寿司とかでよく使われている蓄養とか養殖のマグロ、ああいうのも質は良くなっているけど、やっぱり天然マグロにこだわり鯛じゃないですか。でも、その資源にも限りがある。
寺:いま大変だよね。
船:大変です。外国の取材がよく聞かれるんですけど、ほぼマグロに絡めた政治的な話し。音楽の話しなんて一切聞いてくれない!
寺:フィッシュロッカーなのにねぇ。(笑)
船:でもいいんです。人間を支えるのはやっぱり"食"だから。
寺:だからメッセージの一個の手段として音楽がある訳でしょ?ミュージシャンでそういう人もいる訳で。例えば私は音楽が好きで歌が好きで歌ってるけど、今は音楽をやり続ける目的が違うところにあって、それをやるためにプロでもプロじゃなくてもそれを続けていかなきゃなっていうのはあるの。だから音楽も「この曲はこうですよね」って聞かれるよりも、「何で続けてるんだってこと」を訊かれるのが嬉しかったりするかな。
船:日本の取材だと、「マグロが獲れなくなって高くなるから安くておいしいマグロの見分け方を教えてください」とかって感覚なんですよね。全く平和ボケ。外国の取材は、食に対する意識が高くてビックリしますよ。魚食大国なんだから、もう少し見習わないと恥ずかしいです。
寺:外国の飲み屋で話すと、必ず政治の話になったり、地球の話になったりとかね。今こういう問題があるけどお前はどう思う?とか必ず聞くよね、向こうの人って。だからそれまでは政治のこと意識してなかったんだけど、海外でお友達を作ろうと思ったら自分なりの意見も必要だし、世の中の動きは絶対知らなきゃいけないと思うんだよね。真面目になりすぎるのはロックじゃないからイヤなんだけど。(笑)
船:ウーマンズフォーラム魚という団体の白石さんという方が、浦安魚市場まで来てくださっていろいろ話してくれたんですけど、我々日本人の体っていうのは、魚と野菜と米、この三つで出来ているんだということを話してくれまして。自然と共存してる人って、農家の人だったり漁師の人じゃないですか。そういう人達がいるからこそ、我々一般人の食が満たされているって重要な部分が見えてこないシステム。例えば魚に全く興味のない兄ちゃんがバイトで魚を売ってるスーパーだとか(笑)。
寺:全然違うからね。魚屋さんで買うお魚と他で買うお魚と、圧倒的に違うじゃん、味が。
テ:下手したら晩御飯がコンビニ弁当っていう子供とかいたりする時代だから。
寺:いっぱいいるよー!
テ:危ないよね。
寺:この国一番危ないじゃない?他の国より。他の国は、悪いことしててもそれをつつく機関とか団体とかがあるやん!でもここはつつくと潰されちゃうからさ、みんな見て見ぬ振りするからさ。それが一番怖いよね。
船:食で嘘ついちゃ駄目ですよね。
寺:思うよ、ほんとに思うよ。家が無くてもご飯だけちゃんと食べたいって思うよ。
船;自分もそう思い鱒。心ある飯だけ食えれば、あとどうなっても構わない!(笑)
寺:私もそう思う。別に公園で暮らしてもいいや、ご飯が食べられればって思うもん(笑)。
音楽でのコラボレーションはあるか?!
(付録)
船:いや〜、絶対ありえないですね。
寺:何が?!
船:寺田姐さんと魚屋の対談!
テ:ま、高円寺とも全く関係ない対談っすね。(笑)
【SHOW-YAインフォメーション】
音楽バラエティー「SHOW-YA 夏は祭典!」が開催!
7月7日(日)CLUB CITTA’
出演:SHOW-YA、寺田恵子、中村美紀、角田美喜、仙波さとみ、五十嵐☆sun-go☆美貴
アマチュアバンドによる「SHOW-YAトリビュートバンド」
スペシャル・ゲストあり
3980円(税込/ドリンク代別)
http://www.show-ya.jp/
【漁港インフォメーション】
東京中央卸売市場、東京都築地魚市場大物業会、東京築地市場鮮魚業会推薦!
ファーストアルバム「漁港」発売中!
2,800円(税抜価格2,667円)XQCT-1001
http://www.gyoko.com/
7月1日(日)
『ゲビル 10執念祭』新木場Studio Coast
出演:ゲビル
友情出演:漁港/鳥肌実/綾小路翔(氣志團)/研ナオコ他
開港17:00/開演18:00
前売4000円/当日4500円
]]>曽我部恵一さんインタビュー http://terryueda.jugem.jp/?eid=145 2007-06-23T13:50:15+09:00 2007-06-23T05:33:59Z 2007-06-23T04:50:15Z
SHOW-OFF27号 表紙インタビュー 曽我部恵一さん
『自分たちの生活を支えていく音楽を自分たちで作っているっていうのは、すごい充実していますよ。』
曽我部恵一(元サニーデイ・サービス)さんが2人のお子さんを連れて下北沢から高円寺へ。学生時代、サニーデ... テリー植田 フリーペーパー
SHOW-OFF27号 表紙インタビュー 曽我部恵一さん
『自分たちの生活を支えていく音楽を自分たちで作っているっていうのは、すごい充実していますよ。』
曽我部恵一(元サニーデイ・サービス)さんが2人のお子さんを連れて下北沢から高円寺へ。学生時代、サニーデイ時代、ソロ活動、家族のこと、音楽のこと。ありのまま、あるがまま今の曽我部恵一さんの東京ラブ&ピース生活を聞きました。
(企画、インタビュー、構成:テリー植田)
高円寺ZATTS CAFEにて
(佐世保バーガー美味しいよ。)
テリー植田:曽我部さんの上京の物語から聞きたいなぁと思いまして。
曽我部恵一:東京に来てもう15〜6年ですね。
テ:上京されたのは90年くらいですかね?
曽:そう、90年ですね。大学で出てきたんですけど。
テ:立教に入学されて、その頃サニーデイ始められたんですか?
曽:すぐ始めましたね。僕はバンドは高校時代とか田舎ではやってなくて、大学入ったら音楽詳しい奴とか趣味の合う奴がいると思って入って、大学のサークルも覗いてみたんですけどあんまりいなくて、そういう人は。ボン・ジョビのコピーとかやってたりして。
テ:違いますね、明らかに。(笑)
曽:「あれぇ、これちょっと田舎と一緒だな」(笑)と思って。結局田舎から出てきた友達3人くらいでやり始めたんですよ。
テ:3人一緒に上京してきたんですか?
曽:ばらばらだったんですけど、地元でも知ってて、音楽の趣味も共通で。田舎でもそんなにマニアックな人間っていないし、趣味も分かってるってことで「じゃあ一緒にやろうか」みたいな。(笑)あんまり上京してきた意味なかったですけどね。
テ:バンド組んで最初はどうでしたか?
曽:やり方も分からないし、それまでライブをやったこともなかったから、どうやってやっていこうかっていうのは悩みましたね。ほんと模索しながら。ライブを一本やろうということになっても、モニタースピーカーとかの使い方も分からないような素人で、リハスタ(リハーサルスタジオ)に入ってもどうやって練習
していいのか、マイクをミキサーに繋げて音が出るまで一時間くらいかかったりとか、そういう感じでしたね。
テ:最初のアルバム『若者たち』までは数年かかるんですよね?
曽:4〜5年あるんじゃないですか。
テ:95年くらいのリリースですね。
曽:紆余曲折して、『若者たち』以降はわりかし順風満帆というと変なんですけれど、でも実はファーストアルバムが出ても給料とか事務所から出ないし、食えはしなかったんですよ。
テ:以前、ゲストで出演されてたマキタスポーツさんのイベントでその話を聞いて僕はショックを受けましたよ。『東京』(サニーデイ・サービスの名を知らしめた不朽の名作)とかめちゃくちゃ聴いていたので。(笑)
曽:『東京』の時はまだ給料0円時代というか、『東京』というアルバムが出てチャートにうまく入って、それで月給9万円もらい始めて。でも9万だとまだ食えないですよね。
テ:派遣社員以下ですよね。その『東京』が96年ですね。
曽:『東京』から「バンド活動」っていう日々だったんですけど、それまでは結構大変でしたね。
テ:取材に行くときの交通費がなかったことがあったんでしょう?(笑)
曽:そう、渋谷までの電車賃がなくて。近所の駅の近くに中古CD屋があって、そこで結構CDを売ってましたね。売って電車賃作って行って、レコード会社の人にお金を借りて帰ってくるっていう
。ダイナソーjrとか好きだったCDを売ってたから、切迫してたんだと思いますね。
テ:ギリギリだった?
曽:『若者たち』を出すまでは大変でしたね。今やれと言われても出来ない。貧困と、誰も自分の音楽を認めてくれないという状況で、その時期は山崎パンでバイトもやったし。
テ:鳥肌実といっしょじゃないですか!ファンは誰もそんなこと思ってもいないですよ。でもそれがツラくなかった?
曽:その時は「どうしようかな」と何となく悶々としてたんですけど、田舎から出てくる時には「自分はすごい!」、「俺は成功してやる!」、「みんな、俺の曲を聴くに違いない」って思ってましたね。子供の妄想とか自信ってあるじゃないですか。いろんな人にいろんなこと聞いたり相談したりしてましたけど、「ど
うしたらプロのミュージシャンになれるか」とか分かんなかったですね。だからいまだにプロのミュージシャン目指してる人に対して、「こういう風にしたらプロになって食えるよ」ってことは言えないんですよ。僕はすごいラッキーなことにインディーでCDを出してくれるところがあって、ほんとに自主制作で作ったやつを、た
またまレコード会社のディレクターの人が気に入って「ウチで出そうよ」って言ってくれたからそこから始まったんですけど。
テ:『東京』が出てから大分変わって行きましたか、生活は?
曽:そうですね。メジャーはMIDIっていうレコード会社なんですけど、MIDIで契約して、最初に2枚マキシシングルを出したんですけどそれは音楽性も全然違くて、当時は渋谷系が全盛の頃で、もっと渋谷系的なサウンドだったんですよ。何の注目も得ずに終わって、その頃は悩みましたね。メジャーから出て宣伝もしてもらったにもかかわらず誰も認めてくれないみたいなところに、「これじゃ駄目なんだ」っていき
なり壁に当たりましたね。
テ:リリースしたのに、リアクションが薄いと。
曽:うん。だから「ライブ出来ない」とか「どうしてデビューできるんだろう」とかの次の一番デカイ壁がそこだったかなぁ。デビューして自分が作った曲を出してることを誰も認知してくれないという事実。「これをどうしていったらいいんだろう」ということは考えましたね。それで、『若者たち』みたいな世界観に
なんとかたどり着いたんです。でもま、楽しかったですけどね、今思うと。
テ:最初からずっと住まいは下北ですか?
曽:最初は僕、練馬区に住んでて、次に明大前に越して、ずっと明大前にいましたね。解散するまでは明大前。デビューから解散ギリギリまでは明大前のアパートですね。2DKの古いアパート。
テ:それからどうして下北を選んだんですか?
曽:やっぱ下北はQue(ライブハウス)もあったし、レコード屋さんもいろいろあったから、下北は好きな街だったんですよ。
テ:今は下北でお店もされているんですよね?
曽:そうなんです。
テ:どういうお店ですか?
曽:基本はレコード屋さんで、夜はバーになるレコード屋さんをやろうというのが最初で。今のレコード屋さんって中古のアナログ盤とかってそんなに売れたりしないから、下北でレコード屋さんやるのは大変だろうというのがあって。レコード屋やりたい友達がいたんですけど「いや、大変だろうね」という話をしてい
て、そしたら「夜はバーにして、バーの売上も含めて営業したら可能性はあるんじゃない?」という話をし始めて。それで「じゃやってみる?」って話になって何となく始めたんですよ。昼間も、うちのギターのやつが昔コックさんをやってて、「ライブとかレコーディングないときは作って」って。パスタがうまくって、そいつさ
。
テ:『東京』以降、ファンからすると順風満帆な時期に思えますが 、実際はどうだったんですか?
曽:実際は、音楽的にはいろいろとトライしてたり、すごい充実してたんです。毎日音楽を作るっていうことに費やされていたから、僕は夢のような生活だったけど、一個作ったら次のものをまた作らなきゃいけないし、一つ評価を受けるものを作ったら次はそれ以上の評価を得なきゃいけないんじゃないだろうかとか、
そういうプレッシャーはもちろんありますよ。今もあるのかもしれないけど。
テ:「新しいものを作らなくてはいけない」というプレッシャーは、今自分でレーベルされて環境も変わったと思うんですけど、違いますか?
曽:変わらないですよ、結局。やっぱプレッシャーあるし。でも今は音楽を作るっていうことが生活の一部にほんとになってきて、例えばアルバムが出てそのアルバムの売上なりツアーの収益が、「これが誰かの給料でこれが誰かの生活費」というのが分かってきてるし、そうやって生活して生きていくことと音楽を作っ
てプレイしていくことと繋がってきてて、それはすごい楽しいですよ。昔はそこじゃなく、もっとアーティスティックだったかもしれない。音楽を作って単にそれが楽しい、みたいな。じゃなくて、今は音楽を作ることももちろん楽しいけど、それと一緒に自分たちが生きていく生活を支えていく音楽を自分たちで手作りで作ってい
るっていうのは、すごい充実していますよ。
テ:サニーデイが解散してレコード会社と契約が終わって、自分でレーベルやろうと決断した時はどんな心境でしたか?
曽:なんとなくなんですけど、「よし、じゃあもう自分でやろう」というよりも、自分で自分のメディアを持ちたいというのはあって。それはモノを作ったりする人はそうなのかもしれないけど。サニーデイが終わってソロをユニバーサルで出したんですけど、ユニバーサルとの契約が切れて「じゃあ次どのレーベルにい
きましょうか」という時に、ここだと契約金が云々とか、ここだとこういう条件でとか、いろいろあったんですけど、レーベルを渡り歩いても面白くないなと思って。自分でやったほうがいいかなと。
テ:30代の世代からすると、曽我部さんにすごい共感のするのは、大きな資本に振り回されずに自分がメディアになろうと思ったところですね。
曽:それ凄いいいことだなって思って。大きい資本の中でやる必要はないんですよね、モノ作ることって。個人でやる仕事で、大きい資本でやってることと同じクオリティのものが出来ていたらそれでOKだと思うんですよ。聴いてくれる人っていうのは結局そこしか求めてないし、こっちの方が宣伝力が優れてるからこ
っちの音楽を聴こうという訳ではないんですよね。僕が気をつけたいなと思っているのは、個人レベルで自主制作で音楽作ってる時にクオリティが下がらないようにしたいなというのはあります。お金がかかってるかかってないに関わらず、精神的なクオリティというか。
テ:ソロになった時点で"曽我部恵一ブランド"っていうのが頑としてもうあって、ファンはそれを求めていたと思うんです。僕はいいスライドの仕方をされたな、とファンとして思っていたんですけど。レーベルされて何年ですか?
曽:4年ぐらいですね。やっとお金のことをそんなに心配せずにスタジオに入れるのは、ほんとに最近ですね。最初は安いところ選んで。もし大きいレコード会社で作ってたらもうちょっと粘っていろんなとこにお金かけていくだろうなというところをあえてお金使わずに切り上げたりしてましたけど。今はちょっと安定してきた
から、そういうところを気にせず動けるようになりました。
テ:でも協力してくれるスタッフはいたんですよね?デザイナーさんとか。
曽:いや、でも友達ですよ。全部。まずは二人でやってたから。一人はイラストレーターで、若い奴で、「電話番手伝って」みたいな。どこが幾らでプレスしてくれるとかデザインの入稿の
仕方とか、何にも分かってなかったですね。そのうちもう一人サニーデイの時にプロモーターやってた人が加わって三人になってや
り始めた。
テ:家と別に事務所を借りたんですよね?
曽:そうですね。下北に。でも本当に大変でした。ネットで通販やらなきゃってなった時に、じゃあどうやってやるのってなって、カートのレンタルとかやったりしてるんだけどちょっと負荷がかかるとダウンしたりとか、もう大変でしたね。
テ:そういうことに気をとられたくないんじゃないですか?
曽:何年かはそればっかりでしたね。今もその延長線上ですけど。環境整えるのはすっごい大変でした。
テ:でもその頃お子さんが生まれてすごい大変な時期だったんでしょう?
曽:そうですね。やろうとしてることは大きいレコード会社がやろうとしてることと一緒のことだから、それがすっごい難しいなと思って。慣れちゃえば一個一個クリアしていくんですけど。大きな資本からやり方をレクチャーしてもらうんじゃなくて、自分たちでやり方を一から作っていった感じなんですよ。それが良
かった。
テ:ブログでファンはその様子を見ていて、ファンとアーティストの風通しが良い関係があるというか。より強い支持になってるんじゃないかなと。
曽:うーん、どうでしょうね。今そうやって環境とかから足場から作っていくというスタイルを含めて音楽を作ってるから、自分的には面白いですね。
テ:結婚されたのはいつぐらいなんですか?
曽:30ぐらいだから解散する年とか。子どもが出来た時くらい。
テ:そういう人生のタイミングだったんですね。
曽:そうですね。いろいろ人生が大きく変わる瞬間でしたね。
テ:30代、40代の目標とか見通しってあります?
曽:ないですね。3年後こうしていたいとかいうのも全然ないですよ、俺。今のペースでずっと続けたいっていうのも特にないですよ。もっといろんなことが起きてほしいんですけど。とにかく今日明日明後日のことをやるのが一生懸命で、いっつもそうやって動いてるのかなぁ。バンドやってた頃も大ヒットしたりとか超メジャーになった
りしなかったのはそういう理由もあるかなと思うんですけど、みんな周りは年間スケジュール組んで、3年後はとか自分たちで成功へのシナリオというか、ある程度計算してやっていたと思うんですよね。そういうとこあんまり僕は興味なくて、「じゃあ2年後のこのくらいには曽我部恵一プレゼンツでフェスでもやりましょうよ」とか言われても全く何の興味もなくて、2年後のことなんて分かんねーよっていう。「今日これしなきゃいけないから、今日これ一生懸命やっていい?」みたいなのがメインなんですよ。特にミュージシャンとしてはそうで、あとは経営者という側面もあって、経営者としては全体を見なきゃいけないから、今期とか来期とか前年とか考えてるけど。来年はこうい
うふうに会社を成長させたいなというのはないですね。
テ:それは、曽我部さんらしいなぁ。(笑)
曽:でもほんとに想像つかないですね。50代になったときに、今と同じいろんな心配事をかかえながら、必死でどろどろになりながら音楽やってるのは想像したくないですね。そのころは井上陽水さんみたいに悠々自適なことになっていたいんですけど、でもそんなのないんだろうなとも思うんですよね。たまにアルバム作ったりとか、たまにライブしたりだ
とか。
テ:ファンからすると、30年くらい経っても"曽我部恵一"っていうブランドはきっとあると思ってますよ。
曽:音楽やってるのかどうかもわかんないですけど。飽きちゃったらやれないし。
テ:意外に飽き性ですか?
曽:音楽は飽きないですね。
テ:音楽以外の話なんですけど、家族が出来て、食べるものだったりコミュニケーションの仕方とか、変わってきたりしました?
曽:うーん、家族ねぇ…。食事とか変わりますね、家で作ったりするから。で、食事みんなで食べるとか大事だな、とか思ったりしますけどね。子どもが出来て何が変わったかというと、やはり性格が変わりましたね。あきらめがついたというか。いろんなことをあきらめましたよ。(笑)
テ:え?何を?
曽:ミュージシャンをやりながら世界中を旅したりとか、いろんなところでプレイしたりとか、いろんな女性と付き合ったりとか、いろんな夢がありましたけど、そういうの全部
あきらめました。なんかあきらめが良くなりますね。夢がすぐに捨てれるっていう。それはいいことだなって。
テ:それは家族のためにってことですよね?
曽:子どもがいてそれは無理だろってことはいっぱいあるから。結婚したり子どもができたりするのってオススメですよ。そういう夢見がちな男子。
テ:これからのリリースの情報は?
曽:DVDと本が出ました。夏にライブがあって、8月くらいにアルバムが出ます。
テ:忙しくなりそうですね。レコーディングはいつされるんですか?
曽:レコーディングは終わっていて。
テ:テーマはありますか?
曽:テーマは「夏」ですね。夏の幻のような。山本直樹さんの漫画が好きでああいう世界観とか、よしもとよしともさんの「青い車」とか、ああいう夏のひんやりして暑くて過去とか未来とかから切り離された夏の一日というか、永遠性というか。そんなことを考えながら作りました。
テ:では最後に、音楽を目指している若者たちにメッセージを!!
曽:僕は音楽を目指してて今は音楽を作って生活してて、それはすごい楽しいですよってことを言いたい。最高にいい。でも100%それを生業にしなくてもいいんだと思う。昔はどうしても音楽でメシを食いたいというのがあったんだけど、それは考え方を変えた方が今はいいのかもしれない。生活をするためにこの仕事を持ってこれはこれで大事で、音楽は音楽でこっちなんだと、使い分けられる人の方が、今の時代は楽しいと思う。頑張
ってください。夢を見続けてもらって、妥協しつつ(笑)。夢を見続けてる奴が素敵だなと思うし、それが世界を動かしていくと思う。
小生と曽我部さんは1971年生まれの同い年
【曽我部恵一・最新情報】
8月2日曽我部恵一ニューアルバム「blue」リリース決定!!
【ライブ情報寡】
7/22(日) 曽我部恵一BAND @下北沢CLUB Que
曽我部恵一BAND SUMMER TOUR 2007「センチメンタルな夏」
チケット 6/30(土)発売
前売り¥2,500(1ドリンク付)/当日¥2,800(1ドリンク付)
8/6(月) 渋谷CLUB QUATTRO
18:00open / 19:00start
info CLUB QUATTRO 03-3477-8750
8/8(水)
名古屋CLUB QUATTRO
18:00open / 19:00start
info Jail HOUSE 052-936-6041
8/9(木)
心斎橋CLUB QUATTRO
18:00open / 19:00start
info CLUB QUATTRO 06-6281-8181
8/12(日)
福岡DRUM LOGOS
17:00open / 18:00start
info BEA 092-712-4221
TOTAL INFO: www.sokabekeiichi.com ]]>今夜は、ビートIT http://terryueda.jugem.jp/?eid=144 2007-03-27T16:01:57+09:00 2007-03-30T06:39:03Z 2007-03-27T07:01:57Z
4月からネット放送局で番組をはじめることになりました。
月曜の夜はパソコンの前に鎮座してくださいな。
「今夜は、ビートIT」
4月2日スタート 毎週月曜23時〜ゆるゆる生放送
超個人的なオールナイトニッポンみたいな番組になると思います。
日常のこんなこ... テリー植田 ネット放送
4月からネット放送局で番組をはじめることになりました。
月曜の夜はパソコンの前に鎮座してくださいな。
「今夜は、ビートIT」
4月2日スタート 毎週月曜23時〜ゆるゆる生放送
超個人的なオールナイトニッポンみたいな番組になると思います。
日常のこんなことあんなこといろいろ、ゆる〜くね。
http://odoroku.tv/knowledge/beatit/
番組名は
「今夜は最高」
「ビートたけし」
「マイケル・ジャクソン」
から拝借してミックスしました。
でも、「コンヤハビートアイティー」と読みます。
80'sネタから最新IT、農園事情までを網羅。
パブリック・ジャーナリスト「テリー植田」と、「ジュジュ前沢」がお送りする、80’Sカルチャーから最新IT事情まで、なんでもござれの森羅万象ゆるゆるトーク。
音楽、映画、演劇、文学、食、お笑い、旅、ゴールデン街、高円寺、海外支援、フリーペーパー、農園、サブカルなどをテーマに、カルチャーや生き様を考えるふりをしてみます。30代から50代のカルチャーのツボをゆる〜く刺激する月曜深夜の生放送。
ゆるすぎたら、めんごめんご。
■毎週月曜23時〜生放送
■テリー植田ブログ
http://terryueda.jugem.jp/
■番組内で表示しているイラスト/漫画家・大橋裕之
http://blog.livedoor.jp/ohashihiroyuki/
番組へのご意見、要望などは、生放送中に送ってください!
beatit@odoroku.tv]]>「ごめん、コベイン」第1回 (ロッキンオン・山崎洋一郎) http://terryueda.jugem.jp/?eid=143 2007-03-27T13:39:28+09:00 2007-03-27T04:43:46Z 2007-03-27T04:39:28Z 高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載して頂いていたコラムを掲載します。
高円寺在住20年以上のロッキンオンジャパンの山崎洋一郎さんの爆笑コラムです。[:びっくり:]今は連載ストップしてますが、またいつか再開したいと思ってます。
音楽雑誌は買わなくなったが、... テリー植田 フリーペーパー
高円寺在住20年以上のロッキンオンジャパンの山崎洋一郎さんの爆笑コラムです。[:びっくり:]今は連載ストップしてますが、またいつか再開したいと思ってます。
音楽雑誌は買わなくなったが、本屋でロッキンオン・ジャパンを立ち読みした。洋楽の本誌からジャパンに戻った山崎洋一郎さんの原稿がよみたくなったから。ロッキンオンはデュランデュランが表紙の頃の中学から毎月買っていた雑誌だったけど、90年代のいつからか買わなくなった。雑誌のレビューを参考にしてCDを買わなくなったのがその理由。
山崎さんのコラム「激刊山崎」というコーナーがまだ継続されていた。
下北の再開発など街の再開発に反対する人の気がしれない。興味ない。マンションに住んでるやつが反対すんなよ、っていうはじまりから、ロックは奴隷。アフリカから奴隷としてやってきた黒人が悲哀を歌ったブルースがロックになって、今の日本でもロックが歌われている。みんな奴隷だと。人間は、生きる限り奴隷であるから、悲哀やノイズがあるんでしょうか。街のことから音楽や生きることにリンクさせて書く山崎さんの原稿が80年代から好きで、今でもこういうアンテナは健在なようで嬉しくなった。
そんな山崎洋一郎さんにぼくが編集している高円寺のSHOW-OFFで少し前に連載コラムで書いていただいた珠玉のコラムがあるので紹介します。フリーペーパーは、当時部数も少なかったので読んでいない方が多いのでここに掲載します。ロッキンオンで書くより面白い原稿になっていると思う。
「ごめん、コベイン」 第1回 山崎洋一郎(ロッキン・オンジャパン)
いちおう僕の19年間の高円寺生活の中からおもしろエピソードと裏高円寺ヒストリーを紹介するコラムなんですけど、19年といえばハンパじゃないですよ。年とったなー、俺も。で、なんで「ごめん、コベイン」というタイトルなのかという説明から始めようかなぁと思っていたんですが、それどころじゃない大事件が起きてしまったのでその話に急遽変更!でもやっぱりこのコラムのタイトルとも関係あるのでやっぱりその話から。(前置き長すぎるっちゅうの)。あれは7年前の、高円寺の南側にあったとある古着屋でのこと。ほんとに、ほんとうにいけない事なんですけど、どうしても欲しいコーデュロイのズボンを見つけたのに一銭もお金が無くて万引きしてしまいました。本当に反省してます、ごめんなさい。で、ちょうど棚にあるズボンを手を伸ばしたまさにその瞬間、店内に流れていたFENラジオが英語で「昨日、ニルバーナのカート・コベインがライフルで自殺しました。」というニュースを告げていたのです。ズボンを手に持ったまま「ええっ!!」と叫んだ僕は、店内の視線を浴びて立ち尽くしてしまいました。どうやら店にいた他の人は英語がわからなかったらしく、僕を「様子のおかしい人」と思ったようでした。とりあえず家に帰って部屋の中をうろうろしたり友達に電話をかけたりして落ち着こうとしたのですが、その時、ふと自分の左手がコーデュロイのズボンをつかんだままなのに気付いたのでした。ごめん、コベイン。というわけでその後もhide、どんと、佐藤伸治、最近だとジョーイ・ラモーンと、何人ものミュージシャンの死に出会いましたが、やっぱりどうしても「ロック雑誌の編集者として」という関わり方をせざるを得なくて(原稿を書かなくちゃいけないんだよ、どんな状況でも。その状況自体を書かなくちゃならない)、今考えるとカート・コベインの死はなんかすごく僕にとって静かでシンプルでストレートな(不謹慎な言い方なのかな)衝撃でした。自分がショットガンで打ち抜かれたみたいだった。
そんで、事件というのはつい一週間前の日曜日、編集部に「コートニー・ラブのマネージャーだけど、今からそっちに行っていいかな?相談したいことがあるんだ」と電話がかかってきて、お休みだったけどちょうど僕一人出ていたので「いいよ〜!」って感じで待ってたらなんと「ハロ〜!!」ってニコニコしながらコートニー姉さん本人が!!ウワーと思いながらもいちおう編集長として落ち着いた振りをして「ナイストゥーミーチュー」。バイトの娘もいないので、麦茶を出したりしながら色んなことを話しました。姉さんはラフでフェミニンなワンピースで、髪はレインボーにカラーリングしてたけどノーメイクでかわいかった。最近のニューメタル、ラップロックの隆盛に御不満らしく、「ちゃんと曲を書けるロックアーティストがいない!だれか日本人の女性でそういうアーティストはいない?」ときかれ、いろいろとCDを聴かせてあげました。椎名林檎とシーガルにピンときたみたいで、女性じゃないけどミッシェルには「グレイト!」を連発していました。音楽業界のこととか、アット・ザ・ドライヴーインのこと、むかし日本で働いていた時のこと―――2時間以上二人ともすごい早口でしゃべりまくりました。俺、こんなに英語しゃべれたっけ?ってぐらい話して、「じゃあ、これからタワレコ行って、教えてくれたバンドのCD買って、それからアメリカに帰るわ」と言って帰って行きました。かなりパンツは丸見えでしたけど、すっごいいい人で好きになりました。 ]]> 寺田式 〜姉さんに訊け!!〜 SHOW-OFF 25号 http://terryueda.jugem.jp/?eid=142 2007-01-02T10:41:00+09:00 2007-01-02T01:41:52Z 2007-01-02T01:41:00Z
寺田さんの大好きなブースカが店に!
高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載がスタートした
SHOW-YAの寺田恵子さんとの対談コーナー!!
ますます、まじめな恵子姉さんが好きになります。[:ときめき:][:ビール:]
***********************... テリー植田 高円寺
寺田さんの大好きなブースカが店に!
高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載がスタートした
SHOW-YAの寺田恵子さんとの対談コーナー!!
ますます、まじめな恵子姉さんが好きになります。[:ときめき:][:ビール:]
*******************************
寺田式 〜姉さんに訊け!!〜
あのSHOW-YA寺田恵子さんといっしょに身近な社会問題を考えるコーナー(になるのかな?)寺田姉さんの意外な一面が。[:びっくり:]
(聞き手:テリー植田 協力:BARアジール)
※緑文字 が寺田恵子さん
・今日の読売新聞の朝刊の一面が、給食費の未払いが18億円って記事だったんです。自殺やいじめがたくさん起こってますけど、原因って、子供より親にあるんじゃないかってすごい思う。
払えるのに払わないんでしょ。親と社会が悪いね。
・いじめられる子、本人に原因がある場合も多いとは思うけど。
今ね、選択枝が少ないんだよ、たぶん。昔は勉強できないなりに選択枝ってあったじゃない。今は、ものの価値観がいい大学に入る、いい会社に入るそしたら安定して幸せっていうレールを引きすぎるんじゃないかなって。塾に行く時間よりほかの経験をする中から自分にあったものを探せばいいのに。レールの引き方が昔より狭い。そこから外れた子が学校でも、家でも行き場がないっていうとどうしたらいいか分からない。死ぬっていうのがどういうことか分からないまま死んじゃうんじゃないかな。
・僕が幼い頃は自殺が選択枝にはなかったですけどね。
ないない。政治もそうだけど、うそが多い偽りの世界。自分のしでかしたことの尻拭いをすることがへたくそ。人のせいにすぐする。善と悪の根本的な見方もできなくなってきてる。メディアに取り上げられるとそういう選択枝があることに子供が気がつくんだよ。
・選択枝ができた=自殺していいっていうことになるんですかね?恐怖感はないのかな。
うん。恐怖感はないと思う。大人のほうが死ぬっていうのが理解できてるから。人は殺すけど自分は心中しようと思っても死にきれなかったってこと多いでしょ。いじめを苦に自殺って報道されると、選択枝として絶対入ってくるんだよね。
・大人もそれを受けて自殺してるでしょ。
履修問題のでしょ、ありえないよね。
・ちょうど僕が小学校4年生の担任の先生が、教頭になってATMにおいてあった封筒の現金を盗んで逮捕されたんですよ。
きゃー、なさけない!!今もう世の中狂ってるんだってば。イギリスではいじめた子供の親から罰金とるの知ってる?
・ええ、すごいですね。学校が罰金徴収するんだ。
イギリスの罰金って高いんだって。悲しいかなそういうふうに法律決めないといじめはなくならないのかな。子供って残酷だからね。本人が思ってもないことで相手を深く傷つけることってあるじゃない。
どっちもあるのね。いじめる側もあるしいじめられる側にまわったこともある。小学校の三年生かな。一人の女の子を待ち伏せして傘で突いたりとか。そのときに、人をいじめることがすごいいやーな気分になった。人をいじめても楽しくない。家に帰ってどんよりして暗くなってそれからもういじめやめようと思って。クラス替えがあって、いじめられた子がひとりでいて、今度は、その子をなんとかしてやろうと思って話し相手になったら、いじめられたの。そのときは、女の子全員から嫌われたけど、今度はいじめられた女の子も仲間に入れて、私が仲間はずれにされちゃうんだよね。集団ではなくてターゲットはひとりなんだよね。救われたのは、担任の先生は休み時間に男の子と遊ばせてくれたの。だからひとりぼっちではなかったけど、女の子には口を聞いてもらえなかった。そのときに誰かしら手をさしのべてあげたり、抜け道を探してあげないといけないのかなって。
イギリスの映画だと思うんだけど、その映画は、生まれたことに意味なんてないんだって言ってた。だから楽しもうと。意味をみつけなくても生まれただけで十分に意味を成しているからってね。私は、おのれの人生を自分らしく生きていくか考える時代に突入したんじゃないのって思うね。
SHOW-YA LIVE2006 DVDリリース
2006年10月20日に行われたライブの模様を収録
2007年1月24日発売 3990円(税込み)
www.show-ya.jp ]]>映画「鉄コン筋クリート」インタビュー http://terryueda.jugem.jp/?eid=141 2007-01-02T10:25:36+09:00 2007-01-02T01:26:43Z 2007-01-02T01:25:36Z
松本大洋原作のあの傑作マンガ「鉄コン筋クリート」がついに映画化!!
宝町を舞台にシロとクロが大暴れするこの映画。監督は、下北在住で「アニマトリックス」をプロデュースしたマイケル・アリアス氏。「アビス」「ブルックリン」「未来は今」でCG制作もしたマイク... テリー植田 映画
松本大洋原作のあの傑作マンガ「鉄コン筋クリート」がついに映画化!!
宝町を舞台にシロとクロが大暴れするこの映画。監督は、下北在住で「アニマトリックス」をプロデュースしたマイケル・アリアス氏。「アビス」「ブルックリン」「未来は今」でCG制作もしたマイク監督に世界中の街についてインタビューしてきました。なんとマイク監督はオール日本語通訳なし![:びっくり:]
(インタビュー&テキスト:テリー植田)
・映画が宝町という町が舞台で、高円寺という街の雑誌なのでアイリスさんが今まで住んだ街の話を伺いたいです。生まれはどこですか?
生まれはロスでニューヨークに行ったのはちょうど16歳で、家族で引っ越してニューヨークの近くの大学に行ってたね。ニューヨークは大学と自分の仕事で6,7年くらいかな。
・最初のニューヨークでの仕事はどんなものだったのですか?
映画「バック・ツゥー・ザ・ヒューチャー」のアトラクションの映像だったね。自分の会社を2年間やってたんだけどね。
・そのころ、厳しい生活だったんでしょう?
会社維持するのにいろいろやって、いろんないい人との出会いもあったけど、実は人生で東京に住んでるのが一番長いんですよ。
・下北に住んでいらっしゃるんですよね?街というのは、ずっと住む街という考えではない?
ないね。どんどん変わっていっちゃうしね。自分も成長していくといいけど、街も変わるし人それぞれ大人になるし、ベクトルが、映画のクロとシロみたいにいっしょにいることはないから、自立するようになるでしょ。都会に住んでるいいところでもあるしね。みんながそれぞれの方向に行って複雑な交差の仕方をして、特に東京だと出会いがいっぱいあるしね。田舎の何もないところに住めないのかもしれない。映画の仕事は一人じゃなにもできないし。出会いと刺激があったほうが仕事面ではいい。
・そういう意味では東京は住みやすいと。
そうね、東京は大好き。
・ニューヨークのあとは?
その後、日本に来て、自分の会社を作りにニューヨークに一度戻って、日本に出てきた。
イマジカに1年いて、その後、セガに1年いて。
・実は、ぼくもセガで働いていたんですよ!ドリームキャストの立ち上げのころに(懐)
ええー!ほんとー。何研?
・ぼくは、お客様相談室でマーケティング。
ぼくは、ドリームキャストの前でね。楽しかったのは楽しかったけど大鳥居まで通勤は大変だったね。
・下北はどこに行くのもちょうどいい距離ですかね?
天気がいいと吉祥寺に自転車で行けるし、下北もジオラマっていうか街そのものが映画の資料になってくれたところがあるんですよ。新しくもない、古くもない場所だからカオス的な部分もあるし、若い人も年よりもいるし。吉祥寺も活発な空気が、みんながんばってるかんじがある。高円寺はそんなに行ったことないからなんとも言えないんだけど。生活感あっていいね。宝町は面白そうな町にしたかった。外から見て奥になにかあるんじゃないかって探検したくなるような絵にしたいと思っていて。入ってみて、匂いとか触ったかんじが伝わるような。つるんとテカテカしているんじゃなくて、サビだったり、色もメリハリのあるものにしたいなと思っていて。あんまり大都会みたいなのじゃなくて。町との対比がひとつの画面でわかるようにしたくて。オリバーストーン監督の「ワールドトレードセンター」を観て、あれは超高層ビル対人間みたいな画面があるけど、鉄コン筋クリートはもっと手が届くようなね。子供たちが屋上から屋上に飛んでたらリアルじゃないかもしれないけど、どこかの記憶の中で行ったことあるかもしれない、もしくは行ってみたいとか。日本じゃないけど分かるなってかんじ。
・僕は宝町見て、大阪の新世界だって思いましたよ。
新世界に行ってきたよ。通天閣とかあのあたり。人間の濃いかんじね。作り始める前にロケハンで行ったんですよ。あと三角公園とか。
・漫画を読んだのはいつだったのですか?
ニューヨークで辛いときに、友達に薦められてね。自分が今宝町にいるんじゃないかって思う体験だった。地上げされたり、変な人がまわりにいたりとか。クロとシロの痛みが分かったつもり。
・そのころから映画にしたいって思うようになったのですか?
ううん、この映画観てみたいって。音楽聴いてても、こういう映像にあわせたら面白いとか。面白いキャラクターとか、自分だったらどう作るかシュミレーションしたり。
・「鉄コン筋クリート」を監督するチャンスはどこにあったんですか?
勝手に作りはじめたし、いろいろな形で「鉄コン筋クリート」の企画をやろうとしていて、うまくまとまらなくて、プロデューサーの周りのスタッフに、マイク、そこまで作らざるをえないんだったら自分で監督しろよって言われて。監督になる人は一番その映画に情熱をもってる人だなって思うし。それまでは監督したいとは思ってなかったけどね。人に気づかせてもらって、これやらないと次に行けない気持ちがあった。
・原作の松本大洋さんとはどんな話をされましたか?
大洋さんの中での「鉄コン筋クリート」とか、大洋さんの作品だから本人のことをいろいろ知ることで作り手にとってガイダンスみたいなもの、その人の作品の匂い、どっかでリンクしていると思うので。はじめて会ったときからすごく良くしてくれた人だかから今は友達感覚。大洋さんは何者だっていうところがあったから。
・作品の根っこにあるものをお互い知りあったんですね。普段は、街では何をして遊んでますか?
週末子供たちと公園で遊んでいるとか、チャリで走りまわってたり。最初は夜遊びしてたけど。下北は楽だね。ちょっと歩いただけですぐ友達も会えるし。
・ちょうど映画みたいに、下北も道路の反対運動してますね。
反対しててもしょうがないところもあるし、地元に長くいる人はみんな反対はしていないと思う。将来いいこともあるし、便利になったり、車が通りやすかったり、そっちが価値があると思う人はそうね。いいかどうかはよく僕も分からない。逆に進化してどう変わったという答えが出ない限り見えない。ただ表面的なところで、26メートルの道路ができるのはちょっと不安。いい方向に進めばいいけどね。
・高円寺にもそういう話が水面下であるみたいで。駅も再開発してますね。
下北に若い人がたくさん集まっているから、こんないい街にこんなセンスのない道路ができてどうするんだって反対してる。年寄りの人からすると生活が楽になるかもしれないし。いい悪いは簡単に読めないね。日本は開発やらなくてもいい街がどんどんどんどん開発されていくんだよね。
・新宿も再開発で大きなツインタワーがコマ劇場あたりにできるみたいですよ。
歌舞伎町っていう街はあそこにしかないんだよね。好き。無法地帯的な要素もあるけど、危ないとは思ったことない。いきいきした街のかんじあるよね。
・最後に、高円寺の若きクリエーターにメッセージをください!
ものを作る人たちっていうのは、もしかしたら社会からすると遊んでいるように思われるかもしれないけど、ものを作るのって人に夢を与えるし、目の前にないものを体験できるし、出会ったことのないことやビジュアルとか、現代社会にすごく重要だと思う。作ったものを、自己満足で終わらせないないように、外に出て人に会って人に評価してもらってね。失敗して、次の成功に向けてスタートすることが大事だと思う。
(影響受けた作品)
漫画:「童夢」「いじめてくん」映画:「アキラ」「THIN RED LINE」「CITY OF GOD」「心の地図」「豚と軍艦」音楽:鉄コンの音楽を手がけたPLAIDのすべて
(好きな日本食)
お寿司 味噌汁(じゃがいも、たまねぎ)、最中
(好きな日本語)
東北の方言 ことわざ:蛇の道は蛇
(下北生活で一番楽しいことは?)
駅前の市場を探索すること
(東京生活で一番困ったことは?)
毎年、税金の申告に困ります。
映画『鉄コン筋クリート』
12月23日(祝)より渋谷東急ほか全国松竹・東急系にて全国ロードショー!
(C)2006 松本大洋/小学館、アニプレックス、アスミック・エース、Beyond C
]]>SHOW-YA 寺田恵子さんインタビュー記事 http://terryueda.jugem.jp/?eid=139 2006-10-16T11:29:14+09:00 2006-10-16T02:30:51Z 2006-10-16T02:29:14Z
高円寺タウンマガジン用のSHOW-YA寺田恵子さんのインタビュー原稿です。
姉貴と呼ばせてください。ライブ拝みに伺います。
別れ際に、車の窓を開けて
「ライブ、来なよ!今度は飲みながらやろうよ!」って。
きゃー、かっちょええ!!
__
世界初の女の子... テリー植田 高円寺
高円寺タウンマガジン用のSHOW-YA寺田恵子さんのインタビュー原稿です。
姉貴と呼ばせてください。ライブ拝みに伺います。
別れ際に、車の窓を開けて
「ライブ、来なよ!今度は飲みながらやろうよ!」って。
きゃー、かっちょええ!!
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世界初の女の子だけのハードロックバンドとしてギネスブックに載るまで続けたい。
1985年にデビューし、女性ロックバンドとしてハードロックシーンの頂点に立ったSHOW-YA。デビュー直後の寮生活に始まり、脱退、ソロ活動、復活と80年代〜00年代を駆け抜けた寺田恵子さんの波乱の人生を17年ぶりという高円寺でシャウトして頂きました。変わらぬカッコ良さがまぶしすぎ !!
(取材&テキスト:テリー植田 撮影:大澤麻衣)
高円寺には今までバンドやっていた人、今バンドをやっている人、これからやろうと思っている人がいると思いますのでそんなロック野郎どもに向けたインタビューになればと思います。まずは、1985年、デビュー頃の生活はどんな風だったのですか?
デビュー前後の苦労話もたくさんあるんだけど、何から話そうかなぁ。いっぱいありすぎてぇ〜。
そうですよね、ヤマハのコンテストに出たれた頃の話からいきましょうか。
18歳くらいの時で、デビュー4年くらい前の話なんですよ。歌の世界に入るのを子供の頃から決めていたので賞を取れたらすぐデビュー出来ると思っていたらそうではなくて。結局、ライブハウスで活動していかなければならなくて。2社からソロデビューの話が来ていて断って。女性ロックバンドをデビューさせてくれる受け皿がないのかなって、なかばあきらめモードに入っていた時に、うちの事務所が君らのためにプロダクションを作ろうと。それでデビューすることが出来たんですけど、デビューにあたってお金がないじゃないですか?うちの事務所からお給料は頂くけど生活出来るほどではないでしょ。で、メンバーみんなで3年間の寮生活が始まる訳ですよ。
初めて知りました。SHOW−YAは寮生活から始まったんですね。マンション?それとも一軒家ですか?
一軒家。ほんとの寮。部屋が13部屋あって、リビングも広くて。1人2部屋づつでね。
じゃ、苦労話というよりリッチな生活じゃないですか?!(笑)
でもね、ひと部屋は荷物置きや、外に洗濯物干して出かけられないので、洗濯部屋になっていて、あとはドラムの練習部屋。布団買って防音して作ってね。ドラムの子はスティックを持って朝起きて来るの。スティックには「ドラム命」って書いてあるの。それくらい朝から晩までドラムのことを考えるのが好きな子で。
寮生活しながらバイトやっていたのですか?
しないしない。ずっと練習。その分、集中出来たのは良かった。ラッキーだし恵まれてて贅たくだね。デビュー前は学校行って、2時間バイトやって、練習やってみたいなかんじだったけど。
バイトは何されていたのですか?
ひとつはマクドナルド。時間を選べて1時間でも入れるの。もうひとつは喫茶店。ランチタイムにちょこっとね。
その頃はシングルを出したりライブやったりと順調では?
はたから見たら順調だったと思うけど、自分的には納得いかない時期が続いたかな。デビュー決まってからの4年はほんとうに悩んでいた。
音楽的な悩みですか?
ううん。デビューしたらもっとすぐ売れると思っていた。世の中そんなに甘くなくて。女の子バンドでハードロックやってることで世間の注目をあびるって自信満々だったので。24歳で初めてアメリカ行った時に、レコーディングのアシスタントさんに悩みを聞いて頂いて。髪型も変えた。ビジュアル、洋服も変えてみた。化粧方法も変えた。音楽でもいろんなチャレンジもしている。どうして売れないのか。どうしたらいいのだろうと。そしたら、「アメリカでは30歳でデビューするのが常で、30歳でデビュー出来たらラッキーだ。人間というのは30歳になってはじめて大人の道の一歩を踏み出す。それまでは子供だ。子供の時に何を経験して何を学んで自分にとって何が大切か見極める時間だ。君はまだ30歳まで6年ある。その間に何を学んで何を自分のものにするか考えたら30歳に己の道が開かれる。そうして初めて音楽ってものが出来るのだよ」って言われたの。
海外のライブで得たものってありましたか?
発見は、音楽に国境はないって言うじゃない?これは正しいと思った発見と言葉に国境はあるっていう発見。言語の問題はボーカルとしてスポークスマンとして一番悩んだことだったかな。
去年でSHOW-YAは20周年。80年代、90年代、00年代と振り返るとどんな思いがありますか?
80年代はとにかく一生懸命。がむしゃらに貪欲に音楽に傾ける情熱はピカイチだったと思う。私は92年に脱退して、音楽に興味が無くなってしまって。また出てくるのだけど、ほんとうに音楽やめようって思って実家に帰った。全く音楽に魅力を感じなくなってね。いたるところで音楽が流れているとうっとうしくてうっとうしくて。引きこもったりした時期があったの。ソロデビューのお話も頂いたけど断って。でも、いい年した女が結婚もせず、就職もせずぷらぷらする訳にもいかないので就職しようと思って、就職案内と履歴書を買って書いてね。私はケーキ工場で働きたくって。(大まじに)
えっ?SHOW-YAの寺田恵子がケーキ工場ですか!?(笑)
そうなの。履歴書に名前とか経歴を書いていくと大学卒業後のあとが書くことないの。大学卒業するかしないかでデビューが決まってね。で、SHOW-YAとしてプロ活動を始めるって書かないといけないでしょ。それ書くのがためらいがあって。面接の時に働いてないんですかって聞かれたらそうですって言わないといけないでしょ。ずっと悩んでいた時に、ソロでデビューすることになる事務所の社長さんから電話を頂いて。戻って来い、お前の力が必要だと。どうしても歌を歌いたくないのなら、女バンドのプロデューサーとして戻って来いと。今まで培って来たものをどこの馬の骨か分からないやつらに易々と渡すのはいやだと。(笑)だったら自分でイチからやるって。
自分でやるっていうケツのまくり方が寺田恵子らしいですね。
がむしゃらにやっていた80年代から、看板を背負ったまま活動しなければいけない90年代に入って葛藤があって。私はハードロックをソロではもうやりたくなくて。97年まではSHOW-YAが活動していたから同じ土俵に立ちたくなくて。そこからお金を貯める作業に入るんです。個人でやるにしても、メンバーにギャランティーを払わないといけないでしょ。1年間はメンバーを食わせていけるお金が貯まったので、そのお金を持って昔お世話になった事務所(現事務所)に。これから1人で頑張っていくので今度ともよろしくお願いします。一応、お金は貯めました。1年間はメンバーの生活の面倒を見て、その1年間にどうにもならなかったら諦めます。」と、そういう話をしたらうちに戻って来いよとなって。90年代はミュージシャンとしていい時代ではないの。バンドでいる時はメンバーのありがたさは分からなかったの。でもソロになると自分がボーカルである以上は楽器出来ないからライブが切れないんだよね。
ミュージシャンとしては死活問題ですね。
野たれ死のうって。タイムズスクエア挨拶に行って、「実は前の事務所を辞めました。」と。「一時、ご迷惑をかけてすいませんでしたーでギターを持って風呂も入らず、その日暮らしの生活をしようとギターを始めたのね。(笑)日本の音楽シーンにいやけがさして。ミュージシャンの商品化みたいなのが嫌だったの。ちょうどすごく高いキーの女の子が流行った頃で、君の声は時代の声じゃないからダメだって言われて。音楽性を否定されるならともかく声を否定されたら行き場がないじゃない。ギター弾けるようになったら黒人のサックスプレーヤーと雪降る90年代終わりは自分で楽器を始めて新たな音楽活動をしようと思った頃。この業界に別れを告げてニューヨークで中凍えて死んで、何年か後に「日本人元ミュージシャン、ニューヨークで凍死。」ってニュースになるみたいな。(爆笑)
ジム・モリソンの最後みたいな伝説に。(笑)
ヘビーメタルのイベントでアコースティックギターを持って弾いたら周りが認めてくれてね。お客さんも喜んでくれてそこからまた違う音楽人生が始まったの。自分の声とサポートしてくれる楽器だけで出来るならこれ以上強いものはないって。で、この状態だったらSHOW-YAをひっぱって行けると。でも断られて5年かけて1人1人説得しました。(2005年、オリジナルメンバーで大復活祭ライブ開催)
これからめざすことってありますか?
「世界で初の女の子だけのハードロックバンドとしてギネスブックに載るまで続けたいと思っているの。男だとストーンズもエアロスミスもいるけど、女の子だけでしかもハードロックというのはいないしね。ちょっと夢でかいみたいな。」
【高円寺のバンドマンたちにメッセージfrom 寺田恵子】
「この一球は絶対無二の一球なり。されば真摯をあげて打ち出すべし」
漫画「エースを狙え」の言葉ですが、私はボーカルなので
「この一声は絶対無二の一声なり。されば真摯をあげて一声うつべし」
音楽やっている人は自分の楽器パートに置き換えて。二度と来ない人生なので今というときを頑張ってください。
【SHOW-YA LIVE 2006】
新神戸オリエンタル劇場 10/14(土)
渋谷公会堂 10/20(金)
お問い合わせ:SOGO Tokyo 03-3405-9999 SOGO Osaka 06-6344-3326
各プレイガイドにて発売中
http://www.show-ya.jp/
【鉄は熱いうちに打て!ROCK CONCERTの初体験!!!ROCKの英才教育!!!】
『日本全国ハードロック化計画』を推進するROCK道の女達『SHOW-YA』が、子供達にロックとは何か?コンサートはどのようにして行われていくのか?を優しく教授する、社会科見学ツアーを開催します。『SHOW-YA』の実際のLIVE、10/20
渋谷公会堂で行われるLIVEの楽屋裏に小学生以下のお子さんを対象に無料ご招待。同時に、ミニライブを行いROCKバンドの生音を体感してもらいます。申し込みはインターネットHPにて(近日詳細アップ)
]]>坂本美雨さんインタビュー記事 http://terryueda.jugem.jp/?eid=138 2006-10-16T10:54:28+09:00 2006-10-16T02:18:19Z 2006-10-16T01:54:28Z
高円寺タウンマガジン用にインタビューした原稿です。
美雨さんは、教授に顔のパーツが、矢野さんに顔のかたちがクリソツでドキドキしました。サラブレッドの香りが漂う高円寺でした。
美雨さんには、猫ひろしさんを紹介する約束をして別れました。
___
坂... テリー植田 高円寺
高円寺タウンマガジン用にインタビューした原稿です。
美雨さんは、教授に顔のパーツが、矢野さんに顔のかたちがクリソツでドキドキしました。サラブレッドの香りが漂う高円寺でした。
美雨さんには、猫ひろしさんを紹介する約束をして別れました。
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坂本美雨、あの思い出の高円寺再び。
高円寺で昔から伝えられるロック伝説がある。あの坂本龍一と矢野顕子が住んでいたらしい。そして、矢野顕子が駅前のやきとり屋「大将」の常連だったらしいと。 1980年、坂本家に生まれた娘は 9歳まで高円寺に暮らし、その後家族で NY へ移住。1997 年、Ryuichi Sakamoto featuring sister M 名義でデビュー。 99 年に本名、坂本美雨として本格的に音楽活動を始めた。そして、NY と東京を行き来し猫と共に暮らしながら 1 枚の珠玉のアルバム「Harmonious 」を完成させた。母校である杉並第八小学校を訪問し撮影と取材を行った。 (取材&テキスト:テリー植田 カメラマン:大澤麻衣)
高円寺は何年ぶりですか?
「一年ぶりくらい です。」
9歳まで高円寺に住んでいらっしゃったそうですが、当時の記憶はありますか?
「もうその家ないんですけど、特殊な家で、コの字になっていて真ん中に中庭があって。
父の部屋が孤立していて、廊下がなぜかすごく長くて。父の部屋にいると誰も侵入してこなくてすごく静かなかんじがして。ほとんどいなかったですね、父は。レコードの山とか本がたくさんありました。」
それを読んだり聴いたりしていたのですか?
「はい、内緒で。本当は入ったりしたらいけなかったと思うんですけど、たぶん。その静かな感じがすごく染み付いていて。特に昼間とか微妙な光が中庭から入ってきて・・・。」
そんな場所でアルバムでも歌っている大貫妙子さんの『彼と彼女のソネット』とか聴かれていたのですね。
「そうですね、その感じはよく覚えてますね。(「カフェラテ温かいの下さい。」と、オーダー)曲の記憶と直結していますね。」
音楽をやりたいと好奇心が向かっていったのは何歳のころですか?
「プロとしてだとsister M からです 。それまでもずっと歌っていましたし、詩を書いたりとか、合唱団に入ったりしていましたけど、ただ歌手になるというのが恥ずかしくて。芸能界だとかそういうものに興味がなかったので自分が表に立ってやると思ってませんでした。」
お父さま、お母さまの音楽活動はどのように思っていましたか?
「圧倒的に彼らは別世界の人たちというか、すごいと思ってました 。宇宙人みたいなもので。尊敬していましたね。自分はそこに並ぶ訳もないし、楽しいだけの業界でもないし、特に父親と母親がやってきた時代とは今は違うし。歌手デビューしようとかそういう感じにはなれなかったんです。 sister M があるまでは。」
高円寺って猫が多い街ですが、その当時から猫を飼っていましたか?
「野良が庭に迷い込んでくるんですよね。近所に二十何匹か飼ってる猫屋敷が二軒あって。リーダー格の猫がいて、猫の三大病全部持ってるみたいな汚いボス猫。その子を家族ですごく可愛がってた。7歳の時、そこの中央公園でタビちゃん(ニクキュウブロローグのトップページの猫)を拾って、その子は今も NYにいるんですけど。もう 20 年くらい一緒。」
高円寺時代の古い友達とつきあいはありますか?
「少ないですね。学校の友達は一切ないです。小学3 年生で NY へ行って、みんなに手紙を書いたんですよ。向こうに行ってからこんな生活だよって。向こうに行ったらいろんなことがショックで。特に物の大きさがすごくショックだった。ミルクから道から人まで、家もそうだし。そういうことを事細かに書いたんですね。そしたらたぶん、自慢しているように受け取られちゃったのかなぁ、その後なんとなく縁が切れてしまったんです。。。」
アクセサリーも作られてるんですね。誰の影響ですか?
「ちっちゃい頃からビーズで遊ぶのがすごく好きだったんです。育ての親ともいえる、 2 人お手伝いさんがいて。そのうちの 1 人がすごくクリエイティブな人でいろんなことを教えてくれた。その2 人は、親から教わらなかったことをいっぱい教えてくれて。人格形成にすごく影響があった人たち。手紙の書き方からスカーフの合わせ方からリボンの結び方から何から何まで教えてくれて。若い方のお手伝いさんは、絵を描いたり、ビーズで何か作ったり、料理したりとかそういうクリエイティブなことを教えてくれたんです。それで人に作ったり母に作ったりしているうちにビーズにはまっていった。」
今回リリースされたアルバムに収録される曲について教えてください。まずは「 THE NEVER ENDING STORY 」(HONDA 企業 CM 曲)ですが、どんな思い出がある曲ですか?
「1984 年の映画で、家族で映画館に行ったのはたぶん初めてだったと思う。強烈な印象が残って。楽しいだけの映画ではないですよね、哀しみがすごくある。今では哲学的なところは理解出来ますけど子供にとっては複雑な映画だったから何度も自分の中で噛みしめていて。それで主題歌が忘れられなくて、それ以降ずっと歌っていた曲なんです。」
※1983 年、 YMO解散。 1984 年、「戦場のメリークリスマス」で坂本龍一がアカデミー賞受賞。矢野顕子の「ラーメン食べたい」が教科書に掲載。
偉大な音楽家の親に対する距離感は感じますか?
「自分の親は親なんですけど、でも例えばコンサートに行って観たら全く別の存在だし、周りにファンがたくさんいて、私よりも親のことをずっと長く好きだった人がいて自分はファン以下、っていう遠い存在な感じがありました。」
カメラマン :私の旦那さんはドラマーなんですけど、 家庭の中では子供に音楽を伝えていくという行為にすごく冷静な気がするんですよ。子供に対して、好きなものは、自分で選んでいけ、って思っている感じの距離感。美雨さんは親とそういう距離感はありましたか?
「うん、まさしく。全然なにも教えてくれなかった。置いてあるものを私が勝手に選んでっていう感じ。家に帰ったらクラフトワークが鳴っていたり、 YMOも好きでしたし。初めて観た舞台は舞踏で、 山海塾を何度か観て。幼い頃は舞台って言ったら白塗りの男の人がこんなんなって踊っていると思っていた。で、がんがんテクノ聴きながら父の大きな真っ白なシャツをかぶって踊ったりして。そういう風に与えられたもので自分の好きな要素を勝手にくっつけていって。これ聴きなさいとかこれ絶対良いからとか親から言われることはその頃は一切無かったです。」
すごいですねぇ〜。そういう環境にいるっていうこと自体が普通じゃなくて、すでにとんでもなく良い教育になっていますねぇ。
「特に影響を受けた環境としては彼らの音楽に向かう時のものすごい空気感ですよね、その場のテンション。すごく子供でも敏感に感じ取っていて、とりまく人間も多かったし。その周りの人間が父や母が言ったことに対してこういう反応をしているって事とか、マネージャーはこういう気の使い方をしているとか。こういう時は絶対に声をかけたらいけないとか。そういう場面場面の空気の中にあるものを感じ取っていて、それがどれほど大切なことであるか、どれだけ価値があるものであるかということを学べたと思う。だから彼ら自身にはこれを教えてあげようだなんて気持ちは微塵もなかったはず。ここから先は大人の時間だからあっちにいきなさいとかよく言われていたし。(笑)」
これから母校の杉並第八小学校へ行って撮影しますが、どんな小学生でしたか?
「3年生までしか通ってないんですけど、その頃は背が高くて足が速くて環境も環境だったしどちらかというと目立つ存在だったと思います。暴れん坊というか、男の子いじめたりしていました。首絞めたりとか。(笑)天敵がいて。めちゃくちゃ仲悪くて。誰も寄って来れないの、私たちがケンカしている時は。 2人とも口がものすごく達者で、お互いプライドが高くて。天敵はおしゃれにサンフランシスコ生まれだったりとかお寺の娘さんでお金持ちで(笑)ある時、授業が始まる前に壮絶なケンカを教室の後ろでやってたんですよ。そうしたらみんな着席していていつのまにか先生も一緒にこっちを眺めてた。「は〜い、気にしないでいいわよ〜っ。終わるまで待ってるから続けて〜。」って言われたの。「いや、いいです。」って。すごい変な、いい先生でしたね。
家庭も小学校も普通じゃない環境ですね。最高の教育受けたんじゃないですか!(笑)じゃ、そろそろその懐かしの母校に行きましょうか!!
【プロフィール】
坂本美雨(さかもと・みう)
音楽活動に加え、連載、映画評などの執筆、J-WAVE のナビゲーター、テレビ、CM 等のナレーション、ジュエリーブランド「 aquadrops」のプロデュースなど創作の幅を広げる。
J-WAVEでロバート・ハリス氏と「 MIDNIGHT GARDEN 」を担当。(毎週月〜木 24:00 〜24:30 )
公式ホームページ(stellarscape )
http://www.miuskmt.com/
オフィシャルサイト(ニクキュウ ブロローグ)
http://blog.excite.co.miuskmt/ jp/
【アルバム情報】
HONDA企業 CM 曲「THE NEVER ENDING STORY 」、「彼と彼女のソネット」、柴草玲さんの「オキナワソバヤのネエさんへ」、デュークエイセスと共演した「遠くへ行きたい」を含む全 10 曲。
タイトル「Harmonious 」 YCCW-10024/¥2940 (tax in )now on sale
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