Calendar
SunMonTueWedThuFriSat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
New Entries
Archives
Categories
Recent comment
Recent trackback
パイオニアKURO
Profile
Links
Sponsored Links
Mobile
qrcode
Admin
無料ブログ作成サービス JUGEM
Seach this site
2007.12.17 Monday
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | | - | - |
2007.03.27 Tuesday
「ごめん、コベイン」第1回 (ロッキンオン・山崎洋一郎)
高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載して頂いていたコラムを掲載します。
高円寺在住20年以上のロッキンオンジャパンの山崎洋一郎さんの爆笑コラムです。びっくり今は連載ストップしてますが、またいつか再開したいと思ってます。

音楽雑誌は買わなくなったが、本屋でロッキンオン・ジャパンを立ち読みした。洋楽の本誌からジャパンに戻った山崎洋一郎さんの原稿がよみたくなったから。ロッキンオンはデュランデュランが表紙の頃の中学から毎月買っていた雑誌だったけど、90年代のいつからか買わなくなった。雑誌のレビューを参考にしてCDを買わなくなったのがその理由。

山崎さんのコラム「激刊山崎」というコーナーがまだ継続されていた。
下北の再開発など街の再開発に反対する人の気がしれない。興味ない。マンションに住んでるやつが反対すんなよ、っていうはじまりから、ロックは奴隷。アフリカから奴隷としてやってきた黒人が悲哀を歌ったブルースがロックになって、今の日本でもロックが歌われている。みんな奴隷だと。人間は、生きる限り奴隷であるから、悲哀やノイズがあるんでしょうか。街のことから音楽や生きることにリンクさせて書く山崎さんの原稿が80年代から好きで、今でもこういうアンテナは健在なようで嬉しくなった。

そんな山崎洋一郎さんにぼくが編集している高円寺のSHOW-OFFで少し前に連載コラムで書いていただいた珠玉のコラムがあるので紹介します。フリーペーパーは、当時部数も少なかったので読んでいない方が多いのでここに掲載します。ロッキンオンで書くより面白い原稿になっていると思う。


「ごめん、コベイン」 第1回 山崎洋一郎(ロッキン・オンジャパン)


 いちおう僕の19年間の高円寺生活の中からおもしろエピソードと裏高円寺ヒストリーを紹介するコラムなんですけど、19年といえばハンパじゃないですよ。年とったなー、俺も。で、なんで「ごめん、コベイン」というタイトルなのかという説明から始めようかなぁと思っていたんですが、それどころじゃない大事件が起きてしまったのでその話に急遽変更!でもやっぱりこのコラムのタイトルとも関係あるのでやっぱりその話から。(前置き長すぎるっちゅうの)。あれは7年前の、高円寺の南側にあったとある古着屋でのこと。ほんとに、ほんとうにいけない事なんですけど、どうしても欲しいコーデュロイのズボンを見つけたのに一銭もお金が無くて万引きしてしまいました。本当に反省してます、ごめんなさい。で、ちょうど棚にあるズボンを手を伸ばしたまさにその瞬間、店内に流れていたFENラジオが英語で「昨日、ニルバーナのカート・コベインがライフルで自殺しました。」というニュースを告げていたのです。ズボンを手に持ったまま「ええっ!!」と叫んだ僕は、店内の視線を浴びて立ち尽くしてしまいました。どうやら店にいた他の人は英語がわからなかったらしく、僕を「様子のおかしい人」と思ったようでした。とりあえず家に帰って部屋の中をうろうろしたり友達に電話をかけたりして落ち着こうとしたのですが、その時、ふと自分の左手がコーデュロイのズボンをつかんだままなのに気付いたのでした。ごめん、コベイン。というわけでその後もhide、どんと、佐藤伸治、最近だとジョーイ・ラモーンと、何人ものミュージシャンの死に出会いましたが、やっぱりどうしても「ロック雑誌の編集者として」という関わり方をせざるを得なくて(原稿を書かなくちゃいけないんだよ、どんな状況でも。その状況自体を書かなくちゃならない)、今考えるとカート・コベインの死はなんかすごく僕にとって静かでシンプルでストレートな(不謹慎な言い方なのかな)衝撃でした。自分がショットガンで打ち抜かれたみたいだった。

そんで、事件というのはつい一週間前の日曜日、編集部に「コートニー・ラブのマネージャーだけど、今からそっちに行っていいかな?相談したいことがあるんだ」と電話がかかってきて、お休みだったけどちょうど僕一人出ていたので「いいよ〜!」って感じで待ってたらなんと「ハロ〜!!」ってニコニコしながらコートニー姉さん本人が!!ウワーと思いながらもいちおう編集長として落ち着いた振りをして「ナイストゥーミーチュー」。バイトの娘もいないので、麦茶を出したりしながら色んなことを話しました。姉さんはラフでフェミニンなワンピースで、髪はレインボーにカラーリングしてたけどノーメイクでかわいかった。最近のニューメタル、ラップロックの隆盛に御不満らしく、「ちゃんと曲を書けるロックアーティストがいない!だれか日本人の女性でそういうアーティストはいない?」ときかれ、いろいろとCDを聴かせてあげました。椎名林檎とシーガルにピンときたみたいで、女性じゃないけどミッシェルには「グレイト!」を連発していました。音楽業界のこととか、アット・ザ・ドライヴーインのこと、むかし日本で働いていた時のこと―――2時間以上二人ともすごい早口でしゃべりまくりました。俺、こんなに英語しゃべれたっけ?ってぐらい話して、「じゃあ、これからタワレコ行って、教えてくれたバンドのCD買って、それからアメリカに帰るわ」と言って帰って行きました。かなりパンツは丸見えでしたけど、すっごいいい人で好きになりました。
| テリー植田 | フリーペーパー | 13:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
2007.01.02 Tuesday
寺田式 〜姉さんに訊け!!〜 SHOW-OFF 25号

寺田さんの大好きなブースカが店に!

高円寺タウンマガジンSHOW-OFFで連載がスタートした
SHOW-YAの寺田恵子さんとの対談コーナー!!
ますます、まじめな恵子姉さんが好きになります。ときめきビール


*******************************

寺田式 〜姉さんに訊け!!〜

あのSHOW-YA寺田恵子さんといっしょに身近な社会問題を考えるコーナー(になるのかな?)寺田姉さんの意外な一面が。びっくり
(聞き手:テリー植田 協力:BARアジール)

緑文字が寺田恵子さん

・今日の読売新聞の朝刊の一面が、給食費の未払いが18億円って記事だったんです。自殺やいじめがたくさん起こってますけど、原因って、子供より親にあるんじゃないかってすごい思う。

払えるのに払わないんでしょ。親と社会が悪いね。
・いじめられる子、本人に原因がある場合も多いとは思うけど。

今ね、選択枝が少ないんだよ、たぶん。昔は勉強できないなりに選択枝ってあったじゃない。今は、ものの価値観がいい大学に入る、いい会社に入るそしたら安定して幸せっていうレールを引きすぎるんじゃないかなって。塾に行く時間よりほかの経験をする中から自分にあったものを探せばいいのに。レールの引き方が昔より狭い。そこから外れた子が学校でも、家でも行き場がないっていうとどうしたらいいか分からない。死ぬっていうのがどういうことか分からないまま死んじゃうんじゃないかな。

・僕が幼い頃は自殺が選択枝にはなかったですけどね。

ないない。政治もそうだけど、うそが多い偽りの世界。自分のしでかしたことの尻拭いをすることがへたくそ。人のせいにすぐする。善と悪の根本的な見方もできなくなってきてる。メディアに取り上げられるとそういう選択枝があることに子供が気がつくんだよ。

・選択枝ができた=自殺していいっていうことになるんですかね?恐怖感はないのかな。

うん。恐怖感はないと思う。大人のほうが死ぬっていうのが理解できてるから。人は殺すけど自分は心中しようと思っても死にきれなかったってこと多いでしょ。いじめを苦に自殺って報道されると、選択枝として絶対入ってくるんだよね。

・大人もそれを受けて自殺してるでしょ。


履修問題のでしょ、ありえないよね。


・ちょうど僕が小学校4年生の担任の先生が、教頭になってATMにおいてあった封筒の現金を盗んで逮捕されたんですよ。

きゃー、なさけない!!今もう世の中狂ってるんだってば。イギリスではいじめた子供の親から罰金とるの知ってる?

・ええ、すごいですね。学校が罰金徴収するんだ。

イギリスの罰金って高いんだって。悲しいかなそういうふうに法律決めないといじめはなくならないのかな。子供って残酷だからね。本人が思ってもないことで相手を深く傷つけることってあるじゃない。

どっちもあるのね。いじめる側もあるしいじめられる側にまわったこともある。小学校の三年生かな。一人の女の子を待ち伏せして傘で突いたりとか。そのときに、人をいじめることがすごいいやーな気分になった。人をいじめても楽しくない。家に帰ってどんよりして暗くなってそれからもういじめやめようと思って。クラス替えがあって、いじめられた子がひとりでいて、今度は、その子をなんとかしてやろうと思って話し相手になったら、いじめられたの。そのときは、女の子全員から嫌われたけど、今度はいじめられた女の子も仲間に入れて、私が仲間はずれにされちゃうんだよね。集団ではなくてターゲットはひとりなんだよね。救われたのは、担任の先生は休み時間に男の子と遊ばせてくれたの。だからひとりぼっちではなかったけど、女の子には口を聞いてもらえなかった。そのときに誰かしら手をさしのべてあげたり、抜け道を探してあげないといけないのかなって。
イギリスの映画だと思うんだけど、その映画は、生まれたことに意味なんてないんだって言ってた。だから楽しもうと。意味をみつけなくても生まれただけで十分に意味を成しているからってね。私は、おのれの人生を自分らしく生きていくか考える時代に突入したんじゃないのって思うね。


SHOW-YA LIVE2006 DVDリリース
2006年10月20日に行われたライブの模様を収録
2007年1月24日発売 3990円(税込み)
www.show-ya.jp
| テリー植田 | 高円寺 | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
2007.01.02 Tuesday
映画「鉄コン筋クリート」インタビュー 


松本大洋原作のあの傑作マンガ「鉄コン筋クリート」がついに映画化!!
宝町を舞台にシロとクロが大暴れするこの映画。監督は、下北在住で「アニマトリックス」をプロデュースしたマイケル・アリアス氏。「アビス」「ブルックリン」「未来は今」でCG制作もしたマイク監督に世界中の街についてインタビューしてきました。なんとマイク監督はオール日本語通訳なし!びっくり

(インタビュー&テキスト:テリー植田)

・映画が宝町という町が舞台で、高円寺という街の雑誌なのでアイリスさんが今まで住んだ街の話を伺いたいです。生まれはどこですか?

生まれはロスでニューヨークに行ったのはちょうど16歳で、家族で引っ越してニューヨークの近くの大学に行ってたね。ニューヨークは大学と自分の仕事で6,7年くらいかな。

・最初のニューヨークでの仕事はどんなものだったのですか?

映画「バック・ツゥー・ザ・ヒューチャー」のアトラクションの映像だったね。自分の会社を2年間やってたんだけどね。

・そのころ、厳しい生活だったんでしょう?

会社維持するのにいろいろやって、いろんないい人との出会いもあったけど、実は人生で東京に住んでるのが一番長いんですよ。

・下北に住んでいらっしゃるんですよね?街というのは、ずっと住む街という考えではない?

ないね。どんどん変わっていっちゃうしね。自分も成長していくといいけど、街も変わるし人それぞれ大人になるし、ベクトルが、映画のクロとシロみたいにいっしょにいることはないから、自立するようになるでしょ。都会に住んでるいいところでもあるしね。みんながそれぞれの方向に行って複雑な交差の仕方をして、特に東京だと出会いがいっぱいあるしね。田舎の何もないところに住めないのかもしれない。映画の仕事は一人じゃなにもできないし。出会いと刺激があったほうが仕事面ではいい。

・そういう意味では東京は住みやすいと。

そうね、東京は大好き。

・ニューヨークのあとは?

その後、日本に来て、自分の会社を作りにニューヨークに一度戻って、日本に出てきた。
イマジカに1年いて、その後、セガに1年いて。


・実は、ぼくもセガで働いていたんですよ!ドリームキャストの立ち上げのころに(懐)

ええー!ほんとー。何研?

・ぼくは、お客様相談室でマーケティング。

ぼくは、ドリームキャストの前でね。楽しかったのは楽しかったけど大鳥居まで通勤は大変だったね。

・下北はどこに行くのもちょうどいい距離ですかね?

天気がいいと吉祥寺に自転車で行けるし、下北もジオラマっていうか街そのものが映画の資料になってくれたところがあるんですよ。新しくもない、古くもない場所だからカオス的な部分もあるし、若い人も年よりもいるし。吉祥寺も活発な空気が、みんながんばってるかんじがある。高円寺はそんなに行ったことないからなんとも言えないんだけど。生活感あっていいね。宝町は面白そうな町にしたかった。外から見て奥になにかあるんじゃないかって探検したくなるような絵にしたいと思っていて。入ってみて、匂いとか触ったかんじが伝わるような。つるんとテカテカしているんじゃなくて、サビだったり、色もメリハリのあるものにしたいなと思っていて。あんまり大都会みたいなのじゃなくて。町との対比がひとつの画面でわかるようにしたくて。オリバーストーン監督の「ワールドトレードセンター」を観て、あれは超高層ビル対人間みたいな画面があるけど、鉄コン筋クリートはもっと手が届くようなね。子供たちが屋上から屋上に飛んでたらリアルじゃないかもしれないけど、どこかの記憶の中で行ったことあるかもしれない、もしくは行ってみたいとか。日本じゃないけど分かるなってかんじ。

・僕は宝町見て、大阪の新世界だって思いましたよ。

新世界に行ってきたよ。通天閣とかあのあたり。人間の濃いかんじね。作り始める前にロケハンで行ったんですよ。あと三角公園とか。

・漫画を読んだのはいつだったのですか?

ニューヨークで辛いときに、友達に薦められてね。自分が今宝町にいるんじゃないかって思う体験だった。地上げされたり、変な人がまわりにいたりとか。クロとシロの痛みが分かったつもり。

・そのころから映画にしたいって思うようになったのですか?

ううん、この映画観てみたいって。音楽聴いてても、こういう映像にあわせたら面白いとか。面白いキャラクターとか、自分だったらどう作るかシュミレーションしたり。

・「鉄コン筋クリート」を監督するチャンスはどこにあったんですか?

勝手に作りはじめたし、いろいろな形で「鉄コン筋クリート」の企画をやろうとしていて、うまくまとまらなくて、プロデューサーの周りのスタッフに、マイク、そこまで作らざるをえないんだったら自分で監督しろよって言われて。監督になる人は一番その映画に情熱をもってる人だなって思うし。それまでは監督したいとは思ってなかったけどね。人に気づかせてもらって、これやらないと次に行けない気持ちがあった。

・原作の松本大洋さんとはどんな話をされましたか?

大洋さんの中での「鉄コン筋クリート」とか、大洋さんの作品だから本人のことをいろいろ知ることで作り手にとってガイダンスみたいなもの、その人の作品の匂い、どっかでリンクしていると思うので。はじめて会ったときからすごく良くしてくれた人だかから今は友達感覚。大洋さんは何者だっていうところがあったから。

・作品の根っこにあるものをお互い知りあったんですね。普段は、街では何をして遊んでますか?

週末子供たちと公園で遊んでいるとか、チャリで走りまわってたり。最初は夜遊びしてたけど。下北は楽だね。ちょっと歩いただけですぐ友達も会えるし。

・ちょうど映画みたいに、下北も道路の反対運動してますね。

反対しててもしょうがないところもあるし、地元に長くいる人はみんな反対はしていないと思う。将来いいこともあるし、便利になったり、車が通りやすかったり、そっちが価値があると思う人はそうね。いいかどうかはよく僕も分からない。逆に進化してどう変わったという答えが出ない限り見えない。ただ表面的なところで、26メートルの道路ができるのはちょっと不安。いい方向に進めばいいけどね。

・高円寺にもそういう話が水面下であるみたいで。駅も再開発してますね。

下北に若い人がたくさん集まっているから、こんないい街にこんなセンスのない道路ができてどうするんだって反対してる。年寄りの人からすると生活が楽になるかもしれないし。いい悪いは簡単に読めないね。日本は開発やらなくてもいい街がどんどんどんどん開発されていくんだよね。

・新宿も再開発で大きなツインタワーがコマ劇場あたりにできるみたいですよ。

歌舞伎町っていう街はあそこにしかないんだよね。好き。無法地帯的な要素もあるけど、危ないとは思ったことない。いきいきした街のかんじあるよね。

・最後に、高円寺の若きクリエーターにメッセージをください!

ものを作る人たちっていうのは、もしかしたら社会からすると遊んでいるように思われるかもしれないけど、ものを作るのって人に夢を与えるし、目の前にないものを体験できるし、出会ったことのないことやビジュアルとか、現代社会にすごく重要だと思う。作ったものを、自己満足で終わらせないないように、外に出て人に会って人に評価してもらってね。失敗して、次の成功に向けてスタートすることが大事だと思う。

(影響受けた作品)
漫画:「童夢」「いじめてくん」映画:「アキラ」「THIN RED LINE」「CITY OF GOD」「心の地図」「豚と軍艦」音楽:鉄コンの音楽を手がけたPLAIDのすべて
(好きな日本食)
お寿司 味噌汁(じゃがいも、たまねぎ)、最中
(好きな日本語)
東北の方言 ことわざ:蛇の道は蛇
(下北生活で一番楽しいことは?)
駅前の市場を探索すること
(東京生活で一番困ったことは?)
毎年、税金の申告に困ります。


映画『鉄コン筋クリート』
12月23日(祝)より渋谷東急ほか全国松竹・東急系にて全国ロードショー!
(C)2006 松本大洋/小学館、アニプレックス、アスミック・エース、Beyond C

| テリー植田 | 映画 | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006.10.16 Monday
SHOW-YA 寺田恵子さんインタビュー記事


高円寺タウンマガジン用のSHOW-YA寺田恵子さんのインタビュー原稿です。
姉貴と呼ばせてください。ライブ拝みに伺います。
別れ際に、車の窓を開けて
「ライブ、来なよ!今度は飲みながらやろうよ!」って。
きゃー、かっちょええ!!


__

世界初の女の子だけのハードロックバンドとしてギネスブックに載るまで続けたい。


1985年にデビューし、女性ロックバンドとしてハードロックシーンの頂点に立ったSHOW-YA。デビュー直後の寮生活に始まり、脱退、ソロ活動、復活と80年代〜00年代を駆け抜けた寺田恵子さんの波乱の人生を17年ぶりという高円寺でシャウトして頂きました。変わらぬカッコ良さがまぶしすぎ!!
(取材&テキスト:テリー植田 撮影:大澤麻衣)

高円寺には今までバンドやっていた人、今バンドをやっている人、これからやろうと思っている人がいると思いますのでそんなロック野郎どもに向けたインタビューになればと思います。まずは、1985年、デビュー頃の生活はどんな風だったのですか?

デビュー前後の苦労話もたくさんあるんだけど、何から話そうかなぁ。いっぱいありすぎてぇ〜。

そうですよね、ヤマハのコンテストに出たれた頃の話からいきましょうか。

18歳くらいの時で、デビュー4年くらい前の話なんですよ。歌の世界に入るのを子供の頃から決めていたので賞を取れたらすぐデビュー出来ると思っていたらそうではなくて。結局、ライブハウスで活動していかなければならなくて。2社からソロデビューの話が来ていて断って。女性ロックバンドをデビューさせてくれる受け皿がないのかなって、なかばあきらめモードに入っていた時に、うちの事務所が君らのためにプロダクションを作ろうと。それでデビューすることが出来たんですけど、デビューにあたってお金がないじゃないですか?うちの事務所からお給料は頂くけど生活出来るほどではないでしょ。で、メンバーみんなで3年間の寮生活が始まる訳ですよ。

初めて知りました。SHOW−YAは寮生活から始まったんですね。マンション?それとも一軒家ですか?

一軒家。ほんとの寮。部屋が13部屋あって、リビングも広くて。1人2部屋づつでね。

じゃ、苦労話というよりリッチな生活じゃないですか?!(笑)

でもね、ひと部屋は荷物置きや、外に洗濯物干して出かけられないので、洗濯部屋になっていて、あとはドラムの練習部屋。布団買って防音して作ってね。ドラムの子はスティックを持って朝起きて来るの。スティックには「ドラム命」って書いてあるの。それくらい朝から晩までドラムのことを考えるのが好きな子で。

寮生活しながらバイトやっていたのですか?

しないしない。ずっと練習。その分、集中出来たのは良かった。ラッキーだし恵まれてて贅たくだね。デビュー前は学校行って、2時間バイトやって、練習やってみたいなかんじだったけど。

バイトは何されていたのですか?

ひとつはマクドナルド。時間を選べて1時間でも入れるの。もうひとつは喫茶店。ランチタイムにちょこっとね。

その頃はシングルを出したりライブやったりと順調では?

はたから見たら順調だったと思うけど、自分的には納得いかない時期が続いたかな。デビュー決まってからの4年はほんとうに悩んでいた。

音楽的な悩みですか?

ううん。デビューしたらもっとすぐ売れると思っていた。世の中そんなに甘くなくて。女の子バンドでハードロックやってることで世間の注目をあびるって自信満々だったので。24歳で初めてアメリカ行った時に、レコーディングのアシスタントさんに悩みを聞いて頂いて。髪型も変えた。ビジュアル、洋服も変えてみた。化粧方法も変えた。音楽でもいろんなチャレンジもしている。どうして売れないのか。どうしたらいいのだろうと。そしたら、「アメリカでは30歳でデビューするのが常で、30歳でデビュー出来たらラッキーだ。人間というのは30歳になってはじめて大人の道の一歩を踏み出す。それまでは子供だ。子供の時に何を経験して何を学んで自分にとって何が大切か見極める時間だ。君はまだ30歳まで6年ある。その間に何を学んで何を自分のものにするか考えたら30歳に己の道が開かれる。そうして初めて音楽ってものが出来るのだよ」って言われたの。

海外のライブで得たものってありましたか?

発見は、音楽に国境はないって言うじゃない?これは正しいと思った発見と言葉に国境はあるっていう発見。言語の問題はボーカルとしてスポークスマンとして一番悩んだことだったかな。

去年でSHOW-YAは20周年。80年代、90年代、00年代と振り返るとどんな思いがありますか?

80年代はとにかく一生懸命。がむしゃらに貪欲に音楽に傾ける情熱はピカイチだったと思う。私は92年に脱退して、音楽に興味が無くなってしまって。また出てくるのだけど、ほんとうに音楽やめようって思って実家に帰った。全く音楽に魅力を感じなくなってね。いたるところで音楽が流れているとうっとうしくてうっとうしくて。引きこもったりした時期があったの。ソロデビューのお話も頂いたけど断って。でも、いい年した女が結婚もせず、就職もせずぷらぷらする訳にもいかないので就職しようと思って、就職案内と履歴書を買って書いてね。私はケーキ工場で働きたくって。(大まじに)

えっ?SHOW-YAの寺田恵子がケーキ工場ですか!?(笑)

そうなの。履歴書に名前とか経歴を書いていくと大学卒業後のあとが書くことないの。大学卒業するかしないかでデビューが決まってね。で、SHOW-YAとしてプロ活動を始めるって書かないといけないでしょ。それ書くのがためらいがあって。面接の時に働いてないんですかって聞かれたらそうですって言わないといけないでしょ。ずっと悩んでいた時に、ソロでデビューすることになる事務所の社長さんから電話を頂いて。戻って来い、お前の力が必要だと。どうしても歌を歌いたくないのなら、女バンドのプロデューサーとして戻って来いと。今まで培って来たものをどこの馬の骨か分からないやつらに易々と渡すのはいやだと。(笑)だったら自分でイチからやるって。

自分でやるっていうケツのまくり方が寺田恵子らしいですね。

がむしゃらにやっていた80年代から、看板を背負ったまま活動しなければいけない90年代に入って葛藤があって。私はハードロックをソロではもうやりたくなくて。97年まではSHOW-YAが活動していたから同じ土俵に立ちたくなくて。そこからお金を貯める作業に入るんです。個人でやるにしても、メンバーにギャランティーを払わないといけないでしょ。1年間はメンバーを食わせていけるお金が貯まったので、そのお金を持って昔お世話になった事務所(現事務所)に。これから1人で頑張っていくので今度ともよろしくお願いします。一応、お金は貯めました。1年間はメンバーの生活の面倒を見て、その1年間にどうにもならなかったら諦めます。」と、そういう話をしたらうちに戻って来いよとなって。90年代はミュージシャンとしていい時代ではないの。バンドでいる時はメンバーのありがたさは分からなかったの。でもソロになると自分がボーカルである以上は楽器出来ないからライブが切れないんだよね。

ミュージシャンとしては死活問題ですね。

野たれ死のうって。タイムズスクエア挨拶に行って、「実は前の事務所を辞めました。」と。「一時、ご迷惑をかけてすいませんでしたーでギターを持って風呂も入らず、その日暮らしの生活をしようとギターを始めたのね。(笑)日本の音楽シーンにいやけがさして。ミュージシャンの商品化みたいなのが嫌だったの。ちょうどすごく高いキーの女の子が流行った頃で、君の声は時代の声じゃないからダメだって言われて。音楽性を否定されるならともかく声を否定されたら行き場がないじゃない。ギター弾けるようになったら黒人のサックスプレーヤーと雪降る90年代終わりは自分で楽器を始めて新たな音楽活動をしようと思った頃。この業界に別れを告げてニューヨークで中凍えて死んで、何年か後に「日本人元ミュージシャン、ニューヨークで凍死。」ってニュースになるみたいな。(爆笑)

ジム・モリソンの最後みたいな伝説に。(笑)

ヘビーメタルのイベントでアコースティックギターを持って弾いたら周りが認めてくれてね。お客さんも喜んでくれてそこからまた違う音楽人生が始まったの。自分の声とサポートしてくれる楽器だけで出来るならこれ以上強いものはないって。で、この状態だったらSHOW-YAをひっぱって行けると。でも断られて5年かけて1人1人説得しました。(2005年、オリジナルメンバーで大復活祭ライブ開催)

これからめざすことってありますか?

「世界で初の女の子だけのハードロックバンドとしてギネスブックに載るまで続けたいと思っているの。男だとストーンズもエアロスミスもいるけど、女の子だけでしかもハードロックというのはいないしね。ちょっと夢でかいみたいな。」

【高円寺のバンドマンたちにメッセージfrom 寺田恵子】
「この一球は絶対無二の一球なり。されば真摯をあげて打ち出すべし」
漫画「エースを狙え」の言葉ですが、私はボーカルなので
「この一声は絶対無二の一声なり。されば真摯をあげて一声うつべし」
音楽やっている人は自分の楽器パートに置き換えて。二度と来ない人生なので今というときを頑張ってください。


【SHOW-YA LIVE 2006】
新神戸オリエンタル劇場 10/14(土)
渋谷公会堂 10/20(金)
お問い合わせ:SOGO Tokyo 03-3405-9999 SOGO Osaka 06-6344-3326
各プレイガイドにて発売中
http://www.show-ya.jp/

【鉄は熱いうちに打て!ROCK CONCERTの初体験!!!ROCKの英才教育!!!】
『日本全国ハードロック化計画』を推進するROCK道の女達『SHOW-YA』が、子供達にロックとは何か?コンサートはどのようにして行われていくのか?を優しく教授する、社会科見学ツアーを開催します。『SHOW-YA』の実際のLIVE、10/20
渋谷公会堂で行われるLIVEの楽屋裏に小学生以下のお子さんを対象に無料ご招待。同時に、ミニライブを行いROCKバンドの生音を体感してもらいます。申し込みはインターネットHPにて(近日詳細アップ)


| テリー植田 | 高円寺 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(2) |
2006.10.16 Monday
坂本美雨さんインタビュー記事


高円寺タウンマガジン用にインタビューした原稿です。
美雨さんは、教授に顔のパーツが、矢野さんに顔のかたちがクリソツでドキドキしました。サラブレッドの香りが漂う高円寺でした。
美雨さんには、猫ひろしさんを紹介する約束をして別れました。


___

坂本美雨、あの思い出の高円寺再び。

高円寺で昔から伝えられるロック伝説がある。あの坂本龍一と矢野顕子が住んでいたらしい。そして、矢野顕子が駅前のやきとり屋「大将」の常連だったらしいと。 1980年、坂本家に生まれた娘は 9歳まで高円寺に暮らし、その後家族で NY へ移住。1997 年、Ryuichi Sakamoto featuring sister M 名義でデビュー。 99 年に本名、坂本美雨として本格的に音楽活動を始めた。そして、NY と東京を行き来し猫と共に暮らしながら 1 枚の珠玉のアルバム「Harmonious 」を完成させた。母校である杉並第八小学校を訪問し撮影と取材を行った。(取材&テキスト:テリー植田  カメラマン:大澤麻衣)


高円寺は何年ぶりですか?

「一年ぶりくらい です。」

9歳まで高円寺に住んでいらっしゃったそうですが、当時の記憶はありますか?

「もうその家ないんですけど、特殊な家で、コの字になっていて真ん中に中庭があって。
父の部屋が孤立していて、廊下がなぜかすごく長くて。父の部屋にいると誰も侵入してこなくてすごく静かなかんじがして。ほとんどいなかったですね、父は。レコードの山とか本がたくさんありました。」


それを読んだり聴いたりしていたのですか?

「はい、内緒で。本当は入ったりしたらいけなかったと思うんですけど、たぶん。その静かな感じがすごく染み付いていて。特に昼間とか微妙な光が中庭から入ってきて・・・。」

そんな場所でアルバムでも歌っている大貫妙子さんの『彼と彼女のソネット』とか聴かれていたのですね。

「そうですね、その感じはよく覚えてますね。(「カフェラテ温かいの下さい。」と、オーダー)曲の記憶と直結していますね。」


音楽をやりたいと好奇心が向かっていったのは何歳のころですか?

「プロとしてだとsister M からです 。それまでもずっと歌っていましたし、詩を書いたりとか、合唱団に入ったりしていましたけど、ただ歌手になるというのが恥ずかしくて。芸能界だとかそういうものに興味がなかったので自分が表に立ってやると思ってませんでした。」

お父さま、お母さまの音楽活動はどのように思っていましたか?

「圧倒的に彼らは別世界の人たちというか、すごいと思ってました 。宇宙人みたいなもので。尊敬していましたね。自分はそこに並ぶ訳もないし、楽しいだけの業界でもないし、特に父親と母親がやってきた時代とは今は違うし。歌手デビューしようとかそういう感じにはなれなかったんです。 sister M があるまでは。」


高円寺って猫が多い街ですが、その当時から猫を飼っていましたか?

「野良が庭に迷い込んでくるんですよね。近所に二十何匹か飼ってる猫屋敷が二軒あって。リーダー格の猫がいて、猫の三大病全部持ってるみたいな汚いボス猫。その子を家族ですごく可愛がってた。7歳の時、そこの中央公園でタビちゃん(ニクキュウブロローグのトップページの猫)を拾って、その子は今も NYにいるんですけど。もう 20 年くらい一緒。」

高円寺時代の古い友達とつきあいはありますか?

「少ないですね。学校の友達は一切ないです。小学3 年生で NY へ行って、みんなに手紙を書いたんですよ。向こうに行ってからこんな生活だよって。向こうに行ったらいろんなことがショックで。特に物の大きさがすごくショックだった。ミルクから道から人まで、家もそうだし。そういうことを事細かに書いたんですね。そしたらたぶん、自慢しているように受け取られちゃったのかなぁ、その後なんとなく縁が切れてしまったんです。。。」

アクセサリーも作られてるんですね。誰の影響ですか?

「ちっちゃい頃からビーズで遊ぶのがすごく好きだったんです。育ての親ともいえる、 2 人お手伝いさんがいて。そのうちの 1 人がすごくクリエイティブな人でいろんなことを教えてくれた。その2 人は、親から教わらなかったことをいっぱい教えてくれて。人格形成にすごく影響があった人たち。手紙の書き方からスカーフの合わせ方からリボンの結び方から何から何まで教えてくれて。若い方のお手伝いさんは、絵を描いたり、ビーズで何か作ったり、料理したりとかそういうクリエイティブなことを教えてくれたんです。それで人に作ったり母に作ったりしているうちにビーズにはまっていった。」

今回リリースされたアルバムに収録される曲について教えてください。まずは「 THE NEVER ENDING STORY 」(HONDA 企業 CM 曲)ですが、どんな思い出がある曲ですか?

「1984 年の映画で、家族で映画館に行ったのはたぶん初めてだったと思う。強烈な印象が残って。楽しいだけの映画ではないですよね、哀しみがすごくある。今では哲学的なところは理解出来ますけど子供にとっては複雑な映画だったから何度も自分の中で噛みしめていて。それで主題歌が忘れられなくて、それ以降ずっと歌っていた曲なんです。」

※1983 年、 YMO解散。 1984 年、「戦場のメリークリスマス」で坂本龍一がアカデミー賞受賞。矢野顕子の「ラーメン食べたい」が教科書に掲載。

偉大な音楽家の親に対する距離感は感じますか?

「自分の親は親なんですけど、でも例えばコンサートに行って観たら全く別の存在だし、周りにファンがたくさんいて、私よりも親のことをずっと長く好きだった人がいて自分はファン以下、っていう遠い存在な感じがありました。」

カメラマン :私の旦那さんはドラマーなんですけど、 家庭の中では子供に音楽を伝えていくという行為にすごく冷静な気がするんですよ。子供に対して、好きなものは、自分で選んでいけ、って思っている感じの距離感。美雨さんは親とそういう距離感はありましたか?

「うん、まさしく。全然なにも教えてくれなかった。置いてあるものを私が勝手に選んでっていう感じ。家に帰ったらクラフトワークが鳴っていたり、 YMOも好きでしたし。初めて観た舞台は舞踏で、 山海塾を何度か観て。幼い頃は舞台って言ったら白塗りの男の人がこんなんなって踊っていると思っていた。で、がんがんテクノ聴きながら父の大きな真っ白なシャツをかぶって踊ったりして。そういう風に与えられたもので自分の好きな要素を勝手にくっつけていって。これ聴きなさいとかこれ絶対良いからとか親から言われることはその頃は一切無かったです。」

すごいですねぇ〜。そういう環境にいるっていうこと自体が普通じゃなくて、すでにとんでもなく良い教育になっていますねぇ。

「特に影響を受けた環境としては彼らの音楽に向かう時のものすごい空気感ですよね、その場のテンション。すごく子供でも敏感に感じ取っていて、とりまく人間も多かったし。その周りの人間が父や母が言ったことに対してこういう反応をしているって事とか、マネージャーはこういう気の使い方をしているとか。こういう時は絶対に声をかけたらいけないとか。そういう場面場面の空気の中にあるものを感じ取っていて、それがどれほど大切なことであるか、どれだけ価値があるものであるかということを学べたと思う。だから彼ら自身にはこれを教えてあげようだなんて気持ちは微塵もなかったはず。ここから先は大人の時間だからあっちにいきなさいとかよく言われていたし。(笑)」

これから母校の杉並第八小学校へ行って撮影しますが、どんな小学生でしたか?

「3年生までしか通ってないんですけど、その頃は背が高くて足が速くて環境も環境だったしどちらかというと目立つ存在だったと思います。暴れん坊というか、男の子いじめたりしていました。首絞めたりとか。(笑)天敵がいて。めちゃくちゃ仲悪くて。誰も寄って来れないの、私たちがケンカしている時は。 2人とも口がものすごく達者で、お互いプライドが高くて。天敵はおしゃれにサンフランシスコ生まれだったりとかお寺の娘さんでお金持ちで(笑)ある時、授業が始まる前に壮絶なケンカを教室の後ろでやってたんですよ。そうしたらみんな着席していていつのまにか先生も一緒にこっちを眺めてた。「は〜い、気にしないでいいわよ〜っ。終わるまで待ってるから続けて〜。」って言われたの。「いや、いいです。」って。すごい変な、いい先生でしたね。

家庭も小学校も普通じゃない環境ですね。最高の教育受けたんじゃないですか!(笑)じゃ、そろそろその懐かしの母校に行きましょうか!!


【プロフィール】
坂本美雨(さかもと・みう)
音楽活動に加え、連載、映画評などの執筆、J-WAVE のナビゲーター、テレビ、CM 等のナレーション、ジュエリーブランド「 aquadrops」のプロデュースなど創作の幅を広げる。
J-WAVEでロバート・ハリス氏と「 MIDNIGHT  GARDEN 」を担当。(毎週月〜木 24:00 〜24:30 )

公式ホームページ(stellarscape )
http://www.miuskmt.com/
オフィシャルサイト(ニクキュウ ブロローグ)
http://blog.excite.co.miuskmt/ jp/

【アルバム情報】
HONDA企業 CM 曲「THE   NEVER  ENDING  STORY 」、「彼と彼女のソネット」、柴草玲さんの「オキナワソバヤのネエさんへ」、デュークエイセスと共演した「遠くへ行きたい」を含む全 10 曲。
タイトル「Harmonious 」 YCCW-10024/¥2940 (tax in )now on sale
| テリー植田 | 高円寺 | 10:54 | comments(0) | trackbacks(2) |
2006.09.14 Thursday
【8万円で導入完了!! IHクッキングヒーター導入までの道のり】


ガス台よ、さらば。
うちのキッチンに話題のIHクッキングヒーターを導入しました!!
IH入れたいけど、どうやったらいいのかしらなんてお思いの方多いかも。
小生が、導入までを完全リポートします。

まず、IH導入には住居の設備的条件があります。まずは、ここをクリアーしていないとダメなんですね。
たいていは、新築一戸建ての住居を建てるのに同時に導入する場合や、持ち家(分譲マンションもOK)は問題ないのですが、賃貸マンションは管理会社、大家の許可が前もって必要になります。
で、うちの場合は、

【賃貸マンション 単相3線式 30A】
で管理会社、大家のOKが出ました。

電気の配線には、単相2線式と単相3線式というのがあります。
「単相3線式」は、3本の電線のうち真ん中の中性線と上または下の電圧線を利用すれば100ボルト、中性線以外の上と下の電圧線を利用すれば200ボルトが利用できます。「単相2線式」は、電圧線と中性線の2本の線を利用するので、100ボルトしか使用することができません。
おうちのメーター、分電盤を見れば表記が書いてあります。

IHクッキングヒーターは通常のコンセントでは使用できないので、200Vのコンセント(エアコンとかの大きなコンセント)を電気工事してもらわないといけないのです。
この工事は、小生の場合は19500円でした。

そして、IHクッキングヒーターで20A使うので、電気の契約容量をあげないといけません。電気工事店に聞いたところ、60Aあれば大丈夫とのことでした。エアコンや冷蔵庫、テレビ、電子レンジなど同時に使った場合でもブレーカーが落ちない容量が必要だということですね。


これが「単相3線式」の図


契約変更で60Aブレーカーを取り付ける

ということで、30Aでは容量が小さいので60Aに電気の契約をあげなければいけません。
あげるのには、お近くの東京電力のコールセンターに電話して依頼しましょう。
さきほど言った配線の問題で60Aに上げれない場合もあります。
ちなみに、東京電力では、「eスマイルアシスト」と言って
IHクッキングヒーターの販売から据付、配線工事まで一貫してやってくれるサービスが
あります。
http://www.tepco-switch.com/ih/to/support-j.html


天井から配線をひっぱって、キッチンに配線してもらいます。

ちなみに小生は、
価格.comにて劇安値で購入したため、上のサービスは使わずに
住宅電気工事センターに電話して、電気工事店に配線をやってもらいました。
http://kakaku.com/sku/price/212340.htm
なんと、定価16万弱のIHクッキングヒーターが6万弱で購入できました!!
もちろん最新式の新品ですよ!!

IHクッキングヒーターにしたいと思いついてから
導入までの流れが以下のとおり。


【8万円で導入完了!! IHクッキングヒーター導入までの道のり】

8/29
・東電カスタマーセンターにとりあえず分からないので相談の電話をする。

「これから導入したいのですが、IHクッキングヒーターを導入したいのですが工事の見積りってだせますか?」

自分でIHクッキングヒーターはネットで購入予定だったので、これは自分で買って
工事店に配線してもらえれば安く済むのでは!?ということにうすうす気づく。

・マンション管理会社にIHクッキングヒーター導入良いか確認の電話を入れる
管理会社、大家ともによく理解していない模様だが60Aに上げることが可能とのことで導入OKとのこと。管理会社も大家も「IHクッキングヒーター」の単語すら知らない模様。


9/1
・東電にカスタマーセンターに電話

契約変更の申込 30Aから60Aへ変更依頼
大丈夫そうだが、現場で配線を見て出来ればその場で契約変更(ブレーカーの取替え)
になるとのこと。

基本料金が上がりました!
30A(780円)→60A(1560円)その分、ガス台使用量は0円に!


9/4
・契変作業実施

ブレーカーの取替え作業。10分ほど。取替え中は停電します。
1階に住む大家さんが「IHクッキングヒーター」導入についての作業がよくわからないので、東電さんに後でうちに寄って説明して欲しいと管理会社からことづかったため、大家を訪ねてもらうことに。

価格.comでIHクッキングヒーターの価格を調べ即効、購入!
メーカー名:ミツビシ
型式:CS−H2202CS
口数:2口
ネット通販で定価160000円のところなんと60200円!!(送料込み)

これは、1口がIHになっていて、もう1口がラジエントヒーター
ラジエントヒーターでは、土鍋や鉄製のフライパンも使えるので
今までのも使えるので無駄な出費がないのでこのIHを買いました。
さらに、魚焼き部分がほかのメーカーのよりずいぶん大きいのも良いですよ。


9/4
・住電工(住宅電気工事店)の紹介で江口電気に200Vコンセント、配線工事を依頼

住電工の受付嬢(おばさん)は、受付しかできないようなかんじで、
IHの話をしても分からないので、電気屋から電話させます、としかできない対応でした。
これでは、良くないなぁ。
折り返し、住電工に登録されている電気工事から連絡が入る。
工事店さんはいいかんじのおじさん。日取りを決める。


9/6
・IHクッキングヒーターが代金引換で到着
早い!!


9/8 
・江口電気で配線工事完了(19500円)


美しい配線!!


配線を天井裏からひっぱってきて、キッチンのIHのうえまでひっぱってきて
ケーブルを露出して、200Vコンセントを設置。

・東京ガスに連絡しガス台の元栓の撤去を依頼


5、6000円の費用がかかると言われ、ガックシ。
出る人には冷たいなぁ。


9/9
・東京ガス、ガス台の元栓を撤去作業(3900円)自分で、ガス台を外してIHクッキングヒーターを設置


このガス台ともおさらば!ガス台まわりすごい油汚れでした。。。

・東電カスタマーセンターに電話
IHの型番などを確認する機器確認が必要だと、契約変更時に聞いていたので
さっそく東電に電話する。

9/11
IHクッキングヒーター機器確認実施
契約変更の担当と同じ方がやってきたので安心でした。楽しい
機器確認ができ、スマイルクッキング割引も申し込み完了。

IHクッキングヒーター利用者には割引制度があります!!
http://www.tepco.co.jp/e-rates/custom/gokatei/smile/index-j.html


ついに念願のIHクッキングヒーター導入完成!

導入まで2週間ほど。
使ってみた感想は、パワーがすごい。そうじが簡単。天板のスペースが余るので皿やジプロックなども置けて広く使える。料理が楽しくなる。
あとは、料金がどれくらい変わるかが問題ですな。冷や汗
| テリー植田 | フード | 01:54 | comments(0) | trackbacks(7) |
2006.09.07 Thursday
安斎肇さんインタビュー@高円寺


「『日本の音楽のルーツは中央線の奥にある。』って言うのは、はっきりしている。そういう系譜がある沿線ってないんだ。」(安斎肇)


ソラミミストでイラストレーターとして知られる安斎肇さん。雑誌「レコードコレクターズ」の装丁、JALのリゾッチャのキャラクター、NHK「just pop up」のロゴとキャラクター、象印マホービンの企業キャラクター、田中康夫氏の個人のキャラクター「やっしー」などのひたすらポップなイラストとデザインで世の中を楽しくする。湯村輝彦氏を敬愛し、ライ・クーダーとプリンスとサッカーをこよなく愛する安斎さんのとっても気になる青春時代を聞きました。案の定、この日も1時間の遅刻でしたが。
え、安斎さんって52歳なのっ?!

(取材と文:テリー植田 撮影:大澤麻衣)

・どんな20代を過ごしたのですか?

最初は、桑沢デザインに行って。大学受験でくじけて、一浪して桑沢に入ったんですよ。多摩美、武蔵美、日芸に行きたかったんですよ。3つとも落ちて。当時から実践的なデザイン学校として認められていたけど、ただうちの親父が決めただけなんですよ。うちの親父が美術手帳を見ていて広告があって、校長の桑沢さんが非常にいい人だって言い出して。自主的でなかったうえに、一浪の人ってなんとなく志半ばみたいなとこってあるでしょ。あきらめきれないところがあって、就職する気もなくて。それで3年間の研究科に行こうとしてそこも落ちて。そのまま就職しなかったんですよ、俺。当時つきあっていた女の子が研究科に進んでいたので、その子がパッケージの授業とか受けていたのでそこに顔だしたりぷらぷらしていたの。働かなくてすめばいいのに、誰も気づかなかったらいいのにって思っていたんだ。当時ワークショップ"MU!"(はっぴいえんどのレコードジャケット制作で有名)とか100%ピュアスタジオがあって、仲間が集まってデザインチーム作ってレコードジャケットやったりする傾向の時代だったの。そんなのマネしたのやろうって言われて、グラフィックーツアースーパーマケット、当時原宿にドゥーファミリーっていうブランドのデザインやってるお兄さんとお父さんが資本を出すとか言って株式会社から始まって。


はっぴいえんどのレコードジャケット

・ぷらぷらからいきなり凄いじゃないですか!

※桑沢デザイン研究所はこんなところhttp://www.kds.ac.jp/

でも、もう失敗でしょ?失敗の臭いがぷんぷんじゃないですか。(笑)半年ももたずに解散。またぷらぷらして、さすがに彼女が、働いたほうがいいんじゃないって言ってね。そこから麹谷・入江デザイン事務所に入って。農協牛乳とかのパッケージとかねやったの。いわゆる弟子に入ったようなものだから。三角定規洗ったり、ロットリング洗ったり。師匠が作業している横に立って、「ロットリング!」って言ったらさっと渡して。そんなの今も大好き。その後は、象印のロゴやったりね。横尾忠則さんとか和田誠さんとかイラストレーターの人って必ずグラフィックデザイナーとしても表記されるから、イラストレーターやってる=グラフィックデザイナーやってるっていう意識だったんですよ。でも実質的に言えばイラストは描いてなかったから、読者だよりの挿絵とか描かせてもらったり。得意でもない点描でえんぴつとかね。ほんとに楽しかった。

・その時はまったく今の「安斎肇タッチ」は出来てないんですね。

そう、全然。うちは親父が肖像画家だったんで、いわゆるリアルに関しては一目あった。

・じゃそのDNAは受け継がれているんですかね?

まったくリアルなものは好きじゃないし、それよりも頭の中にある奇妙な生き物を描いてたほうが気持ちよかったから。だからそれを描きたいために親父にリアルなものも描けるんだぞっていう基本を見せないといけなかった。見たものを描けないと想像したものなんか描けないんで。一生懸命リアルやってたんですよ。クロッキーとか凄い好きですよ。ぼーっとしてる時とは描いてますよ。

・初めての職場はどれくらい続きましたか?

僕はほとんど3年ですね。3年やって失恋して、恋も3年で終わって。最後の1年は抜け殻のように働いていたんだけど、友だちにめちゃめちゃナチュラリストがいたんですよ。そいつとカナダに行ってだんだん気持ちが変わってきて。このままでは地球は壊れてしまうぞ、なんて。自分たちがちゃんと生きるためには自分たちでちゃんとしないといけないって。その友だちには、雪山に自分で家を建てて、自給自足で生活している人がいるんですよ。雪の間はロッジとして、夏は畑耕して生活している。あっちこっち旅行をして家族で住んでいる。いやーもう理想的じゃないですか。これだって!思って仕事を辞めたいって話をして、俺もこれからも自然の中に生きようって思って行ったらめちゃくちゃ暖冬で。

・すごいオチだなぁー。


雪の降らない雪山のイメージ図

一番人でのほしい冬が暖冬でロッジのお客さんが1組くらいしか来なかった。あまりに来ないんで、ロッジ建てたおやじは出稼ぎに行ったんです。奥さんと子供とアルバイトの俺を置いて。急に何の音もしない山の中に残されて。雪って音を消すから、何にも音がしなくってにぎやかなはずの雪世界が、雪もフケくらいしか降らなくって。それを見てたら悲しくなっちゃって。2日くらい夕暮れになると雪見ながら泣いてましたよ。グラフィックーツアースーパーマケットやってたやつが、ちょっと人手が足りない。レコードジャケットがやりたいって言ってたよなと。言お前はだいたいったっけなーって。お前がいないと始まらないから、社長に全部話ししてあるから来いって言われて。毎日泣いててもしょうがないって思ってね。だってその年のまきは全部割っちゃったんだもの。(笑)そのまんまレコード会社やるのもいいなって山を降りて来たんですけど。実質、デザイナー2人だったんで。渡辺プロダクション系のSMSレコードデザイン室っていうところだった。桑江知子の「私のハートはストップモーション」(カネボウCMソング)で当たったものだから勢いついて小柳ルミ子とか出したり。僕はその中でとにかくロックをやりたい。レコードジャケットをやりたかったんだけど何でも良いわけじゃなかったんですよ。変なプライドがあって。ロックがやりたいって思ったけど話が違うと思ったけど、営業がやってるチラシとか看板とかついたてとかチケットとかの小さい仕事ばっかり一生懸命やったの。そしたらちっちゃい仕事も一生懸命やると目立つんだよね。今までは営業の人が手書きのコピーでやってたようなチラシをちゃんとデザインしてやると凄い喜ばれる。チケットもイラスト入りにしてあげるし、もういいよっていうくらいToo Muchなものをやってあげた


桑江知子の「私のハートはストップモーション」
※渡辺プロダクションってこんなとこ
http://www.watanabe-group.com/

・その時にはもう安斎タッチが出てきてますか?

いや、まだまだ。西海岸最高みたいなの。やしの木が飛んでるような。80年になるぎりぎりあたり。1983年にフリーになってるんですよ、たぶん。


「西海岸最高みたいなの」イメージ図


「パープルレイン」の大ブレイク前あたりですね。


そう、プリンスで言うとね。もともとメインのことをやるのが好きじゃなくて。なんか恥ずかしいんですよ。いろいろやりたいことはあるんだけど。「俺に、ジャケットデザインやらせてくれよ」って言うのがすごい恥ずかしいから。いつも友だちにやらせて、後ろでこっち方がかっこいいよって、全部後ろで糸をひいてるみたいなのが好きなんですよ。SMSの時もすごい会社を救ったんですよ。志村けんと加藤茶のイラストを描いて来いって社長に言われて。俺ははなから描いて来いって言われたら描かないから、友だちにメインに描かせて、俺は2人をペンギン化して描く。そしたら落ちるじゃないですか。友だちは正直に似顔絵を描いてきてそれがジャケットになって、俺は後ろジャケットにヒゲのおまけつきっていうのをやった。ジャケットを切ってまるめるとヒゲダンスのヒゲになって、あと蝶ネクタイになるのを裏につけたんですよ。ダ、ダ、ダ、ダ、ダンダンって歌詞ないから歌詞カードもつけれないじゃん。はじめて褒められた。「そんなおまけは子供は絶対喜ぶしね、子供が作ってみんなが遊んだらいい。しかも、ひとつっていうのがいい。子供は兄弟がいたら2枚買う。1枚しか売れないところ2枚買ってくれる。」ってね。ヒゲも1枚でペロっていうのは誰でも考えるから、2枚にして盛り上げて本物のひげみたいにしたんですよ。


「ひげダンス」ジャケ写 右端にはおまけつきの文字が。


プリンスの「パープルレイン」は1984年

・すごいアイデアですね。意図的にやったんですか?

ううん、全然。(笑)だって、1枚に描ききれなかったんだもん。(笑)

・僕それ、持ってますよ。小学生2年当時は買えなかったけど。セロテープにマッキー極太で黒く塗ってヒゲにして口元に貼ってました。今、僕は東村山市民ですし。

ちきしょう!商売がたきだなぁ!(笑)

その頃、野球を一生懸命やってました。渡辺プロダクションの野球大会。渡辺プロダクションの中でも赤字で弱小な会社だったんで、野球でめだってやろうと思って。一番で、左うちになり、その頃は足が速かったので。野球大会の盗塁王と三振王を両方持ってますよ、二年連続で。今もバッティングセンターたまーに行くけど。

・サッカファンの前に、野球されてたんですね。ぼくは、幼い頃は、近鉄バファローズファンで。
中西だ!

・そう、太(ふとし)っすね。バファローズキャップのデザインをした岡本太郎ファンで、あのキャップをかぶりたいために野球始めたんですよ。

へぇー!ほんと、そうなんだ。あれは、それこそ言ってみればアメリカンフットボールみたいなデザインで凄いかっこ良さがあった。すっかり顔が赤くなってきましたけど写真大丈夫ですかね?(と、カメラマンに気を使って)

・いよいよ83年、フリーへの道ですね。

長いね、今日は。辞める勇気はそんないらなかったんですけど。どっちかって言ったらその後の方が勇気いりましたね、一人でやっていくっていうのは。その頃は30歳前、29かなぁ。みんな会社変わった時には良いポジションに入っているから。

・いろいろ考える時期ですよね。サッカーで言うと中田hideと同じですよ。決断の時ですね。

あ、そうか。ひとつだけ、主張しないといけないということに対して今まで以上に勇気がいったけど。それ以外のものはめちゃくちゃ楽しかったですからね。あらゆる意味で楽だったし。湯村輝彦さんが大好きで何かある度によく行ってたんですよ。湯村さんに、このままレコード会社で仕事していた方がいいでしょうか?って聞いたらね。「安斎くんはねぇ、辞めてねフリーでやっていったほうがいいよね。」って言われたんですよ。へえー、湯村さんこんなこと言ってくれるんだって嬉しくて。じゃ、ぼく辞めますって。友だちのカメラマンの飯島薫はすごく心配してくれて。飯島はうちのアシスタント、電話番に来ない?って誘われたんですよ。で、電話番をして、安斎くんは部屋代いらないからって。西麻布のおしゃれなところで。交差点近くのレッドシューズとか入ってるビルで。狭くてそれこそ10畳もないとこで。撮影スペースがいるからって言われて、これだけスペースいるからって。機材をここに置くからって。安斎くんは、自分の作業テーブルをデザインしなよって言われて。デザインしたのはこれくらい(80センチくらい)の幅だったんですよ。電話を置いて、作業できるっていうのを最大でとってやったらこれくらいの幅で。めちゃめちゃ不便で。バーのカウンターくらいしかないんだよ。当時は版下だから、版下が曲がって壁にずるずるずる〜ってなって窓の外に出たりしてたの。そんなんで仕事してたけど楽しかったなぁ。なんかすんごいめちゃめちゃフリーでやっていくことに燃えだしてきて。ひとつひとつ一生懸命やりたくなったんですよ。留守番電話はあるじゃないですか。あれを、ちょっと声色使ってやったり、人のモノマネでやったりしたんですよ。そのうち沼田元気って人がいろいろアシスタントを連れてきたの。で、アシスタントとかけあいで留守番電話を入れたり。だんだんアバンギャルドになっていって、もしもしもしもしって不機嫌な出方をして急に平謝りになったりとか。そういうコント系のことやったりとか、落語やったりとか。出囃子をどうするとか音楽をどうするとか、歌うたいながらやるとか。毎日そういうのを帰る間際に1時間くらいかけてやってたんですよ。ある時、飯島が「安斎くん、留守番電話がすごく不評で、俺の仕事が減ってるんだけど。」って言われて。その時やったことで。飯島くんが趣味で買った16ミリカメラがあって。壊れていて撮ったつもりが全部黒味になっちゃってて。だめだなぁ、って。でもこれひっかいたら絵が描けるよって言われて。針で引っかいたら白く絵が抜けるんですよ。そんなのやったりしたのが、立花ハジメっていう人が気に入ってくれて。プロモーションビデオに使ってくれたり。NHKのタイトルに使ってくれたり。へんなアバンギャルドなことがしたくて、ダンボール切ったりして。それをかぶったりして音楽にあわせて踊ったりして、それを見た人にパフォーマンスで呼ばれたりしたりね、インチキなことしてて楽しかったですね。

・それは、メインから外れていくっていう安斎さんの法則なんですかね。

いまだに本職じゃない人がやってることが好きなんですよね、なんか。そういうのって別に遊びでとか、クオリティーではない。

・そういう遊びがコネクションを広げていったんでしょ?

当時はそこでどんどん友だちが出来ていってその友だちが仕事をくれて。宝島の関川くんだったり、渡辺祐(たすく)だったり。全然たいしたデザインしていたわけではないけど面白がってもらえてた。立花さんにYMOのツアーパンフのデザインいっしょにやらないって言われたり。

・凄いなぁ。その当時はそういうつながりがすぐにカルチャーになっていった時代ですよね。

責任持ってた、それぞれ。ちょっとしょってんじゃないのっていうくらい。自信過剰なまでの自信。今だったら鼻持ちならないようなやつらがっかりですよ。面白かったよ。漫画トラっていうのをやるようになって。漫画に音が入ってるの。湯村さんところに行ったら、「安斎くんね、俺フリーになれなんて言ってないよぉ〜。」って言われて。「安斎くんはレコード会社にいるから安斎くんなんだよ。レコード会社にいて俺に仕事をくれるから安斎くんなんだよ。なんでフリーになっちゃったの?!」って。だって、フリーになったほうがいいって言ったじゃないですかって。「いや、フリーっていうのは、そういうフリーじゃなくて、レコード会社の仕事もするフリー。」で湯村さん何をしますって言ったら、杉浦茂(宇宙や戦艦漫画で有名な大御所)さんの漫画が大好きだから杉浦さんに会ってみたいって、湯村さんが言ったんですよ。その杉浦茂さんの漫画を載せて、湯村さんが杉浦さんに会いに行くのをドキュメンタリーでやっていい?ってことになって。湯村さんとタラさんを連れて、音をとりながらやりましたね。それは今じゃ杉浦さんもいないし感謝されてますね。


湯村輝彦さんってこんなジャケされてます。


こんなのも

(ここで取材をいったん切り上げて、純情商店街へ撮影へ。撮影終了後、焼き鳥屋からデザイナー杉山さんの事務所へ移動して後半戦再開。コンビニで安斎さんが好きなキリンクラシックラガーを買ってきました。)

・では、続きをお願いします。29歳くらいまで行きました。

まだ29歳かよ!

・どんな30歳代でしたか?ぼくは今34歳ですけど。

あんまり年で考えたことないんですけど。

・それが、安斎さんが若い秘訣なんじゃないですか?

すっごいおじいさんみたいじゃないですか、俺。

・ハハハッ。今、52歳でしょ?40すぎくらいかと思ってましたよ。

待ってくださいよ。同じだって!だって、40も50も同じだと思いません??!!
それこそ一番いろんな先のことを考えた中学のころ、15、6歳。40、50歳はあたりまえにじじいですよ。30だってそうだよ。

・僕が34歳で安斎さんが53歳。20歳くらい違うじゃないですか。後20年先のこと考えられないですもん。

いや、逆にうらやましいですよ、めちゃくちゃ。僕これから20年だと70やんか!ねぇ、やんかって。やんかがでることもないですけど、自分のこと思ったら、これから何ができるかって思ったらね、それほど欲張ったことは出来ないでしょうね。でも、30から20年なんて、僕のほとんどの、例えば。自分で客観的にその、評価というか、客観的に自分を紹介する時に一番メインにみせたいと思っているのは30歳代の仕事ですよ。30から40歳にかけての仕事。リゾッチャもそうだし、デザイン的なものもそうだし。レコードコレクターズっていうのは、僕にしてみたら元のミュージックマガジンっていうのがあって。その中村とうようさんがやってたミュージックマガジンっていうのは、ミュージックマガジンのデザインっていうコーナーがあって、そのコーナーで2回だけ出たことがあったんですよ。僕の目標はそのデザインのコーナーに自分のやったジャケットが取り上げられるってことだったんですよ。それをある程度ね、2回だけでもとりあげられて、すごい嬉しくて。そのミュージックマガジンから派生したマニアなレコードコレクターズに関してはすごく尊敬というか自分の中では音楽に関わる中では一番の高みだと思っていた。で、その雑誌の表紙をやることになったので、自分で100冊やろうと。1冊でもいいから結果を出そうと思ってやったんですよ。そんなこと決めなくていいのに。あの時期は僕の中で円熟期であったような気がしていて。一発しかなかった頃の、一発に勝負をかけてた頃の30歳代のデザイン、イラストはヘタだけどなんか怖いものがありますよ。


レコードコレクターズってこれ。

・その頃はたくさんほかの仕事もされていたんでしょ?

いや、そんなに。僕は仕事も遅いし、人つきあいもうまく出来ないので。そんなに思うほど忙しくはなかったと思うんですけどね。


当時は誰もが知っていたリゾッチャのキャラクター

NHKのjust pop upのロゴもそうですよね。観ていましたけど、インパクトありましたよ。フリッパーズギターとか岡村靖幸とかとがったアーティストもたくさん出てましたよね。

あれは、アートディレクションから全部やっていましたからね。だってひどかったんだから。当時、僕の中では育ってくるかんじが自分で分かっていた。すごく見栄を張って、このままでは日本のデザイン界がだめになるぞっていうきばったかんじの、余分な力が入りまくった時期と、まったくもうデザインというのは「美しさ」ではなくて「意味」だって思いだして来た時期があって。「意味」を考えだした時期と今のようにデザインは楽しくなければデザインじゃないと思ってる時期があって。タイミングによっていろいろ来るんです。その中で一番しょってた時期がjust pop upですね。「NHKの番組全部つまんないですよ。」ってNHKの前で言ったの。なにも美しいものはないし、NHKにロックを紹介することは無理だって。だから海外からもらった番組をどんどん流したほうがいいですよって。そういうのも出来なくて日本の歌謡曲流しても意味ないでしょって。結局事務所が勝ってるだけの話で。事務所が同じでタレントが変わってるだけだから。意味ないからやめたほうがいいですよって言って、もうその日でNHKとは関わらないどおこうと思ったら、めちゃめちゃ気に入られちゃって。

・NHKになかなかそういう風に言う人もいないんじゃないですか。

そんな失礼な人いないでしょ?(笑)で、だったらやってくださいよって。just pop upのシステムを変えてね。楽屋から、NHK着いた時の札があるじゃないですか。ああいうのも出しなさいと。楽屋のケータリングから、音が出せるようにしたり。撮影と撮影の空き時間のケアとかも全部しなさいって。理想的な形にもっていけるように。ジングルを作って。どんどん自分の首を絞めていったんですけどね。

・すごい!デザイナーを超えたプロデューサーですよね。

当時ね、いくつかのロックアーティストをかかえている事務所のやつらと凄く一生懸命HNKを変えようってやったけど、でもね、凄い残念なことにロック自体が力が落ちていてね。唯一できなかったのは、テレビのそのもののシステムの中で、台本っていうのをもっと自由に、フリートークみたいにしてインタビューみたいに作りこみするのは出来なかった。すごく普通のものになった。フリッパーズギターとか当時はすごい難しいアーティストの方々に出てもらうこともできたし、それこそ名前はないけど才能をもった人たちの音楽を流すことがもっとできたらよかったのに。もっとたくさんできることはあったのに。
でもそれは、何よりも本当の意味でテレビのことを知らなかったからかなって、今思えばね。本当に知っていたらそんなやつらも巻き込んでねやれたら面白しろかったのにね。

※YouTubeで観てみよう!ハガキのあて先や背景イラストも安斎さんによる。http://www.youtube.com/watch?v=7whS3huMMlU&mode=related&search=

タモリ倶楽部に対してはそういう発言はしないんですか?

うん、まったく。(笑)ある訳ないじゃないですか。30歳の後半になって、タモリ倶楽部は40歳になってたかもしれないな。

・タレント的なポジションでテレビに出られるようになったのはタモリ倶楽部からですか?

う〜ん、えっとね。その前に、えっとね。何だっけなぁ。ヒットスタジオじゃないや何とかヒットっていう深夜番組がTBSであって。あんまり具体的に言うとあれだけど、全然面白くなくって。ナース井出さんとかいろいろがんばってたんだけど。番組が終わる頃になって、お前らのせいだみたいな言い方されてさ。最高にテレビっていやな世界だなって思ってたんですよ。NHKやった時はすごく希望に燃えていたんだけど、深夜のその番組でモチベーションがさがって、やりたくない状況でタモリ倶楽部に入ったんですよ。最初は、タレント的なポジションは大嫌いだったからデザイナーとしてやってたんだけど、タモリ倶楽部に出る段階でそんなこと言ってもしょうがないじゃんって。観られるようにしか観られないしね。空耳でいいじゃないって。

・最初は、「空耳アワー」っていう名前のコーナーじゃなかったんでしょ?

そうなんですよ。「あなたにも音楽を」っていう。いろんなものにもテーマ音楽があると。電信柱にもどんなものにも。それに途中から出て、小岩駅を写しながら、「小岩、私の小岩〜」ってピンキーとキラーズが流れるみたいな。ボキャブラに近いようなのだった。それと、クイーンのがんばれとか、アース・ウィンド&ファイヤーの青森県みたいなのをやって。そしたらそっちばっかり応募があって。画期的にそっちの方向に言って、でいつのまにか空耳アワーになったの。

・で、いつのまにか「ソラミミスト」ということですね。

あの番組は構成作家かいてディレクターがいて、それこそすごい何人ももアイデアでやってる番組だから、僕が参加したときはすでに企画もいろいろ決まっていたし、空耳アワーのタイトルに変わりますって言われて、安斎さん、肩書きはどうしましょうって。その前の「テーマ音楽評論家」でいいですよねって言われて。やめてって。それはすごく誤解されやすいネーミングだから。仕事頼まれて困ったこともあったし。もっとあやふやなものにしたいんで、「ソラミミスト」にしてもいいかなって。そしたらディレクターが「それはちょっと〜、わけ分からないっすな。」実質のあるものより訳わからないもののほうがいいからって、そうしてもらったの。それだけから自分で言ったのは。

・それが、今となっては世間では空耳のおじさんですよ。

こんな事態に人生がなるとは思わないでしょ?一所懸命デザインがんばってきてさ、イラストレーターとしてもがんばってきてさ。結局世間は空耳の人だからね。

※それでは、安斎さんの出世テレビ番組を観てみましょう。あれ、いない?!http://www.youtube.com/watch?v=qdrxgbpAB3I

・それも良しってかんじですか?

良しっていうか、もう認めざるを得ないでしょ。いくら抵抗しても意味がないじゃないですか。お前が犯人だって言われているんだから、私が犯人ですって言うしかないよね。
やってませんって言ってもね、やっちゃってるしね。

・逆ジョンベネのカー容疑者の心境ですか。(笑)


実はやってなかったカー容疑者!

カー容疑者もいいかげんだよなぁ。無実だって分かりつつああいうことする人づるいよね。だからあんなに堂々としてたんだよね。どこかで一瞬、ほんとうに犯人にされちゃうかもって、でも俺やってないからみたいな。

でもロリコンであることには変わりないっていうね。

あれは発表の場としては最高ですよね。あの人どこに行っても「かわいい子入りましたよ!」って言われるもんね。あの世界の中では3本の指に入るでしょ。

もう、SHOW-OFFの連載とか頼んだほうがいいんじゃない?!

・メールでねって、俺も捕まってしまいそうじゃないですか!

タレントっていうのは才能のことであまりある才能のある人で、なんでも対応できるっていう意味だったわけでしょ。もうソラミミストって呼ばれていいやってかんじかな。
いまだに表に立つことがいやですもん。できれば後ろで仕事することがいいな。それこそ前にでてものを言うことが、僕の友だちがそうだからそう思われているけど。いわゆる、ちゃんと自分の意見がある人じゃないといけないと思うんですよ。僕、ないもん。意見は聞かれればあるよ。もともと何かがしたいっていう強い意思があるわけじゃないですか。例えばみうら(じゅんさん)みたいに日本の常識を変えるまでの勢いっていうのは僕にはないわけだから。ただたんに、いっしょに仕事をしているからそういうイメージがあるかもしれないけど。僕自身はまったくないですよ。ないことに対して悪いと思っていない意識の低さみたいなのはよくないけど、ないことに対して全然悪いと思ってないし。実際は、ないわけじゃないからね。僕はものを作るっていうことで表現をするだけで。その表現は、もともとものを作られてくれた人が持っているものだとしてもそれをきちんと見せてあげたり、きちんと形にしてあげたりすることがすごく大事なことで、それをやってくれる人がいないから、すごくゆがんだ伝わり方をしちゃうから、なんだか分からないけどものをマイナーだとかメジャーだとか言ってみたりするじゃないですか。あんなのただ単に気の使い方だけじゃないですか。メジャーとマイナーと呼ばれるもののさがあるじゃないですか、表現の違いだけだと思うんですよね。

・出会いによってデザインする意味が変わってきたとおっしゃってましたけど、今は楽しくなければデザインでないって気持ちですか?

面白くなければ伝わらないっていうのを、みうらじゅんって言う人に教えてもらった。すごくそうだと思う。実際そういう風になってるじゃない。バラエティーでなければ通じないみたいなところがテレビだとあるじゃないですか、良くないことだと思うけど。シリアスはシリアスに訴えてほしいじゃないですか。みうらは、シリアスなものはシリアスでなきゃいやだとも言っている訳で。そいうことに共感してものをいっしょに作っていくっていう楽しみがすごいありますよね。

・10年、20年先にそのかんじって変わってくると思います?

このかんじは、もっとレイドバックすれば面白くなると思っているの。ほんとだったら、線一本引いて人が笑ってくれたらいいんだ。それが理想で。デザインもすごい凝ったものが好きなんですよ。本当はそんな展覧会とかやりたいんだけど、実際できないからね。お金も時間もかかるから。そんなのがすってできたらいいなって。デザインは複雑なものを見せれたらいいし、いろんな感情を込めたいし、絵を描くときはもっとストレートにしたいなって思ってるんですけどね。

・みうらさんとの最初の出会いってどんなのだったのですか?

みうらくんとはね、野沢直子ちゃんの誕生日パーティーで西麻布のクラブで。いろんな浮かれている人たちの中で妙にはじけだされたかんじで、俺とみうらくんがいたの。他に友だちがいなかったのと、華やかな雰囲気になじめなくて。そしたら向こうから友だちになってくださいって近づいて来て。で、飲みながら立ち話していて。安斎さん、ロック好きですよねみたいなロック話になって。だいたいこのパーティーロックじゃないですよねみたいな会話になって。そのうち、話しているかんじが漫才みたいになってきて、こんなとこにエリック・クラプトン来ないちゅうねん!こんなとこにジョージ・ハリソンいたら大ゲンカや!みたいな。(笑)そういうロックネタで漫才を2人でずっとしていて、そのうち、盛り上がって来て、ソファーに座っている人たちがいて、その人たちの前でやって。ちょっと面白いねって言い合って、そのうちまた飲もうねって。それから毎日のように飲むようになっちゃって。こんなに10代のころの話を面白がってくれるやつもいないし。ひさびさに高校の時に戻ったみたいで。すごいインパクトありましたね。でも最初はね、言い方悪いかもしれないけど、みうらに言わせれば、俺はおしゃればデザイナーさんだったから。余計なことをすると。いわゆるちゃんと面白いものをおしゃれに変えてしまうと。面白くなくしてしまう人だと、みうらからすると。僕も実際はそうは思ってはないけれども、でもものを伝えるときにはある程度のビジュアル的なクオリティー、美意識は必要じゃない?っていう思いだったから、最初のうちは、みうらくんに仕事頼まれてやったときは、何度か衝突はしてますよ。


みうらじゅんさん&安斎肇さん


勝手に観光協会のジャケ

・へぇー、そうなんですか。それは2人のキャラクターからすると意外ですね。

でもみうらは、正しいことはちゃんと説得できる人だから。ぼくは、絵を見せてね、こっちがいいでしょとしか言えない人だから。そこにはちゃんとしたロジックはないからさ。みうらは、その当時からそういうのがちゃんとあって、プロデュース能力は。実際、デザインを見せてかっこいいねって言われるより、大笑いされるほうが快感になってくるんですよね、俺は。その中にちゃんとしみるかっ良さがあればいいと思う。

・今の安斎さんのスタイルが出来たのっていつごろですか?

確立してない。(笑)おごった言い方をすると、デザイナーってひとつのテーマで大げさに言えば、100種類くらいデザインをみせないといけないんですよ。その中で今回、10とか1とか2とかにしぼる作業じゃないですか。僕はスタイルはないですよ。イラストにはあるけ。イラストレーションはスタイルがないと話にならないけど。その問題が僕の中ですごいジレンマでもある。お題や素材があったときにいろんなイメージがわくけれど、イメージを主張することが出来ない。イメージを作ることはデザインの仕事。イラストレーターはそれを主張する作業だから。主張するっていうことが身につくまではちょっと大変だった。

・安斎さんが影響受けた人って誰ですか?

湯村輝彦さんに心酔してからは一途ですね。いまだに湯村さんだな。音楽は、何人かいるんですけど、1人って言われたらライ・クーダーなんですよね。ぼくからすると湯村さんは、これは言ったらいけないのかもしれないけど最初僕が見たときは、河村要助さんとほぼ同じいっしょだったんですよ。でタッチが似ているので今のタッチに変えたんです。それで今のヘタウマって言う世界を作ったんです。そこには、絵を描く情熱が強くあって、その情熱が全てで。思いがほとばしりすぎて思わず描いてしまうんだっていうのが最高の絵であると。技術ではなくて情熱があるかどうかだっていう心情にとても共感し、湯村さんはグラフィックデザイナーでもあって、日本の中でもそうとう、一番好きかもしれない。すごくいろんな意味で絵もデザインも生活スタイルも好きですね。新宿の猥雑な中に、白亜のコンクリートの要塞みたいなのがあって。そこに南国の木が2本空高くそびえたっていて。階段を上がっていくと「タランチュラに注意」って書いてあるの。(笑)扉をあけるとプーンとなんともいい香りがしてきて、靴は脱ぐんだけど、湯村さんは当時、バスケットシューズを履いていて。家具は全部白で、そこに赤いライトとか赤い家具がポイントポイントにあって。真っ白なシャツに真っ黒な湯村さんが出てきて、「会いたかったんだよ。」って握手されて。筋骨隆々ですよ、まゆげのない長髪で。(笑)ずっとソウルミュージックがかかっててもうすんごいですよ〜。好ききらいがあるかもしれないけど、ここまでの美意識があるのはすごい。で、キュキュキュキュってマジックで絵を描いてくれて。あ、これでいいですよって言ったら。もうちょっと描くよ。キュキュキュキュキューッって。いやー、抱かれてもいいなって思った。

ライ・クーダーはどうですか?

音楽の探求者で、それこそ、古きよき伝統音楽。音楽家たちを訪ねていって、その音楽家から吸収したものを今によみがえらせていくみたいなことをやっていて。あの人の不器用さがすごく好きで。自分は譜面も読めないし自分自身は音楽に対して造詣がないから、不器用な人が一生懸命やっているものに感銘を受ける。その共感をする部分と、スライドギター、ボトルネックという奏法が音楽の中で特別に好きですね。

http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_m/249-2418057-6903505?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dpopular&field-keywords=%83%89%83C%83N%81%5B%83_%81%5B
ライクーダーのCDはアマゾンでゲット!

・ボトルネック奏法のCMもありましたよね。

なんというの、弦が触れる音とか、弦を放してボトルがこすれる音とかああいうの聞くと無性に悲しくなるんですよね。

・僕は、落ち込んだとき、部屋を真っ暗にして「パリ・テキサス」(ヴィム・ベンダース監督)のサントラを大音量でかけたりしますよ。

キュルキュルキュル、ドーンって。それもどうかと思うけど〜。(笑)

・いいじゃないですか!ほっといてくださいよ!(笑)


「パリ・テキサス」サントラジャケ

彼女ができるとライ・クーダーを聞かせるっていうのが常ですね。ライ・クーダー聞いていいねって言う子じゃないと本気になれないっていうか。なんかヘタねとか、もうちょっときれいな音楽が好きとか、素朴すぎとか言われるとね〜。今はキューバ音楽にいっちゃってますけど、ライ・クーダーには早くボトル・ネックの世界に戻ってきてほしいんですけどね。もうああいうのはやりたくないんだろうな。くやしいな。

・ライ・クーダーは、プリンスとまったく対極ですね。

うん、まったく逆ね。プリンスは天才ですからね。しかも完璧主義じゃないですか。そういう意味ではまったく対極にいる人で、だから好きなんですよ。人は、やっぱ、なんて言うのかな。溢れんばかりの才能のために世の中から外れてしまって笑いものになるくらいじゃないとだめなのかな〜。ねぇ。いまだに音の配置とかかっこいいですよね。

・こないだのアルバム「3121」はほんとうにかっこいい。しかもアルバムまるごと何回も聴けますね。全曲いい。

僕も、僕も。やられたなぁ、ねぇ。ベストアルバムは、聴いた曲ってこともあってもうBGMになってきてるじゃないですか。こないだのアルバムはかっこよかったなぁ〜。


プリンス最新アルバム「3121」

http://www.amazon.co.jp/%30a2%30eb%30c6%30a3%30e1%30a4%30c8%30fb%30d9%30b9%30c8/dp/B000EIF8Y6/sr=1-1/qid=1157557776/ref=sr_1_1/249-2418057-6903505?ie=UTF8&s=music
アマゾンでベスト盤は購入可能です!

プリンスのベスト盤は12インチシングルがたっぷり聴ける

・プリンスの動きがあればまたトークショーやりたいですね。

離婚しちゃったしねぇ〜。

・じゃ、最後に高円寺の若者たちに良きアドバイスをお願いします。

僕のね、僕の世代というか、僕の中では中央線というのはすごく特別なものなのね。それは、たとえば高円寺じゃないよね、って吉田拓郎が歌ったように。僕がラジオにハガキ出して観に行ったコンサートで言うと武蔵野系の人たち、高田渡さんにしても。いっぱいこの中央線沿線に、中川さんも、いたわけですよ。僕はたまたま池袋の東武東上線っていうところに生まれてしまって。雑多なやぼなところで育っちゃったもんだから、やっぱりたとえ同じようにラジオを聴いていても、中央線のイメージを歌った歌とかあるけど、すごく結びつかないものとかたくさんあった。渋谷で桑沢デザインに入ったら、すごく中央線沿線に住んでるやつらがいっぱいいて。阿佐ヶ谷、高円寺、吉祥寺、三鷹、立川、福生とかいて。実際、福生というとこでワークショップ“MU”とかでいうはっぴーえんどとかのジャケットを作った集団がいて、そので細野さんの「HOSONO HOUSE」があって。日本の音楽のルーツは中央線の奥にあるっていう意識が僕の中ですごくある。それははっきりしている。音楽の系譜が。そういう沿線ってないんだ、ほかに。湘南のほうで桑田圭祐って言われても全然ぴんと来ないじゃないですか。まあ、比較するの良くないね。中央線というのは伝統とこういうカルチャーの中で、音楽、絵、漫画もそうだし、いろんな役割をしている場所で僕にとってはコンプレックスがある場所なんです。この場所に友だちもいるけど、なかなか踏み込めない。僕、中野までは来れるようになったの。サンプラザとかあってまだ来やすい。中野から先、高円寺からはいまだに違う意識になるんだ。そういう意味ではそこに住んでるっていうその場所の歴史を考えたらすごく力が出てくると思うんですよ。ちょっと歴史の上に立ってその歴史を踏襲することがないけれど、そこからまた新しいことを作るのにエネルギーもいるだろうし。大変なことだろうと思うけど、たぶん受け入れてる体制は街には整っているから、ここからはじめてもらったら嬉しいな。僕は今神奈川だけど、遠い福生からものが生まれたっていまだに思ってるし。絶対にそういう土壌に生活しているというのはとても大きいことだよね。

・9月の9、10日と狭山でハイドパークフェスがありますね。去年は細野さんがHOSONO HOUSEほとんどまるごとやりましたよ。あがた森魚さんとか加藤和彦さんとかも出ますよ。

ええー!あっそう。いいねー。僕の中では加藤和彦はヒーローなんだ。加藤和彦っていうのは京都の人ってかんじがあるね。

・みうらじゅんさんといっしょですね。

信用できないんだよね。うひひひっ。それは冗談なんですけど。若い頃ものを作るには環境って絶対大事だよね。そういう良い環境にいたほうが絶対得だよね。

※今年もハイドパークフェスは開催!!
http://hmf-sayama.jp/

・これからやっておきたい仕事ってありますか?

もういかにも死んじゃいそうな人みたいに。余命いくばくもない人に最後のインタビューみたいじゃないですか!(笑)

・そうなってもいいように、一応僕も人を選んで取材やってますから。

やりたいことは、めちゃめちゃありますよ。僕今、新しいバンドやろうとしてる。

・ええ!チョコベビーズ以外に!やる気マンマンじゃないですか〜。

あとは、イラストではなくてアニメーションを作りたくてそっちをやってますね。それと、ひとつマスターしたいって思って、ボトルネックギターをやろうと。それで年とったらギター1本持って地方を旅してね。ブルーズマンみたいな生活をしたいな。ブル〜ズマン。最終的にはそれが目標ですね。そこでも自分のキャラクターのTシャツ売ってたりしてね。すごいせこいんだけどね。

・そのときは、僕が売り子しますよ。(笑)

東村山に行ったときはよろしくお願いします〜。



【プロフィール】
安齋 肇(あんざい はじめ)

1953年12月21日
東京池袋生まれ 神奈川在住
イラストレーター、デザイナー

桑沢デザイン研究所デザイン科終了後、麹谷・入江デザイン室(1976〜1979)、
SMSレコードデザイン室(1978〜1982)を経てフリー。デザイナーとして、CDジャケットやツアーパンフレットなど音楽に関するデザインのほか、装丁を手掛ける。イラストレーターとしてはキャンペーンやイベントのキャラクターデザイン、雑誌連載を通し活躍している。また、ミュージックビデオの監督、CM出演・ナレーション、アニメーションタイトル作成、個展・グループ展、など広く活動している。1992年よりTV朝日系「タモリ倶楽部」のコーナー“空耳アワー” にてソラミミストとして出演中。1998年、CM・ナレーション部門のマネージメント・オフィスとして、「ワン・ツゥ・スリー」を村松利史、温水洋一らと設立、所属。

ワン・ツゥ・スリー
http://www.office-123.com/anzai.html


【主なCM出演 】
MMCコーヒー「コーヒー飲ませ隊」(1994)
中古車「ガリバー」(1997) 
丸大食品「燻製屋陶芸篇」
【主なCMナレーション】
秋葉原電気まつり「カモとカニ編」 
富士通「MO」(1996)
日清「ラー坊」 セガ「サタコレ」(1997)   
カルビー「サッポロつぶつぶポテト」 
味の素「BLENDY」(1998〜)
JR東日本「TRAING渋滞編」 
東芝「燃料電池発電」(1998)
SONYプレイステーション
「ENIXいただきストリートゴージャスキング」(1998)
ゼブラ「なかよしゼブラ」(1999) 
ジャストシステム「一太郎11」(2001)
ファミリーマート(2001〜) 
キリンビール「グリーンラベル」(2002) 
佐川急便(2002)

【主なTV出演 / レギュラー】
TBS系「オフィスヒット」(1988.4〜1989.3)
TV朝日系「タモリ倶楽部」空耳アワー(1992.4〜)
NHK衛星「ジャスト・ライブ」(1993.4〜9)

【主なCDジャケットデザイン / アート・ディレクション】
「RESOCHA」(1996/SONY)
「RESOCHA2」(1997/東芝EMI)
スチャダラパー「偶然のアルバム」(1996/東芝EMI)
デキシード・ザ・エモンズ「ROYAL LOUGE」(1997/Epic Sony Record)

【主なツアーパンフレットデザイン】
奥田民生(1995〜1998)
UNICORN(1989〜1993)
THE CHECKERS(1984、1987、1989、1991)
BARBEE BOYS(1987〜1990、1992)

【主な装丁】
高見映著 「ノッポさんがしゃべった日」(1991/丸善メイツ)
いとうせいこう・みうらじゅん著 「見仏記」「秘見仏記」(1993、1995/中央公論社)「見仏記 海外編」(1998/角川書店) 
ジョン・W・デュフィ著/渡瀬ひとみ訳 「プリンス[1958-1994]」(1994/宝島社)
ローリー寺西著  「不思議の国のローリー」(1995/ソニーマガジンズ)
みうらじゅん著  「お堂で逢いましょう」(1995/弘済出版社)
高橋洋二著  「10点さしあげる」(1996/大栄出版)
しりあがり寿・西家ヒバリ著  「いっしょぐらし!」(1996/KOEI)
スチャダラパー著  「スチャダラゼミ」(1997/角川書店)
マイケル・ブラウン著/奥田祐二訳 「抱きしめたい ビートルズ’63」(1998/アスペクト)
近田春夫著  「考えるヒット」(1998/文芸春秋)

【主なキャラクターデザイン】
JAL「大平洋楽園計画・リゾッチャ」(1994)
テレビ朝日「秋のイベント」(1995)
AAA「奇跡の地球」エイズキャンペーン(1995)
弘済出版「タビダチくん」(1996)
シンコー・アーティスト「CIマークとロゴ」(1997)
RICOH「ZOOMくん」(1997)
レディオ湘南「サポーターズクラブ」(1998)
JRバス8社
「ツバメのジャーニー バス旅フォトラリー」(1998)
NTT「デザイン電報」(1998) 
カルピス「桃とカルピス」(1999)
明治製菓「チョコベビー」(2000) 
ベネッセコーポレーション(2001)
J-COM「はやくカエロウ」(2001) 
ノキア「Ai-yai-ya!」(2001)
JA共済「しあわせ夢くらぶ」(2002)
ファイブ・ア・ディ  『食べちゃえ☆野菜 食べちゃえ☆☆果物』
| テリー植田 | 高円寺 | 00:17 | comments(2) | trackbacks(35) |
2006.06.05 Monday
水道橋博士インタビュー(SHOW-OFF 06夏号)

水道橋博士と小生

遂に水道橋博士(浅草キッド)が表紙&巻頭インタビューに登場!!

念願というか、取材出来るとも思ってもみなかった浅草キッドの水道橋博士にインタビューさせて頂きました。高円寺のフリーペーパーSHOW-OFFの表紙&巻頭インタビューであります。高円寺在住の博士は、お子さん(たけし君)と高円寺中を散歩されて高円寺ではよく見かけられる存在。この原稿は、取材から入稿まで時間がギリギリで原稿チェックして頂く博士も翌日からK-1で韓国へ。なんと韓国で原稿チェックして頂き、校正してもらった。
僕が取材して、翌日には僕のアシスタント嬢にテープ起こしてもらって、原稿をまとめて、博士にメールして、韓国でチェックしてもらって、3度ほどやりとりしてギリギリセーフで入稿しました。ほっ。発行、配布は6月15日ですが一足早く、こちらで公開します!




「本当に高円寺に気持ち良く挨拶する街になって欲しいなぁ。」

子煩悩なパパぶりを発揮する水道橋博士の切っても切れない高円寺でキッドな関係とは一体??!!

(取材と文:テリー植田)



テ:高円寺に住まれて何年になりますか?

博:2000年末からだから、6年くらいですかね。でも、高円寺住人としてやっと念願の「SHOW-OFF」登場ですよ。苦節6年、猫ひろしや、弟子の東京ダイナマイトにまで先を越されたもん、いつ取材に来てくれるのかと思ってたよぉ(笑)


大槻ケンヂさん、猫ひろしさん、東京ダイナマイトさん、みうらじゅんさん、人間椅子さんに表紙を飾ってもらいました。

テ:お待たせしました。(笑)過去最長4ページでやらせて頂きます!では、高円寺に住まれるようになったいきさつから伺いたいんですけど…

博:それまで新中野に、ずっと10年以上住んでいたんだけど、青島元都知事が中野ブロードウェーに住んでて、都知事を退官するにあたって引越しするって、新聞で読んだのね、で、中野ブロードウェーに一回、娘さんの青島美幸さんを訪ねて行ったことがあるのよ。その都知事の後のマンションを買おう!って思ったんですね。

テ:すごい発想ですね。(笑)


これが中野ブロードウェイだ!公式サイトをチェック!
http://www.nbw.jp/web/index.html


博:単純にネタになるって思った(笑)まさに“クレージー”って感じでしょ(笑)それに中野ブロードウェイに住むって、自分自身がオタクの殿堂入りしたような気になるでしょ(笑)今や、あそこはお宝グッズが集結するオモチャ箱みたいになってるじゃない。そしたら先にもう手付けが入っていて。でもその勢いのまま、そろそろ40歳だし、賃貸じゃなくて分譲を買おうかなっていう気持ちが起きてね。そこからいろいろ物件を探していくうちに……。俺、一応、宅建主任の免状持っているほど、不動産はちょっとした専門家でもあるんだけど、そこは紆余曲折あるんですが、無事、姉歯建築士に出会うことも無く(笑)ヒューザーにダマされることなく(笑)高円寺に終(つい)の棲家(すみか)を構えることになったの。当時は『スネークピット』(高円寺にあるプロレス界の伝説ビル・ロビンソンがコーチのジム)に通っていたから、そこから近い所がいいと、まあ、もともとサブカル度数の高い、下北沢、高円寺が好きなんですよね。高円寺でなければ下北、候補地は二箇所だった。

テ:ロッキング・オンの山崎洋一郎さん(高円寺在住)が「高円寺ってなんとなく負け犬ムードがあるけど、何かくすぶっていてこれからひょっとしたらぶぅわっと爆発するような可能性に満ちてて、そういう感じが好きなんだ」って言われてたんですけど、博士は実際お住みになって、高円寺の好きなところはどこですか?

博:負け組みが住み着くところ?(笑)でも中央線沿線の感じは好きですよ。俺自身に山の手っていうムードがゼロだから。俺の中じゃ、代官山とか住んじゃいけない、白金とか行っちゃいけないみたいな、そういう意識を植えつけてるけどさ、まぁ、どこでも住めば都だと思うけど、将来的に言えば地元の岡山にも、あるいは海外とかいろんなところに住んでみたいんだけれど、少なくとも、今は高円寺には永住ってところもあるからね、35年ローンだし(笑)元々好きな街っていうのは中央線的な、サブカルの宝庫みたいなところがやっぱり好きですよね。それに本屋とか古本屋とかも大事だし、『高円寺文庫センター』なんか、最初見た時に、並べている本が「嗚呼、俺の本棚と一緒だ!」って思った。だから今も、俺の本はサイン本で置いてあるし、新刊じゃないものも、あそこには並べてもらってる(笑)その近所の『ZQ』なんて古本屋も、タレント本、プロレス・格闘技に絞っているんだけど、これは吉田豪の本棚かって思うほどマニアックに絞り込んでて、俺も実に贔屓にしてますよ。

テ:『ZQ』の品揃えはツボですね。一昔前の高円寺はロックの街っていうか、今もそう言われますけど、だんだんそのロック感が薄れてきてるように僕は思うんですけど、そのへんは感じますか?

博:俺はあまりライブハウスとか行ってないから、そのへんは疎いんだけど、でも、みうらさんじゅんさんの『アンデン&ティティ』的なロックの風合いって確かにあるよね。甲本ヒロト(※博士の中学時代の同級生)は、あんだけスターになっても高円寺のライブハウスに郷愁もっているから、お忍びで歌ったりしてるもんね、「あれ?今日、やけに高円寺に見慣れぬロック系の子が多いな」って思う日があるんだけど、そういう日は「ヒロトがやってきた!」って口コミで伝わってファンが全国から人知れず集まってんだよね。でも、お陰で、高円寺に住んでからはヒロトも気兼ねなく俺の家に遊びに来てくれたりするからね、でも、今、高円寺ってロックと言うより、古着屋の街みたくなってるよね。

テ:「JIROKICHI」(駅前にある老舗ブルースのライブハウス)でシークレットで歌われたことあるようですね。

編集部:今158店舗以上はありますね。

博:すごいですよねぇ。なんだろう、古着屋さんも、それぞれ個性があって趣味人的で好きなんだけど、接客のテンションって、なぜか皆、低いよね(笑)。それが自由な雰囲気なんだろうけどね。基本的に皆、社会人教育とか受けなくてやってるもんね(笑)、過剰なセールストークじゃなくて、ただの挨拶だけでいいんだけど。商売の基本は笑顔と挨拶ですよ(笑)いや、これはマニュアル化した不自然な作り笑顔とかじゃなくてね、心の姿勢としてね。これって芸人もヤクザも商人も一緒なの(笑)そういうことに気が付けば高円寺でも飛び抜けて大成功するのになぁって思うなぁ。俺としては高円寺って、サクセスを夢見る若者のエネルギーが満ちた場所とか、恋したり、ケンカして荒ぶれたり、酔いつぶれても、街が包み込んでくれるみたいな青春を過ごす場所みたいな感覚は、もう無いんですよね。それは、俺が、既に43歳で若者でもなく、風来坊じゃなくて、高円寺に定住して、親となって生まれて初めて「子育て」する街になったからだけど、ここで子供と共に、子供の少年時代の原体験を暮らす街なんだっていう気持ちが強いからさ、なんか若者のデタラメなアナーキーなパワーっていうのがあるとすれば、そういう雰囲気を街は残しつつも、見た目は刺青や髪の毛染めたパンキッシュな正体不明な野郎共がウロウロしながらも、実に覇気ある、秩序ある気持ちのいい挨拶が飛び交う、自然な礼儀正しさが残っている街みたいになって欲しいという気持ちが凄くあるんです。

テ:子供の目線で考えてるってことですね。

博:そう。子供にとって、社会との接触が過度にやさしく、過保護にあってはダメだと思うけど、だからって歌舞伎町的な、あそこまでのデンジャラスな過激さは当然のことながら欲しくないんだよね(笑)。どこまでも無秩序に広がっていくような、何が起こるかわからないサプライズな感じの街とかさ。そういうものを、今は、求めている訳ではないな。だって俺には子育てする場所なんだもん。

テ:完全にパパとしての発想ですね。

博:そうですね。昔ながらの純情通り商店街的な人情の良さを残しつつもさ、なんかこうパンクっぽいヤンママ、ヤンパパが子供を肩車しながら歩いてても、行き交う爺さんとかに笑顔で会釈しながら馴染んでるっていう感じがあればいい。「この人、あんな刺青でも良きパパなんだ〜」っていう誰もが違和感なく平気で安心感があるみたいな。そういう街を親としては望みますよね。それには気持ちよい挨拶からですよ(笑)それは、ここに末永く住み着くものとして、「人柄」「国柄」とも言うように、一つの「街柄」みたいなものを求めてしまうんだけどね……。

テ:博士はblogでも食べ物屋さんの話を事細かに書いてますけど、『四国屋』ってお店に「はかせうどん」を作るようになったのはどういういきさつがあったんですか?

博:食べました?(笑)詳しくは俺が連載している『WEBダビンチ』の4chの「勝谷誠彦篇」ってところを見てもらえば書いてますが、いきさつはあの通りでね。20年前、新中野の『四国屋』って、讃岐うどんの東京で唯一とも言われた名店だったところなんですよ。それを俺が20年前に食べてて、いつも特注していたのが、「合わせ肉入りうどん」だったの。その後、代変わりしてから、本店の味が変わっちゃったんだけど、先代の娘さんが高円寺で新たに店を始めて、それが再び、俺が高円寺に住んで、偶然にも20年後に出会ったの、しかも、それが“あのときの味”だったという美談でね。映画化決定だよ(笑)今、『UDON』って讃岐うどんの映画やってるし(笑)いや、サイドストーリーはともかく、実際、俺はうどん食いだから、東京中の名店、食べ歩いてるけど、「はかせうどん」は、贔屓目ではなくお奨め。Blogの影響もあって、今や、高円寺の新名所、行列店みたいになってるのがうれしいね。だってあんな小さなお店ですからね。

テ:五席くらいですよね。

博:本当においしいんだよ。ちなみに高円寺は環七通り沿いの『さぬきや』も絶品!!
とにかく、初めてあそこの麺を見た時、手打ちうどんの打ち立ての麺って、こんなに、キラキラピカピカに輝いてるんだ、って心底驚いたよ。一種のカルチャーショックを受けたもん。


テ:ほんと、『さぬきや』も美味いですよね。

博:今、讃岐うどんブームだと思うけど、他はメニューがお互いに似通ってくるけどね。ここの2店は、どこにも似てないんだよね。オリジナルな味。ちょっと高円寺を讃岐うどんの名所にしたいぐらいだね。四国だけに阿波踊りと一緒に高円寺の2大名物にしよう(笑)しかし、食べたこと無い人には、「さぬきや」の地鶏煮込みうどん、二色うどんとか、あの辺は一度味わって欲しいな。食べたことが無い人が気の毒というより、むしろ人生に、まだ味わったことのない食の楽しみを残しているのが羨ましいくらいだよ(笑)うどんだけでも、都内最高のものが食べられるんだから高円寺は最高!わかった、これから取材で、なんで高円寺に住んでるんですかって聞かれたら、「『四国屋』と『さぬきや』があるから」って言うことにしよう(笑)
テ:高円寺に住まれれて、何か一番思い出に残っていることだとか事件みたいなのってありますか?

博:それは、やはりこの街で子供が生まれて、親になり、親子で一緒に『スネークピット』に行ってることが大きいですよ、自分の中で、少年時代のヒーローだった伝説のプロレスラー“人間風車”、ビル・ロビンソンが高円寺に住んでいるっていう感じは同年輩のプロレスファンじゃないとわからないだろうな。

テ:一緒に住んでるって意識がまさにリビングレジェンド。(笑)

博:そう。一緒に住んでて、いまや自分の息子が一歳の最年少で弟子入りして、ビル・ロビンソンと仲良く会話してる感じとかね、横から見ていて、なんかタイムマシーン的で夢を見てるようだよね。それより、高円寺に住んでる人には、「スネークピット」に是非、入会して欲しいよ。自分の住んでいる街に由緒あるジムがあって、老若男女が共に汗を流し、質実剛健を目指して集っている感じって、実に他に代えがたい特別なもんなんだよ。ずっと部活経験のない、体育会系でない俺が「これは、もう一つの人生だ!」って思うんだもん。若者も、そして自分の子どもを鍛えさせたい親たちも是非入門させて欲しいなぁ。

テ:お子さんの成長で一番びっくりしたり、楽しいことってなんですか?

博:なーんだろうなぁ。俺流の英才教育っていうかね、俺は、我が家の教育方針とし「子供の自主性」じゃなくて「親の自主性を尊重する」って言ってるんだけど(笑)格闘技だったら一歳から『スネークピット』へ通わせたり、映画だったら『ロード・オブ・ザ・リング』とか『スター・ウォーズ』とか『エイリアン』も見てるし、そういうことは自分の子供だから出来るわけでね。そういうサブカルの染まり方の早さ。まずあんまり、二歳で「エイリアン2」がどうしたこうしたって言ってるやつはいないと思うんでね。一昨日もやってたんだけど、「水道橋映研」っていうのを作って、「よし、今日はキングコングだ!」って39年版の白黒のキングコングも見せといて、今度は05年版を見せて。ストーリーを説明しながら子供と一緒に見てる、しかもプロジェクターを使って映画体験をさせてるんですね。なんか、もう俺が俺の子供になりたいと思うんだよね(笑)。こんな風に育てられたいって羨ましいよ(笑)


テ:すごいですねー。どんどん自分のDNAが子供に注入されてる感じが(笑)。

博:亀田三兄弟じゃないけど、俺も子供を格闘家にしたいって思ってて、そんな親のバカげた妄想を子供に追っかけてて欲しいって、それはもちろん、どっかで挫折してあきらめる話なんだろうけども、でも楽しいね。その中に高円寺っていう街の中に『スネークピット』が生まれたときからあるんだって原風景に触れて、そして気が付けばビル・ロビンソンが、そばにいてみたいなさ。そして子供の時からロックや古着屋に囲まれてて、美味いうどん食べてて(笑)そんな“街柄”に、何かしら成長と共に侵食され影響を受ける、そんな風に俺が勝手に作り上げてる脳内物語なんだけど楽しいよ。子供にとって原体験そのものを物語に作りやすい街でもあるんだ。

テ:博士は仕事面ではテレビはもちろん、執筆活動も盛んですが、AERAの書評で芥川賞取るのも遠くないって書かれてましたけど、小説に向かうパワーっていうのはないんですか?

博:う〜ん、俺はあんまり小説読みじゃないんですよ。特に芸人になってから小説読まなくなった。小説読むのも、一種の現実逃避じゃない。物語に頼らなくても自分自身が実生活に物語を紡げるという気持ちがあるのね。芸人の毎日って日常の中に冒険や出会いがいっぱいあるからさ。浅草キッド著の『お笑い男の星座』(文春文庫)とか読んでもらえればわかるけど、芸能界の冒険譚でもあるし、ヒーロー伝説でもあるし、芸能界のテレビの裏にも知られざる、こんな話があったんだっていうことを書いてるわけじゃない。そこには虚構の物語を必要としない物語の強さの感じがあるからさ。そう言えば、もっともっと高円寺の人にも俺の本、読んで欲しいな、『お笑い男の星座』とか文庫であるから。高円寺文庫センターには置いてあるし、基本的に俺の本って、自分で言うのもナンだけど、本を読んで、「人生が変わる、今、生きてる風景が変わる」って体験にしたいって思って書いてる。だから、本の感想でも、ああだ、こうだって話かけて欲しいよ。だって折角、街で擦れ違っても、「あ、水道橋博士が子連れで歩いている!」って物珍しそうな目で見られても、話は出来ないじゃない。酒場で会っても話にならないじゃない。「出会いに照れない」って言葉も俺は信条にしてるけど、遠巻きに見てるだけじゃあ、出会わないじゃない。


お笑い男の星座は必読!!高円寺文庫センターへ走れ!

編集部:お子さんが生まれる前から、今こんなふうになるってことは想像されてたんですか?

博:もともと子供好きではなかったからなぁ。あのね、子供が生まれた感慨って、変な言い方だけど……子供が産まれた瞬間、「俺、絶対自殺しないんだ」っていうのが分った!って思ったのね。って言うと誤解されるけど……。これは、思春期に内向していたり、本読むのが好きな人とかそういう人ってね、自分が死ねば清算できるって誰もが思ってるんですよね。どこかで。それは自殺願望や厭世観とは違うんだけれど、責任の取り方は死ぬことなんだっていうような気持ちがあるんだ、それはネガティブな死に方でもなくても、武士道的な死っていうものも考えつつ、だけど、そういう死への妄想からも解放されたんだよね。だから、子供見た時、「ああ、共に生きられる。」っていう感じ。なんか、やっぱりそれは、どうせ「死んでもいいくらいにしか、生きてなかった」から思うことかもしれないけど、「今までより、ずっとよく生きられる!」って確信が生まれたっていうか。これは、人生にとって、ものすごいシフトチェンジだと思いますよ。それから、子供出来てから、ホント無意味に“照れる”のを辞めたね。ありのままに、どう見られてもいいって、自分を晒して暮らしてるって感じ。


テ;最後に読者の若い人たちにメッセージを下さい!

博:なんだろうな……。今、話した流れで言えば、「ただ生きるな よく生きよ!」っていうのを最近では自分で言い聞かせてるね。ソクラテスの言葉だっていうと権威っぽいけど、言葉を唱えるだけでも、そこに言霊が宿るからね。高円“寺”のお経と言うことで唱えて欲しいね。(笑)あ、でも高円寺のことで言えば、俺の子供に今、「挨拶は身を守る鎧」って必ず言わせてるんだけど、これも作家の百瀬博教さんの受け売りだけど、本当に高円寺に気持ち良く挨拶する街になって欲しいなぁ。(笑)。しつこいけど(笑)。なんか今日は、俺、親バカの話しかしてないけど、「SHOW-OFF」って、「見せびらかす」って意味だから、「出会いに照れない」で、それも見せびらかしますよ。

テ:じゃあ、表紙はお子さんと一緒に写真を!

博:もちろん、照れないでSHOW-OFFしますよ(笑)




【水道橋博士情報】


重版4刷決定!「博士の異常な健康」(アスペクト)
自他ともに認める健康オタクの博士が話題の、近い将来話題になるであろう最新の健康グッズや最新トレーニングを体験取材!
http://www.asakusakid.com/


うどんがおしまいになると閉店だよ。


これが噂のはかせうどん(700円)

博士考案の「はかせうどん」は手打ちうどんの「四国屋」さんで召し上がれ!
営業時間:月〜土(日・祝休み)11:30−21:00
高円寺ルック商店街の中ほど「喫茶店七つ森」少し先の左手

はかせうどんの詳細は『WEBダビンチ』4chで
http://www.mf-davinci.com/4ch/
| テリー植田 | お笑い | 16:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
2006.03.31 Friday
杉作J太郎、吠える。
高円寺フリーペーパーSHOW-OFFでのインタビュー完全収録版です。

______________________________


杉作J太郎、映画業界に殴り込み!!
「男の墓場プロって言って、映画は死んだつもりでやっている。何の可能性もないですよ、未来の。」


満員御礼につき追加上映が決まった初監督映画作品と大爆笑の上京物語をうかがいました!!(インタビュー&テキスト:テリー植田
tape rewright:marrow


テ:Jさんの上京物語から聞いていいですか?
J:いいですよ。
テ:そもそも、愛媛ですよね。松山ですよね?
J:そうです。
テ:そこから大学を出られて・・
J:大学に入る時に出てきたんです。高校卒業して、それで出てきた。
テ:最初住んだ所はどちらですか?
J:最初住んだ所は桜新町。世田谷の。田園都市線ですよ。
テ:駒大ですよね。
J:そうです。あのー、学校に歩いて帰れるとこがいいかなと思ってね。表参道のシナリオセンターにも通ってたんですよ。だから、その両方考えて学校が近いとこと表参道まで一本で行けるとこ。それで桜新町にした。
テ:漫画描かれてたじゃないですか。それはどこから始まるんですか?
J:学生の時だけど、最初から漫画やってたわけじゃなくて。まぁ最初の頃はねずっと8ミリ映画やってたんですよ。
テ:映画が先なんですね。
J:そう、そんでキャスティング最初友達だったんですけど、ゴージャスにする為には自分も芸能界とか入った方がいいのかなと思いまして。その当時お笑いブームが始まった年だったんで、アルバイト。まぁ当時ね今と違ってバイト料安かったんで。今アルバイトで食える時代でしょう?昔はアルバイトだけで食おうと思ったら、アルバイト年がら年中やってないとたぶん食えない。だって俺がそのバイトしてた頃時給280円でしたからね。
テ:マジっすか(笑)それ何のバイトだったんですか。
J:トラックの横乗りが時給280円でしたから。やっぱりね率悪いわけですよ。何か職業始めた方がいいなと思って、ちょうどお笑いブームでしたから、よし漫才師になろうと。それで友達とコンビ組んで『笑ってる場合ですよ』という番組に出たんですよ。
テ:『笑っていいとも!』の前身番組ですよね。
J:そしたらね、横澤さん(当時フジテレビのプロデューサーで現東京吉本興業社長)がね。受けに来た人がね冗談抜きで2、300人いたのかな。その中でバンバン次から次にやってくんですけど、やって終わった後にね横澤さんが僕らのとこに来ましてね。「君たち名前何ていうの?」「これこれこうです」「なかなか君たちおもしろいよ、期待してるから」これはすごい事だぞおいって。本腰入れてやるかって。まず合格はしましたんで、本選が2日後くらいだったかな。それで一生懸命練習して、放送の前の晩はほとんど深夜まで。全国に10人審査員がいて、電話がかかってくる。10人のうち7人かかってきたら合格。1日目があまりうまくいかなくて、コントだったんですけど、7点だったんですよ。ギリギリで合格。何とか合格できて良かった、2日目頑張ろうと。2日目もそのまま新宿残って終電まで練習して。次の日が司会がツービート(ビートたけしの漫才コンビ)だったです。そしたら本番前に、もういよいよ始まるぞっていう直前くらいに、アルタの出番待つ奥の裏の部屋があったんですよ。そこにいたらいきなりその部屋にたけしさんが入ってきたんですよ。
テ:すごいですねぇ〜。
J:俺もたけしさん大好きでしたけど、俺の相方もたけしさん大好きで。うわ〜たけしさんだと思って。たけしさんが座ってきて、窓の外を見ながら一人でぶつぶつ喋ってんですよ。うわ〜ここで何て言えばいいんだろうと思いますよね、狭い部屋でしたから。そしたらたけしさんが、しばらく1分も経たないくらいかなぁ、部屋から出て行ったんですけど、出ていく前に『がんばれよ。』って言ってくれたんですよ。それでもうね、俺も嬉しかったけど俺の相方が嬉しすぎて、変な話ですけど俺の相方にしてみたら目的が終わっちゃったんですよ。
テ:横澤さんの次がたけしさんですもんね。(笑)
J:それで本番始まったらね、コントだったんですけど、僕が親父の役で相方が息子の役で。俺の言葉から始まるんですけど、生放送が始まったら相方がセリフ全部忘れたんですよ。
テ:やっちゃいましたね(笑)
J:コントでおまけに素人だしね。これからって感じだからまだノウハウもないじゃないですか。相方がセリフ忘れた時にどうしていいかがこっちも分からないわけですよ。それを誘うようなセリフを思いつけばいいんだけど、こっちも思いつかないわけですよ。もう完全に止まっちゃったんですよ。番組始まって最初のコーナーだったのかな、ちょっと覚えてないんですけどフロアディレクターがね、テレビで見たことある有名な人でしたよ。その人がすっごい怖い顔して。客席も静まり返ってるんですよ。俺が相方に『何か言う事あるだろ』って言うんですよ。そしたら一番最後のひとこと言っちゃったんですよ。コント全部すっ飛ばした一番最後のひとこと。俺、これはヤバイと思って。まだコント始めて何十秒か一分くらいしか経ってないのにケツの言葉言っちゃって。違うだろ、ってお前が言いたいことはこういう事じゃないのか、ってようやく相手のセリフを誘導する事ができて。でも時すでに遅しですよ。もう最後までやらせてもらえたのかやらせてもらえなかったのか覚えてないです。場内静まり返ってますからねぇ。



テ:怖いですねぇ。
J:そしたら、たけしさんが「やったー!」って出てきて、「ビリ決定!」って言って。ようやくそれで会場の空気戻ったんでしょうね。ビートきよしさんが「やめなさい」って。「何言ってんっだ、ビリまったよー、めでたいんだから。」って言ったらきよしさんが「やめなさい、かわいそうなんだから。」って。電話もやっぱり一本もかかって来なかった。裏に帰って「うわー、これはヤバイ事になった。。。」ってもうドヘコミでね。怒られるし何もかも終わったと思って裏に帰ったら、出演するタレントさん達が待ってるんですけど、高田純二さんが涙流して笑ってました。テ:最高ですね、高田純二さん!(笑)
J:高田純二さんが涙流して笑ってたのは覚えてる。その後ろで他の東京乾電池のみなさんは普通にしてたんですけど、まぁ今思えばその後にね、つい数年前まで東京乾電池にお世話になってましたんで、奇遇な感じでしたけど。20年位後に蛭子(能収)さんの紹介で東京乾電池に入るとは思わなかったけど。それが終わった後ね、もうこれはダメだと思って。お笑いは向いてないと思って。これ以上無残なね、生放送で人が見てるわけですから、そんな素人いないわけですよ。出てってセリフが一言も出てこないような。見たことないでしょ、そんな新人。
テ:いないっすね(笑)
J:それで僕はちょうどね、半年位前から漫画をね、もともとガロだったんですけど、つげ(義春)さんの影響で漫画をスケッチブックに描いたのがあって。それはどこに見せる訳でもなくてスケッチブックに描いてただけだったんですよ、暇で暇で。10ページくらいあったんで、まぁやけくそだと思って出版社に持ってった。そしたらそれが採用されて、もちろん下手だから使えないんですけど、じゃあ漫画描いてみるかって。「2,3ヵ月後に締め切り設けるから、それまでに一本描いてきなさい。増刊号で使ってあげよう。」ってい
うのがね……なんの話だっけ?これ?
テ:(笑)
J:すいません、寝起きでね…
テ:全然大丈夫ですよ(笑)
J:失礼しました。
テ:映画に行くまでのストーリーです(笑)
J:今朝ね、10時くらいまで編集やってて、さっき起きたからちょっとボーっとしてるんだよね…。すいませんでした。
テ:でも当時ガロでお呼びがかかったんですよね?
J:いやいや、ガロではお呼びはかかってないですよ。最初持って言ったのがタツミ出版で、なんでタツミ出版に持ってったかっていったら、ガロでは無理だって俺もわかってたんですよ。じゃあガロでは無理で、なんでタツミ出版だったら大丈夫かって言うとこれ問題発言かもしれないけど、そういうことじゃなくて。
テ:はい(笑)
J:やっぱりあれですよ。タツミ出版は山ほど本があるし。あとはまぁ持っていきやすかったんだね。当時会社が靖国神社のところにありましたから。採用してもらえると思って持っていってないんだから。花園神社の隣にあって、それが行きやすいのと、ちょうど「笑ってる場合ですよ」の練習を花園神社でやってたんで、それの隣にあるのがその時わかったんですよ。それをタツミ出版に持ってったら採用されたから、「あれ?ひょっとしたらいけるのかな?」と思って。それで次の日かその次の日に、今度はナガイさんにボロクソ言われてもう。「君は絵がなってない。」って。もちろんそれはタツミ出版でも言われたんだけど、ナガイさんにボロクソ言われたショックでヘコんで、原付で行ったんですけども、ヘコんで帰ってるもんだから帰りにキップは切られるし、もう踏んだり蹴ったりでね。もうやってられないと。その時にタツミ出版の人に「君だったら、うちよりもそっちがいいと思うよ。」って編集プロダクションを紹介された。それ思い出して、スケッチブック持って帰るの気分悪くて、ダメだ俺はと思って、そこに置いて帰ろうと思った。それが四谷三
丁目…いや違う、新宿の辺りだ。ちょうど帰り道だから、そこに預けて帰ろうと。で、電話したら、今誰もいないけどって言ってて、アルバイトの人がいたから「置いて帰っていいですか?」って聞いたら「別に構いませんけど。」って言って。ピンポーンってやったら女の人が出てくるから、「すいません、これ預けていきます。」って。それで帰ってきたんですよ。それで、ダメだなぁってヘコんでね、それが最初ですよ。そっからがなしのつぶてなんです。しばらくの間見たくもないって放っておいたんだけど。まぁナガイさんって人は厳しいですからね。それぐらい酷評されたんですけど、時が経ったらやっぱり、せっかく自分が最初から採用されると思って描いてた訳じゃなくて、ほんとに趣味で描いてたやつだったから、返してもらおうと思って。やっぱりあれは返してもらわないと困るなと。
テ:それでまた行った訳ですね。
J:取りに行ったんですよ。今と違って携帯電話もないしね、固定電話しかない時代だし。電話してから行けばよかったんだけどいきなり取りに行ったんですよ。だって電話するほど親しい訳でもないですから、アルバイトの人しか知らないんだから。回収しようと思って。ピンポーンって押してね、「すみません。何ヶ月か前に漫画預けたものなんですけど、返してもらえますか?」って言ったらそしたらね、「あぁ、本になってるよ。」って言ったのがね(笑)去年かおととしに出た本の版元のマガジンファイブのカンノさんって人ですよ。そのカンノさんって人が出てきて、あぁ、本になってるよって言うから、えーちょっと待ってと思って。なんの断りもなくですよ(笑)なんで教えてくれないんだ!って思って(笑)
テ:そうですよね(笑)
J:「本になってるよ。持って帰る、本?」って。
テ:スケッチブックが本になってるんですもんね。
J:自販機本になってた。「ギャラも出てるけどいる?」って言われて(笑)それでお金もらって帰ったんです。
テ:あ、ちゃんともらえたんですね。
J:何ページだったか覚えてないですけど、12000円もらってね。当時のアルバイトの感覚で言うとね、ありえないぐらいの高金額なんですよ。だって時給280円の時代ですから。一日10時間労働で2800円ですよ。それの12000円だから。一日10時間労働ってことはないと思うし。だから結構な金額ですよ。これはね素敵な商売じゃないかと思って。その自販機本っていうのも、最初自販機本にのるためにやった訳じゃないですけど…また当時、自販機本っていうのも流行ってましてね。僕が書いてた…そこは自販機本が出してた。そこに書いてたのは蛭子さんとかね、渡辺和博さんとか。あと僕とデビューがほぼ同期になるんですけど、僕が自販機本で仕事しだした頃には桜沢エリカとかね、岡崎京子とか描いてましたから。
テ:あぁすごいですね〜。そうそうたる面子ですね。
J:今自販機本といっても、今のエロ本とかの感覚とは若干違うよね。だからエロ本という感覚が今の人とは若干違うと思う。今適当に喋ってましたけどね、僕の友達なんかもエロ本、エロ本って言うけどね…。今のエロ本でヌけないエロ以外の記事が半分以上あるっていうのは信じられないだろうしね。
テ:あぁ…ないですよね。
J:昔はカラーページと一部の記事を除いたら、後は全部編集者の趣味で作ったような、編集者一人に本一冊っていう時代でね。だから編集者のやりたいように、編集長の好きな漫画を集めてこられる訳ですよ。だから今思うとエロ本のバブルとかいうのじゃなくて、本を出せば売れてっていう時代だったんでしょうね。女の裸さえ巻頭に載せとけば、中は何が載ってても誰も文句言わない。あと…あれもあったんだ。名盤解放同盟もありましたから。根本さん、湯浅さん、船橋さん…湯浅さんや船橋さんと知り合ったのも自販機本ですよ。
テ:なるほどね。
J:その自販機本が昔、池袋にあったアリス出版から出したんですけど。アリス出版で自販機本のそこから紹介されて今度、アリスの仕事をやった時に、湯浅さんや船橋さんに初めてあったのは多分アリスですよ。そのころは名盤解放同盟といっても今と違いますからね。発足したての頃ですから、名盤解放同盟を聴きにセレクションの会とかに湯浅さんの家によく行きました、当時ね。今からもう…大昔ですよ。前世紀の話ですよ(笑)前世紀っていうか、俺の代じゃないぐらい過去の話ですよね。自分のことだと思って話せないんだけど。事実として覚えてるだけで。
テ:そっか、そういう繋がりがすごいですね。自販機本で始まった…
J:その頃の知り合いがその辺の人たちですよ。桜沢エリカとかね、蛭子さんとか、根本さん。
テ:お付き合いが長いんですね。
J:蛭子さんや根本さんは長いね。ほんとに長いですよね。あと長いっていったら、石川次郎さんも長いね。
テ:あ、本当ですか?
J:石川さんはね、雑誌とか漫画とかが大好きなんですよね。出版されてるものには全部目を通さなきゃいやだっていうちょっと変わった人ですから。ある日ね、お呼びがかかったんですよ。アシスタントのハダミチトシって人がいて。ハダくんがね、僕が一番最初に置いて帰って本になったところで彼も漫画描いてた。当時は今と違ってファックスとかバイク便とかないから、必ず本人がいて渡さなきゃならない。編集者一人しかいないから、編集者がみんなの家に回って集めるってことはできないから。結局いつも僕らが持っていくシステムなんですよね。だから今の時代と圧倒的に違うのは、作家とかカメラマンとかが全部編集部に集まるから、すぐ顔なじみになる訳ですよ。おんなじところに描いてるもの同志が。そしたら石川さんが俺の漫画を見てね、「こんな下手な漫画を描く奴はいない。」って思ったらしいんですよ。とにかくどんな奴が描いてるんだ?と。石川さんはびっくりしたはずですよ。絵心がない人間が描いてんだから。漫画家になるつもりもなかった人間が、「笑ってる場合ですよ」で0点になったヤケクソで、持ってったらそのまま使われて描いてるだけなんですよ(笑)
テ:(笑)
J:それで石川さんが「会いたい。」って言ってるって。ハダくんに「来てくれん?」って言われて。だから石川さんに会ったのもほんとに大昔だよね。デビューして直後ですよ。デビューして一、二ヶ月後には石川さんのところに呼ばれてね。
テ:石川さんのことはご存知だったんですか?
J:石川さんのことは知ってましたよ。だって当時少年誌とかでね、漫画描いてましたから。本人に会ってびっくりしたのは、少年誌に出てくる自分のキャラクターはね、三頭身だけど、本人に会ってみたら180ぐらいあるから、漫画っていうのはなんてウソツキなんだと思ってね(笑)それも漫画と全然顔が違うんだから(笑)当時まだ石川さんは40歳ぐらいだったから…まだそんなにはいってないか…今より全然若いですから。イケメンみたいな人ですから、あー卑怯な人だなと思ってね。…それから石川さんにもずいぶんお世話になったんだよなぁ。「下手だから話になんないけど、これは売り出さないと君はどうにもならないよ。」っていうんでね、ずいぶん売り出しの作戦を考えてくれたんだよなぁ。
テ:へぇ〜。すごいですよね。
J:当時石川さんが宝島で連載やってて、その中で宣伝したほうがいいっていうんでね。毎月ね俺にね、三分の一ページくらいくれるんですよ。そこで勝手に宣伝描いてましたね。「原稿料をやるわけにはいかないけど、その代わり自分の宣伝スペースだと思って使っていいから。」っいうんでね。これは…何描いてたのかあんまり覚えてもないんですけどね。それしばらくやりましたね。その当時は吉祥寺まで…であの…なんの話だっけ?これ?
テ:(笑)
J:失礼しました。
テ:全然大丈夫ですよ(笑)そのあと平凡パンチとかもされるんでしょう?編集やったりとか…
J:すいませんね、一個一個の話が長くなってない?
テ:いえいえ全然大丈夫です。



J:だから…バイトの話して、それで漫画家になったっていう話したんですよね。
テ:そうですね。
J:それで漫画家でね今度は食えなくなってくるんですよ。一時期は50枚くらい描いてたんですけど、やっぱり下手ですから、気がついたら仕事がどんどんなくなってるんですよ。その頃にはね、ガロでもう漫画描いてたんですよ。若干上手になりましたから。ほんとね…毎日毎日描いてましたから若干、画力は上達して。あとやっぱりナガイさんに言われたアドバイスというのが…僕はほんとね、言われたら絶対それを直すクセはついてますんで。ナガイさんに言われたのは、線と線がくっついてないって言われたんですよ全部。だから
これは守らなきゃいけないと思ってね、線と線が閉じるようにしたんです。当時、それを一番ナガイさんに厳しく言われたんですけど、他にも言われたことがいくつかあったんでそれは守って。そしたらそれをナガイさんにもう一回持ってったら、「前に注意してきたことは直ってる。じゃあ預かっておきましょう。」と。それでガロでも当時載ってたんだけど、今度は逆に仕事がなくなってきちゃたんですよね。まぁエロ漫画の仕事がほとんどでしたからね。もちろん尺の短い3ページぐらいのものも描いてたんですけど、エロが出てくる漫画も描いてたんです。ところがこれが絵が下手だからね、女なんて描ける訳がない。無謀にも描いてたのと、おまけにその時は童貞でしたから。童貞でエロ漫画描くって自体がありえない話だったんですよ。バレたらおしまいだと思ってるから、バレたら絶対採用してくれないし、使ってもらえないのはわかってるから、もう一生懸命ごまかしごまかしね、やったことないけどそれを想像して描いてた。
テ:過酷な状況ですねぇ。
J:おまけに今と違ってAVもないわけだから、本番ったって見たことないわけですよ。人がやってるとこなんか。ピンク映画は死ぬほど見てましたけど。ピンク、ポルノは死ぬほど見てたけど、肝心なとこは全部ぼかしてるし、おまけに本当にやってるわけじゃないし。向こうも雰囲気でやってる訳でしょう?向こうも童貞や処女がやってるかもしれないんだから。それを見てまたこっちは…。それで食えなくなったときに文章を書きだしたんですよ。雑誌やエロ本の人とね、カンノさんがね、「もう君は漫画はダメかもしれない」なんて。でも「文章書いてみたら?」っていうんで。文章なんか書いてなんとかなるもんかなぁと思ったんだけど。なんとかなるっていうのは自分が使い物になるか?ってことですよ。考えたことなかったですから、そっちは。…でもまぁ何事も経験だからやってみようと思って。エロ本でコラム書いてたら、平凡パンチの編集者の人が、「面白いから使いたい。」って電話がかかってきて。それで最初は普通の活版記事みたいなのを2,3本やったんですかねぇ。それやったことない仕事ですから、原稿書くって仕事がね。活版で3ページ4ページの特集をやれっていってもね、やったことないからこれはわからないんだよ。…それを何回かやって、おまけに漫画描いたりとか、イラストの仕事もたまーにあったりしてっていうのを半年もない…何ヶ月か続けてたら。。。いや、違うなぁ…。これ昔すぎるから順番が入れ違ってますけど、最初ね…そうだそうだ。最初は連載しませんか?ってきたんだ。エロ本でやってたような1ページのコラムを連載しませんかって話が来て、連載を始めたんだ。それで連載を始めてる間に、4ページくらいの特集記事も書いてみないか、こっちのほうが率がいいからって。それでそっちもやってたのね。当時はファックスがまだない
ですから、さっき言ったようなシステムで、原稿用紙書いたら、その原稿を持っていかなきゃいけないんですよ。東銀座まで。それで週に一回それを持って行く、あと活版記事があったら持って行く、打ち合わせがあったら銀座まで行く、イラストが上がったら行く。もう週に何回も何回も。だから当時は変わった時代ですよ。どこの出版社の仕事だろうが、俺みたいな売れてない作家は取りに来てくれるわけじゃないから。とにかくね、そこで仕事が始まるとね、しょっちゅうそこに行かなきゃいけなくなるんですよ。週刊誌だったから。週刊誌何回か行ってたわけでしょう。行っては預けて、行っては預けて。そうこうしてる間に編集長が「そんなだったら、毎日来て座ってろ。デスクがあるから。」って。
テ:おぉ、すごいですね。
J:デスクでガロの漫画描いてていいっていうんで。それでも金やるよって言うから、あぁじゃあ来ようかなって思って。まぁそれがパンチの仕事の始まり。だからパンチは仕事っていうよりもね、変わった編集長でしたから。…デスクをもらって、飯代も経費で食えるし、いいことずくめだぜって編集長に言われて。それでパンチの編集部の中に仕事場もらったって感じでした。
テ:VIPじゃないですか?(笑)
J:まぁそういう時代だったんだよねぇ。別に向こうは俺が欲しくてたまらない訳じゃないんだけど。時代ですよ。変わった編集長だったんですよ。武智鉄二の甥っこさんでね。他に描いてた漫画家も、蛭子さん、根本さん、シモダさん…。当時まだ、週間プレイボーイVS平凡パンチみたいな図式が明確な時代だったんですけど、全く変わった目線でしたよね。カメラマンなんかもね、ヌードグラビアなんかは週間プレイボーイは綺麗なグラビアが載るんだけど、パンチのグラビアは荒木さんにナガハマさんっていう、男の世界!みた
いなね。ちょっと変わった男らしさ炸裂のエロ本はエロ本でも女性に媚びない、ド硬派な雑誌だったですよね。
テ:そうですよねぇ。
J:ナガハマさんがヌード撮るったってそれ、結局真っ暗で何が映ってるかわからなかったりするんだから(笑)
テ:(笑)パンチの時代は長かったんですか?籍を置いてる時代は…
J:パンチは3年半くらいだったんじゃないですかねぇ。
テ:長いですよね。



J:時間的に言うと、平凡パンチやるまでは…エロ本やり始めたころは他のバイトよりも率がよくてね、就職するよりもお金が良くて、景気のよかった時代ですよ。それで後期は仕事が全くなくなって、ガロしかなくなっちゃって、どうやって生きていけばいいだろうっていう時代ですよ。その後は平凡パンチが始まってからは忙しすぎてね、なんていうんだろう…プライベートのなくなった3年半。プライベート=仕事現場でしたから。
テ:じゃあ、ずっとそこに寝泊りしてるみたいな状態ですか?
J:もうまさにそれですよ。自由な時間なんか本当になかった。友達と遊びに行こうにも友達がいなくなっちゃった。友達と会う時間がないんだもん。仲のいい友達がいたんですよ。仲のいい友達でもね、編集部で会わなきゃいけないんだよ。
テ:呼んで?(笑)
J:だから友達をモデルにしちゃってね。友達に仕事を発注してましたよ。会社員の友達に。そいつは最後の頃、編集部に普通に出入りしてました。モデルとして(笑)
テ:すごいですね(笑)
J:だって時間がないんだもん。最終的には廃刊になる訳ですけど、あれ廃刊になってなかったら人生どうなってたんだろうと思うんですよね。
テ:へぇ。その3年半は何歳から何歳ぐらいですか?
J:25,6から28,9ぐらいまで。それで最終的に雑誌が廃刊になって半年休みがあって、パンチザウルスっていう漫画雑誌になって復活して、それがすぐ廃刊になってそれで完全に廃刊ですから。やっぱり3,4年あったんじゃないですかね。さっき言った、なんでデスクもらっていいなって思ったかというとね、週刊誌だからいろんな人が出る雑誌じゃないですか。それで取材とかで会いたい人に会っていいって言うんですよ、編集長が。俺、多分映画の話をしてたと思うんだよなぁ。そうそう、映画の話をね当時よくしてましたから、出演してもらう時に知り合いになって、もう今から出演者を当たっとこうと思って。それで当時知り合いになったのが、飯島洋一さんですよ。今回の主演のね。
テ:へぇ〜。そっから会ってるんですね。
J:そうそう。その時にね、当時飯島さんが「戦争の犬たち」っていう超大作戦争映画作ったその後で、ちょっとどこにいるのかわからなくなってる状態だったので、一生懸命飯島さんの消息捜してようやく見つかって、銀座で会って、「いま僕、平凡パンチの編集部にいるんです。」って言ったら「パンチにいるのかぁ。」って話になって。「ちょっとパンチに行ってもいいか!?」って言うから「いやいいですけど…」って言って「知り合いいるんだよ。」って。えぇ〜!?一生懸命捜したのに知り合いいるんだーと思って。それで編集部に行ったら、ほとんどの人が知り合いでした。「よぉ飯島!お前なにやってんだ?」って言ってて、「いやいやこの人が会いたいっていうからさぁ」って言うから「え?飯島さんと知り合いなんですか?」「おう。毎週ラグビーやってるんだよ。」って言うから、おいおい、編集部の人に聞けばよかったと思って(笑)編集部の人と同じラグビーチームの選手だったんですよ、飯島さん(笑)
テ:すごい(笑)じゃあその時から飯島さんでいつかは、って思ってた訳ですか?
J:もちろんそれはありましたよね。ただ、いつの話になるかはわかんないけど。当時はまだそんな大それたねぇ、飯島さんでいつか自分が撮るとかいうよりも、まぁ準備ではないけど…。当時飯島さんとかね、そう思っていろんな人に会ってましたよ、捜し出して。仕事で会うときでも出てもらいたい人に率先して頼むわけですよ。例えばあとね、この人には出てもらわなきゃと思って、一生懸命取材とかある度に行ってたのは、吉田照美さんですよ。あの顔と雰囲気は面白いだろうと思ってね。あとストロング金剛さんとかね。ストロング小林さんも当時よく会いに行ったなぁ。あとは…宇宙刑事ギャバンやってた大葉
健二さんとかね。
テ:おぉ〜。ギャバン見てましたねぇ。
J:なんとか大場さんに出てもらうことはないかって思ったけど、なかなかない訳ですよ平凡パンチで。最初はサバイバル特集ってのがあって、デスクがサバイバル対談やりたいっていうんですよ。誰かサバイバルに詳しい人いねぇかな?って言うから、普通に考えたら柘植久慶さんみたいな人がいいんだけど、それはどこでも一緒だから。平凡パンチは当時の編集長が、よそと違う変わったことをやらないと意味ないっていう人だったから、誰かよそで使ってない人いないか?って言うから、「大場健二さんなんかどうですかね!?」って言ったら「大葉健二さんってなんの人?」って言うから「ジャパンアクションクラブの人で、多分サバイバルとか経験してると思うんですよね。」なんて言って。対談だから「もう一人の相手は?」って言うから「筋肉漫談のぶるうたすさんなんかどうですかね?」「その人はサバイバルできるの?」ってうから「あれだけ身体に筋肉がついてるってことは、サバイバルの特訓してるんじゃないですかね!?」って言ったら
テ:両方ともおそらくですね(笑)
杉:デスクが「いいじゃなぁ〜〜〜〜〜〜い!!」って言ったんですよ(笑)
テ:(笑)
J:そういう優しい現場でしたから。その次に大場さんに頼んだのは、女子大生が作る平凡パンチっていうのがあったんですよ。実際は女子大生が作ってるわけじゃないんだけど、女子大生達が編集部をジャックしたっていう触れ込みでね。女子大生が全部、企画立案して進めた号です、僕達がそのお手伝いをします、と。その号があった時に、女子大生が今一番興味ある人は?っていうんで。その人たちに女子大生たちが会いに行くっていう。これは大葉健二だろうと思って(笑)
テ:すごいな、それ(笑)
J:そんでキャップに聞いたら「いいじゃなぁ〜〜〜〜〜い!!」って言うから(笑)それ
で女の子達はしらなーいって言うんだけど、「いや絶対会っといたほうがいいから。」って言って。「真田広之さんもいますよ。」って言ったら「真田さんいるんだったら行きたい!」なんて言ってて。それで騙して連れて行ったのが大葉さんのとこですよ。
テ:ギャバン。見てましたよ〜
J:ちょうどね、渋谷の駅前にジャックピットっていうね、ジャパンアクションクラブの飲み屋がオープンしてね、そこに女子大生を連れて行ってね、女子大生3〜4人連れてったのかなぁ。そんで大葉健二さんを始め、真田広之さん、志穂美悦子さんね。みなさんがお店の店員をやってる店なんです。
テ:マジっすか!?いるんですか、みんな?
J:初日だったから特にみんないました。千葉ちゃんもいて。そしたらガイラー将軍っていうのがいたんですよね。ギャバンの時の。ガイラー将軍がいたんだよー、ロビーに。これが顔が怖いんだ!ガイラー将軍が。そしたらもう女子大生たちがみんなビビっちゃってるのガイラー将軍見て。もうね震えてんのガイラー将軍見て。ガイラーさんが女の子達に震えられて、意味わかんないから睨んだりしてるんだよね。もう取材がブチ壊しになったのを僕はよく覚えてますよ。ガイラー将軍が怖すぎて。別に怖い人じゃないんですけど、顔が怖いんだよね。
テ:すごいなぁ。でもいつか映画を撮りたいっていうのは東映映画みたいな、ああいうやつを撮りたいっていうのがすでにあったんですか?
J:思ってました思ってました。だからもう東映の人たちとも当時から仲良くしていましたしね。あとホソヤさんっていうね、プロデューサーがいるんですけど、その人ともその頃からですね。
テ:そうですか。東映の太秦で僕ずっとバイトしてたです。学生時代。
J:だからまだ東映の撮影所とかには行ってないけど、当時思ってたのはね、僕がシナリオ学校に行ってる頃は、映画界っていうのは超狭き門な訳ですよね。とてもじゃないけどね、コネのない人とかは入社できない会社ですよ。例えば、僕よりもだいぶ年が下の東映の人もいるけど、その人なんかに聞いたらやっぱり推薦状がいるんだよね。まぁみんながいるかどうかはわかりませんけど。「推薦人誰なの?」って聞いたら「深作欣二と鈴木清順だ。」って言うから。そういう人じゃないと取らないんだから!
テ:(笑)
J:それは入れないだろう〜普通の人は!
テ:それ普通じゃないですもんね。
J:結局はね、なんで飯島さんをそうやって捜し出したっていうと、飯島さんは自分がプロデューサーでお金集めて、自分で映画撮った人だから、戦争映画をね。何千万かけて。俺も自分で作るしかないって当時からわかってたんですよ。撮影所なんか入れるもんじゃないと思って。やっぱ飯島さんにあったのはそれが理由ですよ。それで色々話を聞こうと思って。もちろん飯島さんのことは大好きでしたしね。僕の芸名も全部飯島さんの演じてた役から来てますから。
テ:あっそうなんですか。
杉:そうそう、飯島さんがピンク映画でやってた役をもらって今の名前なんですよ。
テ:そのまんまなんですか?
J:最初は杉作獣太郎っていってたんですけど、それは飯島さんが主演のね、中村幻児さんのピンク映画の主人公の名前をね、そのままもらったんですよ。それぐらい飯島さんのこと僕ファンでしたからね。
テ:あーそういうことだったんですねぇ。
J:もちろんそのやり方にも感動してた訳ですよ。この映画界厳しい狭き門の中でね、例えば自主映画っていうのは当時からありましたけど、飯島さんのは違う。自主映画っていうには規模が大きすぎる。何千万かけてるし、ジャンルとしても戦争映画だし。…だからもう、やっぱりそれしか僕もないと思ってましたので。キャスティングも平凡パンチの取材の中で、とにかくああいう一対一と…女性とかには全く興味がなかったですね。男の映画しか考えてなかったですから。いろんな人に会いに行ったな〜。ミッキー・カーチスさんとかね。ミッキー・カーチスさんもまだ当時、役者やる前ですからね。バイク屋やってた頃でしたけど。当時ね何年間かやりましたけど、出てもらいたいって人には率先して会いに行きましたね。まぁいろいろ会いにいったなぁ…。
テ:もう幼いころから東映映画に憧れみたいなのはあったんですか?
J:そうですよ。やっぱりああいうなんていうんですか。世の中で絶対的に弱いものをいじめてるだとかね、とにかく正しいことをやってるのに酷い目にあってる人とかね、ほとんどの人が悪い人なのに、ちゃんとしたこと考えてる人は主人公だけだったりして、ところがその主人公が大組織とか何万人を相手に最後戦っていくっていう姿をね、毎週毎週描いていた映画会社ですから。こーれしかないだろうと思ってね。僕もそれのおかげで、それなかったらヘコんでとうの昔につぶれちゃってますから。中学を退学になったころに僕はハマリましたから。中学を退学なったときにヘコみますよ普通だったら。子どもだったらね。私立の中学でしたから、学業不振で学校を退学になる訳ですよ。ちなみにそこの11期下が、僕の後輩がロマン優光(ロマンポルシェ)なんですよ。だからロマン優光だけは、この世界で数少ないたった一人のこの同じ業界での後輩ですから、向こうにしても、ロマン優光に対してだけは厳しくビシビシ(笑)
テ:愛ですね(笑)
J:もうビシビシ(笑)
テ:あぁそういうつながりなんですねぇ。じゃあ20代後半ぐらいからは映画に向けて結構戦略的ですね。
J:壮大な準備期間ですよね。当時から脚本書いたり、電話してましたねぇ。あと企画考えて。あと変な話だけどね、当時何を映画化しようと思ったらね、ワイルド7しかないと思ってね。これやろうと思ってね。飯島さんは戦争映画だった。俺はワイルド7しかないなと。だから望月さんのところにはよく行った!望月さんのとこは本当よく行って描いてもらいましたよ。望月さんに漫画描いてくれーっていってね、イラストとかの仕事をね。
テ:すごいですね。
J:当時、望月さんともずいぶん親しくなったんですよ。その後、編集者の仕事を終えたからブランクができちゃいますよね。まぁ当時親しくっていったって何回かしか行ってないですけどね。でも行ったらもう、とにかく映画化して映画権もらいたいもんだから、こっちは素人で子どもだけど。ワイルド7がいかに自分にとって素敵な作品かみたいな話をして(笑)そしたらつい何年か前に望月さんに、ワイルド7の本が出た時に何冊かあとがきじゃないけど本の中で原稿書いた時に、久々に望月さんとかと何回か行ったんですけど、覚えてくれていましたね。あぁ覚えててくれてたと思ってね。でも、まだ映画化権のことは持ち出せませんでしたけど。当時からワイルド7で作ろうと思ってね。ワイルド7のメンバーを早いとこ会って集めなきゃと思ってね。
テ:なるほどねぇ。
J:やってました。ただ編集者が終わっちゃったから、おまけに…なんかちょっと寂しさもあったし。
テ:編集がおわったのは28,9でしょ?そのあとはそういうストーリーが始
まるんですか?
J:その後は…退職金みたいなものをもらいましたから。退職金みたいなものを何百万かもらったんですよ。ほんとねぇ相当もらいました。一年間南の島行って、暮らせるぐらいもらいましたから。これ元手にね、なんかね仕事するのが嫌になってたんですよ。なんで俺が仕事するのが嫌になってたかというとね、バブルの時代だったんですよ、ちょうど。だから退職金も出たんだと思うんだけど。ちょっとね、雑誌とか原稿の質が変わってきたんですよ。馬鹿記事だけ書いてりゃいい時代を過ごして来たんですけど、80年代の終わりぐらいからね、「役に立つ原稿」っていうのを求められ始める訳ですよ。実践、実際に役
に立つ原稿。日本だったら何かのデータが載っているような原稿をね。これはもう馬鹿馬鹿しくてやってられない。これは僕だけじゃなくてみんな当時言ってたことなんですよ。当時ね、僕は編集とか雑誌の記事書く仕事を成り行きで始めましたけど、当時本業でやっていた人たちで辞めた人、僕の知っている中でも何人かいますね。もうやっぱりやってられないって、面白くないっていうんで転職して普通のサラリーマンになった人いるんですけど。それでね、これを元手に…映画を撮るには足りない額ですよ。今と時代が違うから。当時映画を撮るっていったら35mmしかない訳ですから。全然何百万かなんかで取れる訳ない。これはどうにもなんねぇなと、なんとかして金を増やせないかなと思って。…そしたらね、ギャンブルだなと思ってね。
テ:(笑)
J:金を手っ取り早く増やすにはギャンブルしかないだろうと。ちょうどその頃、僕が仕事やってたハギワラっていう編集者がいて、サン出版の。そいつがね、親切ないい男でね。後に演劇やったりする人なんですよ。彼がね親切ないいやつだったんだよなぁ。僕が平凡パンチやってる間にね、もともと僕おニャン子クラブ全然知らなかったんですけど、ある時見たらおニャン子クラブがなくなるって。見たらみんなファンが泣いたりしてる。これは由々しき問題だと思って。テレビ局の番組編成のせいで、この若者たちがね、自分達の毎日毎日信じてた世界がなくなろうとしている。これは立ち上がらなきゃいけないじゃないかと思ってね。こーれは革命起こさなきゃいけないと思って。それでおニャン子に突入していく訳ですよ、俺は。
テ:きましたね。。。
J:突入していった時に最初はそういう気持ちで突入していった。そしたら突入してる間に好きになっちゃいましてね(笑)突入してる間に俺がね、ゆうゆのファンになっちゃった。
テ:ゆうゆでしたか(笑)
J:そしたらねぇ、ハギワラっていうサン出版の編集者が、さっき言った石川さんのとこにいたハダくんの友達だったんですよ。よくうちの近所来てラーメン食いに来たりしてた。彼が後々にサン出版の編集者になって、あいつの雑誌のシュガーの編集をやり始めた。そしたら「杉作、ゆうゆに会いたくない?」って言うから「会いたいよ!」っ言ったら連載仕事始めようよっていうんで
テ:来ましたね〜。
J;それでゆうゆと俺の連載始めてくれた(笑)
テ:すごいなぁ〜!
J:それでゆうゆと毎月ね、パチンコ行ったりね、競艇場行ったりね(笑)
テ:それいいんですか?(笑)
J:まぁゆうゆも大人でしたからねぇ。20歳なってましたから。夢のような仕事ですよ。毎月毎月ね、ゆうゆと一緒にパチンコ行って…何行ったんだろう?パチンコ行って競馬行って…マージャンはやってない…まぁなんせギャンブル巡りみたいな仕事。それでギャンブルやった後にはすき焼き食って帰るみたいな。寿司屋行って帰るみたいな。
テ:会社の金で。
J:「寿司屋行ったりすき焼き行ったり、これお前大丈夫なのか?」って言うから「大丈夫大丈夫!」って言ってたら案の定クビになりましたけどね(笑)
テ:(笑)
J:まぁでも彼にとってもそれはよくてクビになった後、役者になりましたから。ウエスギさんとこのね、はっけんのかい?かな。アキヤマミチオさんのとこですか。そこのウエスギさんの演劇に出てましたね。
テ:夢のような仕事ですねぇ。
J:ほんと。ゆうゆと毎月毎月。平凡パンチの時にも一回、グラビアの撮影で会ったんですよ。それでなおファンになっちゃったから。いい子だったんですよ、現場来たら。当時、アイドルとかモデルさんの撮影に立ち会うことも多かったんですけど、ゆうゆって子が画期的にいい子でね。なんて素敵な女性なんだろうと思ってね。おまけにね熱狂的なファンになっちゃってね。熱狂的なっていっても今みたいなことはないけど。
テ:(笑)
J:だからね加護ちゃんの時もそうでしたけど、俺がファンになるキッカケって相当いつも変わってますよ。おニャン子クラブの時もね、よく知らなかったんだから。番組がなくなるって聞いて、ファンのみんなが泣いたり盛り上がったりしてるのを見たときに、これは問題だろう!と思った、本当。番組編成だろ元は、と思ってね。番組編成が元でね、この…彼女たちは彼女たちで毎日毎日学校帰りに来てる。それで男の子たちは男の子たちで毎日毎日集まって応援してる。毎日毎日キチガイみたいなイベントですよ、あれ。命がけのイベントばっかりだから。それほど熱狂していたものがなくなってしまうってこれはね〜、そんなことでいいのかこの世の中と思ってね。それが元でしたから。これは革命起こさなきゃいけないと思って。女の子たちも番組編成が元でなくなっちゃうんだから仕事が。かわいい女の子たちが酷い目にあう。あとなにか男の子たちがこう集まって、これ全然悪
意のない人たちじゃないですか。女の子目当てにみんなで応援してるっていうのは。悪意のない人たちが酷い目にあうっていうのが、それがやっぱり許せなくなるんだよね。
テ:あぁー、わかります。なんかね僕、杉作さんのこの突き進んでいく源にあるのは何かを知りたかったんです(笑)今までずっといろいろされてて、辛い状況だと思うんですけど。そういうことなんですね。
J:そんな感じそんな感じ。
テ:なるほどね。。ゆうゆと夢の時間も終わって…
J:楽しかったねぇ〜。ゆうゆと…いやぁ今思うと昔すぎて実感として思い出せないんだけど、当時は楽しかったはずですよ、多分。
テ:(笑)
J:だってゆうゆと寿司食いに行くとか思わないもんなぁ。すき焼き食べに。そんで毎月毎月一緒にいるでしょう。向こうは当然仕事仲間ですから、相方ですからね。楽しい仕事だったなぁ。
テ:いいなぁ〜。
J:でもゆうゆも最初のグラビアの撮影の時から、いい子ってのはただかわいい大人だなと思ってましたけど。実際一緒に仕事してみて本当に大人でしたよ。ちゃんと大人の女性としてこの世界で仕事してるんだなっていうね。いろんな背景もあって頑張ってるんだなっていうね。ほんと不謹慎な気持ちは全くなかったんだよね。そしたらハギワラなんかもね、そういうところにグッときてね。例えば寿司屋とかで寿司食って、それだけでも本当は高い料金なんだけど、マネージャー、俺、ハギワラ、カメラマン、それで寿司食いたい放題
でしょう。食いたい放題食った後に、「ゆうゆ、お母さんやお姉さんにお土産持って帰らなくていい?」って言ったらゆうゆが、「えっ、いいんですか?」って言うから「いい、いい!おやじさん、特上包んであげて。」(笑)そりゃクビになるよ(笑)
テ:やりたい放題(笑)
J:この間、ハギワラの映画の上映の時に来てて、「この間、ゆうゆの時のマネージャーに会ったよ。」「えっ何言ってた?」「ハギワラさん、また飯食いに連れてってくださいよ」って(笑)
テ:じゃあそのあとはどういう風に仕事をやって…
J:あぁなんの話だったか忘れちゃった。ハギワラがパチンコやってたんですよ。で、当時ねパチンコの収支表つけてて、毎月10万くらい勝ってたんだよ。パチンコは勝ち組と負け組がはっきりと決まってるゲームだから、常に勝つほうに入ればこれは勝てると。他の勘でやる商売と違って、勘とかが頼りのあやふやなギャンブルではないと。盤面に全て出てると。盤面さえ読みきれば、絶対勝てると。まぁ言われてみたら確かにそうだと。釘っていうのが確かに存在してて、あれ今みたいに後ろに基盤があって、設定があってっていう時代じゃないですから。いわゆる全部、情報が盤面に具体的なものとして出てる訳じゃない。ちょうど田山さん、パチスロ必勝ガイドの田山さんとかがそういう原稿を書いてた時代です。盤面見て、これだ!と思ってね。もうほんと、これはお金が世の中に泳いでるわ!と思ってね。それで何百万か元手にあれば、これは会得できるはずだと、それでギャンブラーになる訳ですよ。仕事全部辞めてね。それが30歳の頃ですよ。
テ:遂に杉作30代に突入しました。
J:30に突入して、ギャンブラーに突入ですよ(笑)朝から晩までパチンコパチンコですよ。もう朝、夜が明けたらパチンコ。寝るまで閉店までパチンコ。これがもう…あんまり続かなかった。これが続かなかった。お金がなくなっちゃって。何百万かあったのにもうあっという間ですよ。もう負け負け負け負け。もう毎日毎日釘を見てね、店出たらすぐ釘買いに行ってってやるんだけど、わかりゃしないんだよ、これ。やっぱり素人なんかには。気が付いた時には、時すでに遅しですよ。まぁあの、自殺を決意した瞬間ですよ。自殺決意した頃ですよ。一度目の自殺、人生の中での一回目の自殺寸前の時。今でも覚えてます
よ。あの名盤解放同盟の当時メンバーだったピストン原田さんのね、アリスの編集者だった原田さんのお母さんだかが亡くなって、お葬式に行かなきゃ、お葬式に行こうって根本さんから夜電話がかかってきたんだけど、葬式に着ていく服もなければ、靴もないんだよ。靴もなくて、包んでいくお金もないっていう状態だったから、俺はもうおしまいだと思ってね。その時ですかね、これは死ぬしかないと思った頃ですよ。まぁ、ギャンブラー…結局ね、そんな状態だけど、お金がなくなった状態はわりと早かったけど、最終的にそんな生活が2年ぐらい続いたんですかね。2年くらいパチンコ漬けの日が。でも、そっから
また世の中に復帰していくわけですけど。よくあのギャンブラー生活から今みたいに戻れたなと。今ギャンブル全然やらないんですけど。
テ:でも32,3じゃないですか、その時点で。じゃあそこからどう回復していく訳ですか?
J:回復はね、これもう偶然なんですけども。ギャンブルやってたらね、白夜書房とはもうデビューしてすぐの頃から原稿書いてましたから。白夜のね…なんか別に自分の用事があった訳じゃないんですよ。…何かで白夜書房に行った…あぁ思い出した。その原田さん!お母さんが亡くなった、名盤解放同盟の原田さんが白夜の編集者だったんですよ。名盤解放同盟がらみとか原田さんの仕事で…そうだそうだ、原田さんに会いにたまに白夜に行ってたんですよ。
テ:なるほど。
J:そしたら白夜のヤマカドさんって人が、今偉くなってますけど、ヤマカドさんがね「杉作さん、パチンコやってるんだって?」って言って「パチンコやってるんですよ。」「パチンコ漫画の本を立ち上げるんだけど、原作書いてみないか?」って言うんですよ。それで久々にその手の出版のほうに復帰したのかな。原作者の仕事なんてやったことなかったですから、生まれて初めてやりましたけど、そしたら案の定あんまり面白くなくてね。すぐ終わっちゃうんですけど。
テ:(笑)漫画描く訳じゃないんですよね?
J:うん、原作。それで、漫画の原作やってそしたらちょうどその頃ね、プロレスファンで
知り合ってた東芝映像っていう会社があって、東芝映像のプロデューサーがいて、彼とはプロレスファン同志で知り合ったんだけど、プロレスの価値観が一緒だったのかな。全く一緒の価値観を持ってた。それでその人とプロレスの話をいっつもしてたんだけど、ある時にパチンコのビデオをね…その後だよなぁ…その原作始めた頃かもしれないけどちょうど同じ時期に、パチンコのビデオっていうのがよそで出始めて。ウチでも出そうと思うんだけど、杉作さんやろうよっていう話になって、パチンコって題材で、面白けりゃなんでもいいって人でしたから。パチンコっていうパッケージになってれば何やってもいいって
いう。俺が企画と構成を全部やった。表面だけパチンコで中は自由なやつ。でも予算があんまりないからドラマ仕立てにはできないけど、バラエティーものだったら何やってもいいって。いよいよ俺の好きな時代がやってきたなぁ!と思って。ところがいきなり演出は無理だから、それをまずやったのかなぁ。その時に、前から考えてた人たちをキャストする訳ですよ。1本目に出たのがストロング金剛さんとかね、蛭子さんとか…結局3本作ったんです。2本目に出てもらったのが…えー、1本目に出たのがあと石川さんとか。2本目に出たのがみうらさん…3本目が根本さんみたいな。今回の映画にすごくよく似たメン
バーなんです。
テ:なるほど、もうすでに!
J:今回のメンバーに出てる漫画家の人たちは、みんなパチンコの時に出てます(笑)
テ:原型が(笑)すごいほんと戦略的ですよね(笑)
J:戦略的っつーか、戦略的っていうよりやりたいことはいっこしかないんだよ、昔から。
テ:なるほどね。筋が通ってるんですね。
J:やりたいことは昔からもう一本だけですよ。出てもらいたい人たちもずっと一本ですよ。浮気性じゃないですからね、全然俺は。だから、当時それやってる間に、もちろんそれはそんなにバジェットのデカい仕事じゃないですから。面白いだけの仕事で、楽しいだけの仕事だったんですよ。当時のそのディレクターっていうのもパチンコキチガイなディレクターだったから、朝から晩までパチンコに入り浸ってるようなディレクターだったんですけど。そのディレクターがある時、深夜番組始めたんですよ。そしたら、「杉作さんも作家でやらないか?」って話になって。局が日テレだったんですけど、日テレは赤坂近いじゃないですか。「赤坂にいいパチンコ屋あるよー。」なんて言って、俺はパチンコ懲り懲りだったんですけど(笑)それで作家でいき始めて、作家でいってる間に出演もするようになって。それがテレビの始まりじゃないですかね。だから、パチンコからの流れです。ほんで、やってる間にタモリ倶楽部とかにも出たのかなぁ?その番組の作家がタモリ倶楽部もやってて
テ:繋がって…
J:一時間番組でしたから結構作家の人数も多くて、10人近くいたんじゃないですかね。作家の人たちだけで。それでその会にいつも行ってる間に、…どっちが先かわからないけど、タモリ倶楽部も同じ作家さんでしたから。それで再び、物書きから始めるというよりはそっちから復帰したんじゃないですかねぇ。そうこうしてる間に、これはいけないと思ってね、もう体制立て直さないと俺はおしまいだと思ってね。ちょうどその頃、パチンコキチガイのプロデューサー、プロデューサーもパチンコキチガイだった。その日テレの番組の。それが結核で入院したんですよ、パチンコのやりすぎで。貧乏こじらせて。局のプロデューサーなのに全部金をパチンコに使っててね、貧乏のどん底だったんです、その人は。これは俺も反省しなきゃいけないと思ってね。そこから仕事始めたんじゃないですかね。その結核で懲りたんですよ。それでいっつも狭い部屋で、丸一日中みんなで仕事してたから、結核が感染するっていうんでね、みんな結核疑惑が出てきてみんな検診受けに行って、これはいけないと思ってね。当の本人は療養所に入ってましたけど。俺はこれじゃいけない!と思ってね、それで再び仕事し始めたんですよね。パチンコは勝てないと。。。パチンコやって療養所にまで行かれちゃうと(笑)それも局のプロデューサーでですよ?相当もらってるはずの人が全部スって、おまけに結核になるぐらい貧乏のどん底にいるのに、俺なんかが使えばやれる訳ないと思ってね。…それで今に至る。。それで、この映画に関しては、そろそろもういい加減ね、ずーっとやろうやろうと思うことの連続だったんですけど、やっぱりやったら損する訳じゃない。どう考えたって。何もかも破壊される恐れがある訳ですよ。生活から何から。まぁ今、ほんと見事に全て破壊されてますけど。それが怖かったんですよね。ところが、怖いのもあるけど、企業に頼まれてやる訳じゃなくて、自分からやることはずっと考えてましたけど、自分から立ち上げてやるってことなんだから、年齢的にねもう40も回ったし、体力的に今やんないと無理だなと思ったから。それで今始めたんですよ。そしたら案の定、俺の中の生態圏が全て破壊されてしまいましたけど。まだ今ならなんとか頑張れるんだよね。まぁ良かったかなぁと思って。判断としてはギリギリ間に合ったと思って。
テ:杉作さん今、40ですか?
J:今、40…今年で5です。あ、4か。年もわからないぐらい今破壊されて、この2,3年はもう…何もわからないぐらい破壊されてる
テ:え、36年生まれですか?
J:36年。
テ:僕46年です。
J:46年?じゃあちょうど…40いくつ?
テ:いや(笑)僕34です。
J:今年は?
テ:今年で35です。
J:あぁ!じゃあ俺45なんだ、もう…
テ:そうです。
J:うわぁ!もう45だよ…。いやぁ、エライことになってきた…。
テ:でも僕あの、今年から10年間をゴールデンエイジにしようと目論んでるんで(笑)
J:(笑)
テ:その10年間でどんなに楽しいのかなっていう話を今日聞けるかなと思っ
て来たんですけど。35〜45で。
J:一番いい時期だよね。男性として。
テ:きっとそうかも。
J:いやわかんないですけど、そんな感じがしますよ。モテる気になりゃ一番モテる時期だよね。今時代的に。若い女の子達一番好きなんじゃない?その辺の年齢の人が。30代後半辺りはモテるでしょう!これはモテると思うよ。
テ:なんかいろいろあって、まぁ離婚したばっかりなんですよ。
J:(笑)あれ、結婚したばっかりだったんじゃないですか?結婚したんじゃなかったっけ?
テ:ううん、全然。もう12年一緒でした。
J:奥さん一回紹介してもらったじゃないですか。
テ:最初の時ですよね。
J:あの人と別れたの?
テ:そうですね。で、マンション売って、調停もして…
J:景気悪いなぁ(笑)でもよかったじゃないですか、自由になれて。
テ:すごいよかったです。お互いよかったです。ちょっとお金がかかりましたけど。で、やっと身軽になって…じゃあ10年頑張ろうと。
J:じゃあこれからはもう、どうやったって生きていけるよね。男一人ぐらいどうやったって生きていけますからね(笑)
テ:ありがとうございます(笑)
J:いやほんとほんと。あのね今ね、墓場プロで仕事してもらってる若い人たちを見てても思うんだけど、20代とかのほうが生きていけないね。お金ないと。やっぱり40くらいになると収入なくても生きていけるよ。誰かが食わしてくれるもん、飯とかは。友達とかがみんな経費で飯が食えるようになってるから。ほんで後輩もいっぱい出来てるでしょ、年下の。俺今ほんとね、10も20も下のヤツに伝票きってもらって飯食わしてもらって、生活してるんだもん。ほんとほんと。今週一週間のうち半分ぐらいは、仕事もしてないけど…こんなこと言うと怒られるけどそいつらが。全部よその会社の経費で飯食ってますよ。
テ:(笑)
J:なんとかなるんですよ。お金持ってる人たちも出てきはじめてるから、昔からの知り合いで。そういう人たちがなんとかしてくれるんです。いい時代になってきてますよ。だからね、20代の時に仲間集めて映画撮ろうったって無理だと思う。その頃こそほんとにみんなにギャラ払わないと、みんなも生きていけない。今は例えばの話だけど、みうらさんにギャラ渡さないとみうらさんが生活できないかっていったら…みうらさんもそりゃ楽じゃないかもしれないけど、それはない。それは気が楽ですよね。
テ:うーん、そうですよね。
J:蛭子さんにどうしてもギャラ渡さないと、蛭子さんが生活できないかっていったらそれはない。それに甘えてる訳じゃないですけど、なんとかやっていけないことはないっていう。ただ、生活はほんとやっぱりね…それがすっごい怖かったんですよ。なんで映画やらなかったっていうと怖いからですよ。とにかく恐怖心のみですよ。だって例えばの話で、パチスロをやるとかポーカーゲームをやるとか、金銭のかかるギャンブルをやる時ってちょっと怖いじゃないですか。最初始める時。それの最上級のものですよ。だから足がすくんでたんだけど、もう年齢的に今やんないと間に合わないと思ったから。もうこの映画製作っていう怖いギャンブル店に入ってった訳ですよね。今のとこずっと、現時点では…まだ大当たりの来ない、パチンコとか競艇で言うとまだ当たりが来ない…今どこまで持つかという時期でしょう?夕べもね、今言ったパチンコビデオ一緒にやってた東芝のプロデューサーに飯食わせてもらいましてね。その東芝のプロデューサーも、後々…最初プロレスのことで知り合ったんだけど、後々はその人と俺とアライ社長とフユキさんとで、FMWの運営する時期があるんですけどね。それ3年半ぐらいやりました。これもギャンブルの時期だったね!
テ:すごいですね(笑)
J:最終的に4人のうち2人死んじゃいましたからね。それで男の墓場プロっていってるんですよ。
テ:なるほどそうでしたか!
J:4人でWWFみたいな大映像会社にしようっていって、結局ディレクTVの搭載以降、二人亡くなっちゃいましたから。かっとばしますけど、それが二回目の自殺の時期ですよ。これは本当に自殺しようと思ってね、それで熱海に行った。熱海の海で飛びこんで死のうと思ってね。当時の東芝映像のプロデューサーも東芝退社して、今四国にいるんだけど。4人のうち一人四国帰って、二人死んで。。。これもう生きてられないと思ってね。熱海に死にに行く時に、東芝のプロデューサーの部下だった男には、そいつだけには連絡してた。今から俺は死に行くんだと。「いやぁやめてくださいよ!」みたいなこと言ってたけど、いやもうダメだっていうんで、それで熱海に。それが墓場プロ立ち上げの年の1,2年前じゃない。それで生きてるわけには行かないと思って。死のうと思って。それで今回の一作目のロケ現場も熱海なんですよ。墓場プロっていってね、とにかく死んだつもりでやってる。死んだつもりじゃないとね、このギャンブルは無理だよ!!
テ:(笑)
J:なんの可能性もないですよ今。未来の。いわゆる普通の意味での。例えばの話、女性と仲良くなろうとか結婚申し込むってことはありえないもんね。生活が維持できないんだもん。例えば俺一人だったら友達に食わしてもらえるけど、カミさんまで食わしてもらえるかっていったらそれは無理でしょう!俺は、自分がどれくらいの男っぷりかはわかってるから、ヒモになるほどの男っぷりと女性に対してのキメ細やかさはないし。それがちょっと怖かった。…そんな日常ですよ。だから今はどうだっていいって感じでね。どうだっていいけど別にヤケクソになってる訳じゃなくて、やるからにはね、ほんとさっきから言っ
てたその正義心が年齢を越えていってるしね、世の中からまともな男像みたいなものが消失しようとしてるから。なんとしてもこれを復活させるためには、まぁ一命を投げ売ってていう気持ちはありますよね。どうやったってにっちもさっちもなんですけどね。

【杉作J太郎さんより高円寺の若者たちに男のメッセージ!!】
「まあ、どうにだってなるってことですよ。女の子も今の時代どうにでもなるのかもしれないけど、ほんとどうにでもなるしね、死ぬなんてことも隣り合わせだし、生きていようと思えば生きてられるし、お金ももうけようとしたらもうけられるし、お金なくなっても生きていこうと思ったら生きていけるし、まあ、どうだっていいってことですよ。俺は今思うのは人間どうだっていいってことだね。だから自分が信じていたことはやればいいんじゃないですか。」

【J、吠える。】
「量産で3本目、4本目、5本目、100本目と作り続けていきますんでね。これほんと冗談でやってるんじゃないいから。なんとか資金調達も順調なんで、1回はじめたからには死んだつもりでって言ってるけど。テクニック的なこととか、今の時代ですよ。テクニックや技術はみんな素晴らしくなってると思います。すべてのジャンルが熟成してるんだから。たとえば雑誌。昔と比べたらデザインの割付とか絶対今のほうがいい。テレビ番組のCGとか。テクニック的なことは全部よくなっている、じゃ何かが悪くなっているだろう、そっちを観てくれってことですよ。観にきてもらいたいんだけど、そっちを観て欲しい。これが正しい男の道だっていうのを同調している人たちだけで作ってますからそこを観てもらいたい。普通の映画とは作ってるプロセスがすごく違うから。」

【映画上映情報】
4月22日から下北沢シネマアートンで追加上映決定!!
「任侠 秘録人間狩り」「怪奇 幽霊スナック殴り込み」の豪華2本立て
とんでもない超豪華出演陣はこちら↓
男の墓場プロダクション
http://www.otokonohakaba.com/

| テリー植田 | フリーペーパー | 11:23 | comments(0) | trackbacks(1) |
2006.03.22 Wednesday
農園買いました!

これがマイ農園!!なんと30平米もあるのです。

詳細は、農園ブログをご覧アレ。びっくり
http://terryuedafarm.jugem.jp/
| テリー植田 | フード | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) |